第19話 『消えない焔』
──兄が『十の聖剣』に就任した。
兄と訓練をしなくなってから、早くも約10年の歳月が流れた。
互いに訓練を怠ることはなかったはずなのに、兄との力の差が見る内に広がっていった。
たかが親の言いつけなのだから、破ることなど容易かっただろう。
──たとえ1人であろうとも兄を超えることができるに違いない。
しかし1度も破らなかったのは、そんな考えが心の根底にあったからかもしれない。
もしかすると、兄も自分を必要としていなかったのではないか。魔法の練習も、自分がいない方が行いやすいのは確かだ。
そんな疑いが生まれていた最中、この知らせを聞いた時の感情は、思い出すにはあまりにも複雑だった。
原則として城に常駐しなければならない『十の聖剣』の兄は、家に帰ってくることもなくなった。
そんな兄がいなくなってからは、弟の訓練意欲も次第に低下していき、壮年末期の両親を支えることに徹するようになった。
年々足腰が弱っていく両親に代わり王都へ向かう頻度も増えると、そこで兄の名前を聞くことも多くなった。
若くして勲三等まで昇進した氷使いの騎士。
兄が家を出て、丁度1ヶ月が経過する頃の俗称だった。
油断すると、紙袋に入った果物や野菜を放り投げそうになる。
王都のどこへ訪れても、知った名前を聞く。複雑な苦痛が足を運び、唇を噛み締めながら帰路に就く。
事情を知らない両親は、帰ってくる弟を笑顔で迎えるが、弟は決して兄の功績を両親に伝えようとはしなかった。
──自分の中で、今も尚燃え続ける想いを絶やさないために。
* * * * * * * * * * * * *
それから数ヶ月経った頃、国に冬が訪れた。
周囲の山々は漏れなく白く染まり、幼い頃の兄弟が欠かさず訪れていたはずの高原も、今や雪原と化していた。
炎が必須となる冬の夜に、弟は両親が寝静まった所を見計らい、例の雪原に向かっていた。
外は極寒、幾度となく雪の結晶が弟の身体を冷やしたが、弟はそれでも進み続けた。
──氷を我が物にするための、残された可能性を信じて。
麓まで辿り着くことさえ一苦労であり、とても幼い頃に通い慣れていた道とは思えない。
踝までで留まっていた積雪は、斜面を登るに連れて一気にせり上がっていき、最終的には膝下を完全に埋もれさせていた。
──寒い、寒い、寒い……冷たい。
悴む両手を無理やり開く。
果たしてこの手の震えは、本当に凍えによるものなのだろうか。
凍傷を覚悟して、雪を両手に握りしめる。
掌を始め、寒さを通り越した激しい痛みが身体中を襲う。
雪が人肌に融け、真っ赤に染まった自分の両手を再度見て、弟は独り言ちた。
「……なんでだよッ!!」
痛む拳を怒りに任せて叩きつけるも、無情な白の中に心と同時に沈む。
「……どうして……僕は……ッ!」
このまま吹雪の中に消え去りたいとさえ思った。
どれだけ凍えても、理解するのは魔法の使い方などではなく、冷酷な事実のみ。
「──僕は……兄さんを……!」
最後の想いを振り絞り、左手を夜月に翳す。
──その瞬間、微かに左手が煌めいた。
奇跡か否か、刹那の出来事に弟は言葉を失った。
しかし目に焼き付いたその光景は、間違いなく自分の追い求め続けたもの──兄に憧れ続けていた自分だからこそよく知っていたもの。
「……でき……た……!!」
たかが一瞬、されど一瞬。1度感覚を掴んでしまえば、どうとでもなる。
弟が安堵していると、気持ちに呼応するかのように吹雪が止んだ。
寒さも僅かながら緩和され、気力漲る足で1歩1歩積雪を踏み締める。
『十の聖剣』の兄を、漸く眼前に見据えることができるような気がした。
淡い期待を持たせることしかできなかった両親に、漸く顔向けできるような気がした。
微かな魔法が弟に与えた希望の大きさは、とても計り知れない。
弟が家の扉の前まで辿り着いた頃、既に月も沈みかけていた。
当然両親は寝ているはずだが、早くこの事実を伝えたくてしょうがない弟は、勢い良く扉を開いた。
──そこで目にした光景は異様だった。
両親は既に起床しており、家の明かりも灯していた。
しかし、何やら両親の様子は普通ではなく、無性に咳き込んでいたのだ。
「……お、おい……! どうしたんだよ!?」
弟の姿を見て当然驚く両親だったが、話しかけることも不可能なほど、その咳に酷く苦しんでいた。
予想外の両親の姿に、弟は立ち往生することしかできずにいた。
「……そ、そうだ……薬を──」
──薬品を取りに行こうと踵を返した瞬間、絶望の衝撃は訪れた。
頭が割れるように、体が千切れ裂けるように痛んだ。
それも一瞬などではなく、時が経過すればするほど痛みは増していた。
悶える弟は、後ろで咳き込む親の比ではない。
時期に身体中を電撃が駆け巡るような痛みさえ訪れ、立っていることが不可能になり、その場に膝を突く。
──弟が苦しみに屈したその一瞬が、最悪の事態を招くこととなった。
次に瞬いた瞬間、家中に炎が蔓延していた。
前後左右、天井、床も、木製である家はいとも容易く燃えた。
「……なんだよ……これ……ッ!」
弟は、この炎の発生源が自分であることに気づいていた。
左手が覚えていたあの感覚を、四方八方から感じていたのだ。
燃え盛る家は次第に崩落を始めていき、鳴り響く轟音が背後の両親の叫び声をかき消していく。
「……氷を……魔法を──!」
それでも希望を失わず、懸命に手を翳した。
しかし酷なことに、発する魔法は全て周囲と同じ炎。
炎は消えるどころか、勢いを増すばかりである。
「……そん……な…………」
辛苦、焦燥、絶望──弟は動くことができなかった。
これ程までの危機でさえ、自分には何もできない。
──自分が弱いから。
やはり自分は、兄のようにはなれない。
「──フレイム!!」
弟の名を呼んだ声の主は、騎士団服を着こなした美しい白髪の青年──10年ぶりの兄だった。
兄は焼失した扉を踏み、躊躇いなく燃え盛る家の中に走った。
周囲を見渡し、自身の魔法を使った兄だったが、炎は全く消化されず、生成される氷が昇華していくばかりだった。
無意味をすぐに悟った兄は、目の前の弟に肩を貸し、家を出ていこうとする。
「……兄さん……まだ……! 後ろに……父さんと母さんが……」
弟の弱々しい声は確実に兄に届いていた。
しかし、兄は足を止めることも、振り返ることもせず、ただ真っ直ぐ進み続けた。
弟はその後も何度も兄に叫んだ。非力の自分なんかより、両親を救うべきだと。
それでも兄は1度として聞き入れることはなく、抱えた弟と共に家を出た。
──同時に、家が完全に崩落した。
10年ぶりの兄弟の再会は、両親との死別で始まった。
「……何で……何で父さんを! 母さんを見殺しにしたんだよ!?」
兄の後ろ姿に、弟は罵声を浴びせた。
仮にも相手は自分の救世主であるということを理解していても尚、弟は兄が許せなかった。
「──お前のその氷は……! 何のためにあるんだよ!!」
弟はひたすら糾弾した。火傷1つ無いその頬に涙を垂らしながら。
兄は黙って振り返り、髪が紅く染まった弟の姿を見て、一言だけ告げた。
「……すまない」
その時弟は初めて気がついた。
兄の切なげな表情に。
誰よりも家族を憂えていた、その心に──