第1話 『少女はただ救済を願った』
1人の少女が、夕暮れ時の空の下で、家路を辿っている。ただ、少女の纏う制服は湿っており、夕風と共に少女の体温を奪う。
その道は、決して田舎道とは言えないが、人通りが一切なく、都会として捉えるのももどかしい。
そんなことなど、今まで気にも留めたことのない少女は、ただその中途半端な道を歩く。
──自分の唯一の居場所はそこにある。
* * * * * * * * * * * * *
5時間目の授業が終わった頃、少女は朝の彼女等との会話を思い出していた。
──お前、昼休みなったら玄関。
本当に女子なのかと疑いそうになる口調に、少女はもう何の感想も抱かない。
少女はこの命令に従う気など更々無かった。
従えばどんなことをさせられるのかは、少女は嫌と言う程知っているいるのだ。かと言って、従わなければ従わないで邪悪な制裁が来る。
帰する所私にとって同じ損益なのだから、相手にとって不都合になる方を、と少女は考えていたのだ。
──そうこう考えていれば、問題の彼女等は来た。
「……なんで言うこと聞いてくれないのかなぁ~?」
「私たちは別に、ちょっと仲良くしたいと思ってるだけなのにさぁ~」
少女はそうして、彼女等に無理やり女子便所へと連れて行かれた。
この程度の事で、少女は何も思わない。こんな生活には既に慣れ切ってしまっているからだ。
少女達が出ていった直後に、次の授業を受け持つ教師がやってきた。
「よーし、授業始めるぞ~」
騒がしかった教室は、教師が来ると同時に静まり返り、生徒が全員席に着いた。
教師は教壇に立つなり出席確認を始める。そして、いつもの不良女子達と、少女──五十州瑞香が居ないことを知った。
しかし、教師は何食わぬ顔で授業を開始した。
そう、この人間も、少女達の事情を知っている人間の1人である。
更に言えば、この教室に居る全員はその事を知っている。
しかし、誰もその事を告げ口しない。
まあ所詮は教師らも知っているので、告げ口をしたところで意味は無い。
仕方の無いことである。
大衆心理とはそういうものであり、元々人間とは奸邪な生物なのだから。
そして授業が進み、板書もある程度埋まってきた頃だった。
「じゃあ……この問題を……」
1人の愚劣な教師が、生徒に問題を答えさせようとする。
「──あの……先生……お腹痛いので、トイレに行っても……」
1人の愚劣な少女は、教師に花摘みの許可を得ようとする。
この一連の流れだけを見れば、何の違和感も無い、ただの教師と生徒の会話である。
「ん?ああ……良いぞ。……この階のは水が流れにくいらしいから、下の階のを使った方が良いかもな」
その教師は、息を吐くように嘘を吐いた。既に自分の中でテンプレートされていた虚言で、その少女を気遣う。他に尊重すべき人間を無視して──
「あっ……はい……」
そしてその少女は静かに、教室を立ち去り、下の階へと向かった。廊下にまで響いている、不良女子達の笑い声を聞き流して──
この2人はなんと愚かなのだろうか。
2人はこの一連の会話に、未だ罪悪感を覚えている。
そんな感情をまだ覚えているというのなら、いち早く少女を助けてやれば良いのだ。
同じことを考えている人間は、少なくともこの教室にあと数人はいる。
しかし、そういうわけにはいかない。これが、大衆心理というものだから。
そして少女は、今日もまた、身体と心を穢されて帰宅する。
我が家と呼ぶのも忌まわしいその家に。
* * * * * * * * * * * * *
少女は一軒家の我が家へと辿り着いた。
少女の肩から腹部までの衣服はまだ乾ききっておらず、汚れた水気を含んだままだった。
少女が玄関に足を踏み入れると、いつも通りの罵詈雑言がリビングから聞こえる。少女の母親と父親の声だ。
いつからこの関係が始まったか忘れる程、毎日毎日飽きもせず罵り合いを続けている。
