第3話 『それは、受胎の家』
大樹に空いた天然の門を潜るなり、少女は緊張していた。
この少女には当然、他人の家を訪れた過去など存在しない。
何とも落ち着かない様子で、巨大の1枚の木目の床を一歩一歩丁寧に歩いていた。
「あっ! これ、みてくれ!」
それを聞いた少女は、俯いていた顔をキーラへと向けた。
「……えっ? 何、これ……」
そしてそのまま、キーラの指を差した方向へ視線を向けると、そこには少女の緊張をより増幅させる物があった。
「オレたちがいままでくってきたどうぶつたちをかざってるんだ! かっこいいだろ!」
十数体の動物の頭が、左右の壁に等間隔で飾られているその光景は、第一に狂気というのが相応しく思えた。
牛のように見えたり、虎のように見えたりする物もあったが、それらも含め、全ての頭が少女の元いた世界には存在しない異形の生物の物であった。
「……す、凄い……ね……」
動揺しつつも何とか繕ったその言葉を聞いたキーラは、分かりやすく口角を上げて笑った。
そんなキーラに対し、適当に誉めた少女はキーラに恐怖を感じていた。
キーラが一時も離すことのない右手の槍だけでなく、時折見せる子供らしい仕草やその無垢な表情にさえも。
「パーとマーがいえからでられないからな。オレがパーとマーののくいもんをもってかえってきてるんだ! あっ、ここ、のぼってくれ」
気を良くしたキーラは、自身の功績をより詳細に伝えつつ、丸太の螺旋階段を数段登っていた。
少女も特に返事もせずに静聴し、その後をついて行くが、2人の距離は僅かに、しかし確かに広がっていた。
そして、階段を登り切って階が変わるなり、少女はまた驚愕した。
「……えっ……凄い…………」
今度は適当に当てはめた言葉ではなく、自然と少女の口から出ていた。分かりやすく語彙力が喪失させられるほど、その光景は驚くべきものだったのだ。
階下がただの通路だったのに対し、少女の視界に入ってきたのは、紛れもない家内だった。
外から見えていた窓のような四角い穴、丸太で作られた大きい机に、同じく丸太で出来た椅子が3つ。更には、丸太で出来上がっているにも関わらず、何故か完成されている暖炉まであった。
「オマエはここらへんでまっててくれ! まあ、そとにでないでくれればだいじょうぶだけどな!」
そう言った途端、キーラはどこかへ走り出し、少女がそちらを振り向く頃には既に姿を消していた。
「……あっ…………行っちゃった……」
待て、とは言われたものの、目の前に広がる家庭感溢れる環境は、少女の足を動かせる。
眺めるだけでも甦りかけていた少女のとある思い出が、歩みを進める度に形を作っていく。
不幸だと感じていなかったあの頃……まだ家族3人で食事を行っていたあの頃は、もう取り戻すことはできない。
いや……あくまで取り返しがつかなくなっただけであり、既に取り戻すことなど不可能だったのだ。
……父親が母親に殺され、自分も襲われかけていた元の世界は、今頃どうなっているのだろうか?
丸太の机に触れ、何となくそんな想像をするが、未練もやり残したことも無い少女にとって、そのような想像は無駄だった。悲しみも怒りも想起させず、ただ呆れるばかりの過去だったと振り返り、その手を離す。
そして、手を離すと同時に、ふと不思議に思う。
「……台所……ないの……?」
食事といえば、と思い出し、辺りを見回してみるが、調理場が見当たらない。
階下で見た動物の頭からして、食事は間違いなくしているのだろうが、調理をせず食べることなど人間として不可能な以上、調理場が無いはずがなかった。
「…………生で……食べてるの……?」
何周見回しても、らしい場所さえ見つからないことで、少女はまたキーラに恐怖を覚える。そして、その両親にまでもその恐怖は及ぶ。
少なくともこの世界で生きるためには、この家で暮らす必要がある。そして、そうするためにはキーラの家族との関係の構築以前に、自分が暮らせる環境が整っている必要があるのだ。
これからの未来を想像した少女は、早足で調理場を探し始めた。
「──どこ……?」
調理場を探しているついでに、食器の存在も確認できなかったことが、少女の足をより力ませる。
先の部屋を出て、右へ左へと東奔西走する。その過程で、沢山のドアの無い小部屋を見つけるも、勝手に入って良い場所なのかどうかを少女は知らない。
無論、空き巣になる予定など無い少女は、それらの全ての部屋に入ることを躊躇っていた。
「……はぁ……どうしよ…………」
ため息をつきながら、少女は結局仕方なしに元いた場所へと戻ってきていた。