当然少女を出迎えたりなどはしない。
家の中を汚さないよう、少女はその場で汚れた制服を脱ぎ、洗面所へと足を運んだ。
少女は、洗濯機に汚れた制服を無造作に放り込みながら、「自分ほど不幸な者は居ない、自分ほど人生を他人に穢された者は居ない」と考えていた。
それは決して、少女の心の弱さが齎した妄想でも、過剰な悲嘆でもない。
リビングから響く夫婦の罵り合い、そして、たった今スイッチを押した洗濯機の中──少女にそう思わせるだけの紛れもない事実が、そこに存在しているのだ。
外へ出ようと内に籠ろうと、少女に普通の人生は与えられない。
しかし、内の内は違う。
少女の唯一の居場所、それは少女の自室である。
着替えを済ませた少女は、晩飯も用意されていないリビングになど目もくれず、その居場所へと向かった。
あの夫婦の仲が良かった頃に気合いを入れて買ったこの一軒家では、2階に登れば1階の罵声はかなり緩和される。
そして、部屋の扉の前に立ち、少女は異変に気づく。
「──また……増えてる……」
部屋の扉の傷──刃物で意図的に付けられた傷跡。大きいのが2つ、小さいのが3つ。
以前見た時は、小さい傷跡が3つのみだったので、どうやら加害者はそろそろ本気で壊しに来ているらしい。
とは言え、壊すために傷を付けられているわけではなく、ただ怒りをぶつけられているだけだということを、少女は理解していた。
しかし、壊れていなければ何の問題も無い。
少女は気にせず、自分だけの空間へ足を踏み込んだ。
部屋に入ってすぐに鍵を閉め、少女は喟然とした。
窓から夕日が差し込んでいるが、外を歩いていた時よりはかなり闇が混じっている。
鞄をその辺に放り、カーテンを閉める。そして、部屋の電気を点けようと試みるが、点くことはない。
少し前に、部屋の電気が切れてしまったのである。勿論、あの夫婦に相談するわけにもいかないので、数日そのままにしている。
日を跨げば良くなるかもしれないと思い、毎日帰ってきた時に壁のスイッチを押して確認していたが、恐らく直ることはないと、半ば少女も理解している。
しかし、少女にとって部屋の暗さなど関係無く、スマホのライトで机周りを照らし、フックに掛けてあるワイヤレスヘッドホンを一旦首に掛け、机上のパソコンに向かう。
──します。
デスクチェアに腰掛けた瞬間、突如聞こえた謎の声に、無口な少女も思わず「えっ?」と発する。
しかし、少女の声が部屋に響くのみで、謎の声がそれから聞こえることはない。
パソコンの電源が入っていたのだろうかと思い、ディスプレイを確認するが、映るのはライトの反射による黒い少女だけである。
下の階にいる夫婦の声がこの部屋にまで、そして言葉が鮮明に聞こえるほど届くわけがない。そもそも、先程の声は夫婦のどちらの声でもなかった。
不気味だと感じつつも、数秒考えた後に疲れのせいだと方を付けて、長いこと気にすることはなかった。
ヘッドホンをしっかりと装着し、パソコンの電源を入れようと本体の電源ボタンへ手を伸ばす。
──を開始します。
ボタンを押す直前で、その声がまた聞こえた。
開始する……とは何のことだろうか?
このヘッドホンはワイヤレスではあるが、こちらもまだ電源を入れてないので、システム音声が聞こえるわけがない。
2度も聞こえると、気のせいにしようにもやや無理がある。しかし、この声の正体が何なのかを突き止める術を持たない少女は、ただ振り返り、スマホをあちらこちらへと向けて辺りを見渡すしかなかった。
「……何……なの……?」
返事を期待したわけではないが、そう言わずにはいられなかった。
静かにしていれば、もう一度その声が聞こえるかと思い、暫く黙って目だけを動かし続けるが、元から音源など存在していなかったかのように、その声は聞こえる予兆が無い。
──ザァーーーーーッ!