普通の人間らしく生きたいと願い、転生の道を選んだにも関わらず、このままでは異形生物を貪り食う生活が始まってしまうかもしれないと危惧すると、少女の身体は無意識に縮こまり、そのまま部屋の隅へと蹲った。
先が思いやられる状況だが、まだそうなると確定しているわけではない以上、やはり素直にキーラを待ち、その後に両親にも話を聞いて、もしものことがあれば諸々配慮してもらおう、と一旦心を落ち着かせようと試みる。
──ドンッ……
そんな最中、突然の物音に不意に少女が頭を上げると、どうやらその音は少女の右隣から発せられたらしいことに気づいた。
しかし、少女の右隣は壁であり、指し示すところ、発生源はその壁が隔てている隣の部屋からだった。
「……キーラ……?」
何気に初めてその名を呼び、立ち上がってそちらへ向かう。
そして、部屋の扉の前まで辿り着くと、危うく未解決になりかけていた問題の手がかりがあった。
他のどの扉にも無かった、木製のドアプレート、そこに書いてあった異界の文字。
「……ごはん……?」
今の今までその文字を見たこともないはずの少女は、その文字を無意識に解読した。理由は勿論不明である。
しかし、今はそれよりも、恐らく食事場であろう場所が見つかったことに安堵する。
わざわざ部屋を分けているのだから、きっとここに、調理場もあるに違いない、と考えた少女は、躊躇せずにその扉を開くことに決めた
恐る恐る……とまではいかないが、人様の家の部屋を勝手に覗くからには、それなりに慎重に扉を開いていく。
しかし、徐々に隙間から光が差し込んでいく様子を見て、疑問が生まれる。
「……誰も……いないの……?」
間違いなくこの部屋から物音がした。にも関わらず、一切人の気配を感じない。
更には、扉を開けた時点で中の人物からの反応が返ってきてもおかしくないが、それすら無い。
それらを推理して、この部屋は無人であると判断した。
もう半分ほど開けてしまった無人の部屋の扉を、まだ慎重に開ける必要など無い。
そのため、少女はすぐさま調理場問題の解決へと思考を切り替える。
──そうして……少女はその扉を完全に開いてしまった。同時に光の差し込む入口も広がり、部屋の中が薄明るく照らされる。
「──ひっ!!……な、何!……これ……!」
少女が部屋を開いて見たもの、それは、薄明かりに照らされた紅梅色の『何か』が蠢く姿だった。
全長凡そ2メートル程の半固形の身体は全てが紅梅色で、手足の所在は不明。頭部らしき物が、その紅梅色の塊から唯一突起しているが、目も鼻も口も見当たらない。
──アァ……アアァ……ァァアア……
『何か』は嗄声のような音を出しながら、こちらの様子を伺っているような気がした。
今感じているのは恐怖なのか軽蔑なのか、どちらにせよ少女にとって不快そのものだった。
しかし、すぐにその場を離れることができず、ただ手足を震わせたまま佇んでいた。
「──いいばしょでまってくれてたすかったぞ!」
──突然聞き覚えのある声が背後から聞こえた瞬間、少女の後頭部には鈍い痛みが訪れた。
そして、痛みを痛みと理解する間も無いまま、少女はその場に倒れ込む。意識が霞み、視界は次第に闇へと変わる。
「マー……まだたべちゃ、だめだぞ?」
* * * * * * * * * * * * *
「……おーい、瑞香ちゃん? どうしたの? 食欲無い?」
「……腹の調子でも悪いのか?……キーラ、なんか知ってるか?」
「んぁ? オレはなんもしらないぞ?」
気づくと、少女は椅子に座っていた。そして、目の前には変哲の無い食事が用意されており、辺りには3人、キーラと、男女2人がいる。
「……もしかして、食べたくない? 嫌だったら、無理しなくてもいいのよ?」
「……あっ……いや…………」
並べられた食事と、少女の表情を伺う3人の光景は、少女が望んだ理想の未来だった。同時に、少女が忘れようとしていた過去とも酷似していた。
しかし、「どうして自分は食事をしているのか」という疑問が少女の脳裏を度々よぎり、この状況を完全に受け入れることを許さない。
「…………違う……」
「そう! なら良かった! ゆっくり食べていいからね?」
キーラの母親と思しき女は、確実にこちらに笑顔を向けている……ように見えた。口元から上、顔の上半分が何故か知覚できないため、口角の上がり具合のみが判断材料である。
そして、それは女の向かいに座っている父親らしい男も同じであった。
いくら見ようとしても、見ることができない。まるで、初めから存在していないかのように──
「──違う…………!」
「どうしたの? 瑞香ちゃん──」
打ち勝ったのは目の前の虚実ではなく、よぎる現実の記憶だった。少女には似合わない声量が、不意に飛び出る。
少女は思い出した。部屋に入った瞬間に見た謎の紅梅色の生物と、気を失う直前に聞いたキーラの声を。
「…………目……覚まさなきゃ……!」
今、間違い無く自分の身に危険が迫っている。そのことを本能的に理解した少女の視界は、次第に歪んでいく。
本来望んでいた、これからの未来の景色。
本来望んでいた、有り得たはずの過去の景色。
それらを切り捨てて、少女は目覚めた──
「……ぅ……んん…………痛っ……!」
ぼんやりと目覚めると、自分が足を伸ばして座っていることに気づいた。直後に、後頭部に残っていた鈍痛が、意識を確立させ、図らずして視界が広がる。
──その瞬間視界に飛び込んできたものに、少女の理解は追いつかなかった。
「…………何……してるの……?」
少女の目の前には、横たわって動かない紅梅色の生物と、キーラが立っていた。その腕に、布のようなもので包まれた『何か』を抱えながら。
「あちゃー……また、うまくいかなかったなぁ……なくなよ、マー」
キーラは、微動だにしない紅梅色の生物を見ながらそう言った。その言動が、少女の理解をまたもや超越する。
「……それが……お母さん……なの……?」
人の形を成していないそれが、人であるキーラの母親であるなど、少女にとっては俄に信じ難い話である。
しかし、キーラの抱える布の中身が明かされた時、少女は怯えの言葉を出す余裕も無かった。
キーラが抱えていたのは、胚──それも、半融解状態となってしまっているが、限りなく人間に近い形を模したものであった。
「──あっ! 目、さめちゃったのか!?」
こちらを見て仰天するキーラは、自身の腕の中と少女を何度も交互に注視していた。
隣の『母親』が動かない今、キーラを説得する機会は今しかないと踏み、キーラへ近づこうと体を傾けるが、同時に少女は自身の胴体が背後の丸太に括り付けられていることに気づいた。
「──何っ……これ…………!」
少女の死角の結び目に手こずり、非力な腕を雑に動かすことしかできずにいると、キーラは胚を抱えたまま部屋を出て行ってしまった。
「──あっ、待って……!」
後を追うことを、素材の不明な紐が許さない。
それ程固くは結ばれていないがために、抵抗こそしなければ楽でいられる。
しかし、キーラが離れ、少なからず危険が薄くなったとはいえ、その状況は少女の畏怖する対象が1つに集中するだけであり、少女が紐を解かない理由は無かった。
「早く……解けて…………!」
思考と視界ばかりを何度も走らせるが、一向に状況は一転しない。それどころか、無理をして抜け出そうとすると、胸部及び腹部の圧迫が強まり、呼吸が困難になる。
「はぁ……はぁ…………」
酸欠か焦りか、少女の呼吸は荒さを増すのに対し、キーラが居ればまだ話し合いの余地があったのかもしれない、と少女の思考には後悔する余裕ができている。
自らのエネルギーを、自らに浪費するばかりの行動に嫌気が差したのか、少女の抵抗は徐々に激しさを失っていった。
そんな少女の元に、吉と出るか凶と出るか、もう一度好機はやってきた。
「──あっ……お、お願い!……話を……聞いて……!」
どんな人間でも、自分が窮地に陥った時、どんな相手にだろうと縋ろうとしてしまう。
たとえ、自分に危害を加えていた人間であろうと──
「……マー、おきろ。パーもきたんだ。ごはんのじかんだぞ……」
また、少女は言葉を失った。今度は言葉だけでなく、思考さえ虚無にされるだけの衝撃が、少女を襲ったのだ。
幸いにもその時間は長く続かず、思考だけはすぐに取り戻すことができた。しかし、悲哀とも憤怒とも判断のつかない感情ばかりが脳を埋め尽くし、再度の思考停止まではそう長くなかった。
ただ呆然とする少女の目の前で、蠢動を始める『母親』と、外見がほぼ同じ『父親』が、キーラの背後から這い出てきた。
「ほんとうは、ねてるうちにかぞくにしてやりたかったんだけどな……? もういっかいなぐったら、しんじまうかもしれないからさ…………いたいかもしれないけど、そのままくわれてくれよ」
立ち去るキーラは、切なげとも嬉しげとも取れる表情を最後に、その部屋をもう一度去っていった。
「待って!」と言う少女の願いは、キーラに届かない。
そう、少女は躊躇うことなく足を踏み入れてしまったのだ。
──その、受胎の家へと