突然背後から聞こえた大音量のノイズ音。耳を澄ませていたせいで、余計に驚愕が増す。
「──な、何!?」
反射的に起立してしまったことで、ヘッドホンが外れてまた首に掛かる。振り返って見ると、使おうとしていたパソコンが砂嵐を起こしていた。
本来ならディスプレイの障害だと冷静に疑えるはずが、先程までのホラー現象が残した不安のせいで、それは少女に追い討ちをかけることとなった。
「こ、壊れた……?」
無意識に非科学的な現象ではないと自己暗示をすることで、自身の心を落ち着かせようとする。
しかし、もし本当に壊れていたらどうしようという気持ちも生まれ、結局落ち着くことなどできなかった。
砂嵐の要因が何であろうと、少女にとっては恐ろしい事実が待っており、中々ディスプレイを調査する気にならない。
それでも、鳴り続けるノイズ音に急かされ、少女はその手を動かさざるを得なかった。
恐る恐るディスプレイに手を近づける。しかし、少女の細く白い肌の手の動きは遅く、パソコンはすぐそこにあるにも関わらず、調査に時間をかける。
漸くディスプレイのフレームに触れたが、砂嵐の状況は当然変わらず、画面をじっと見続けることしかできない。パソコンの操作や設定については人並みに分かる少女も、内部の回路やら仕組みやらがどうなっているのかまではまるで知らない。
しかし、少女の心を落ち着けるためには、分かるはずもない直し方を模索する他なかった。
にも関わらず、突然少女は手を止めた。とある重大な問題に気づいてしまったからだ。
「──電源……点けてない……よね?」
口に出してしまったことで、少女の背筋が益々凍りついた。電源の入っていないパソコンのディスプレイが、黒の鏡以外の仕事をするなどあり得ない。
しかし今、少女の目の前にあるそれは、間違いなく謎の動力で砂嵐を表示している。
不思議と感じたり、驚愕したりといったことは最早ない。目の前に存在する単純な不気味が、少女を襲った。
「な……何で……?」
無意識に後ずさりしていた少女は、すっかり背を隙間なく扉に付けていた。手に持っていたはずのライト代わりのスマホもいつの間にか落としてしまっていたようで、デスクチェアの足元付近から、光が拡散しながら上へ伸びている。
だが、それは冷静を欠いた少女の視界に入らず、少女は自動で光と音を発している謎のディスプレイにしか注意を向けられずにいる。
──だからこそ、その画面に何らかの変化が起こった時、すぐに気づくことができたのだ。
ホワイトノイズの中に、何か文字が入力されていく。距離が離れているせいで、それが何と書かれているのかまでは視認できなかった。
──そうして、少女が入力された文字を読もうと、背後の扉から身体を離した瞬間だった。
──ガンッ!!
背後の扉が揺れた。鍵も閉められ、金具で固定されているにも関わらず、壁との隙間という僅かな可動範囲で大きく揺れた。
伴った大音量の衝撃音に、ディスプレイに意識を集中していた少女は扉の方を向いて尻餅をつく。
「──瑞香ァ!! ……アンタも邪魔よォ!! 開けろォ!!」
扉の向こうから聞こえた獣の声は、正しく少女の母親の声だった。獣と例えるに相応しく、純粋な怒りや憎しみを込めて叫ばれた言葉は、威嚇そのものであった。
「ガンッ!!」「ガンッ!!」と鳴り続けるその衝撃音は、鳴る度に音を大きくしていく。音が大きくなるにつれ、少女の呼吸も荒さを増していく。
──そして、とうとう扉から薄い紅の刃が飛び出した。瞬時に抜かれ、また突き刺される。また抜かれ、突き刺される。
扉に空いた細い穴から、光が差し込むと同時に、殺人を全く厭わない母親の瞳が映り、少女の恐怖心を限界まで掻き立てる。
「……や、やめて……来ないで…………!」
か細く震えたその声は、扉が破壊される音にかき消され、少女自身の耳にすら届かない。
そして同時に少女は理解した。本当は死を恐れていたということを。
少女に度重なる不幸が、死という概念に纏わり付く恐怖を失わせていた。そう思っていたが、いざ目の当たりにすると、失っていたはずの恐怖がまだ存在していたことに気づく。
特別生きたいと思わせる目的があるわけでもないが、少女はただ、「死にたくない」と心で感じていた。
──異世界転生を開始します。
長い間を置いたわけでもないのに、突然のその声は懐かしく感じた。しかも、今度は明確に言葉の意味を理解できた。
「──異世界……転生……?」
少女にとって、それは馴染みのある言葉だった。
部屋に籠り、ひたすらパソコンを使って見ていたアニメや漫画で、そんな言葉をよく聞いた。
それを思い出すと同時に、ふとパソコンの方へ振り返ると、ディスプレイに表示されている文字が確認できた。
[YES or NO]
ホワイトノイズの中に入力されていたのは、至ってシンプルな単語のみ。だが本当にその単語のみで、それが何を『YES』とし、何を『NO』とするのかまでは明記されていなかった。
勿論少女も何を意味するのか理解していない。しかし、もしかすると…………そう考えて、恐怖で震える足でどうにか立ち上がる。
そして、ゆっくりとディスプレイに近づく。
背後で扉が破壊され続けていることを一瞬忘れてしまうほど、少女はとある衝動に突き動かされていた。
少女が机上のマウスを動かすと、カーソルがディスプレイ内に表示される。どうしてその動作に至ったのか、少女自身にも分からなかった。ただ無意識に、そうしていたのだ。
背後の穿たれた扉の孔から、母親がこちらを覗いていた。しかしまだ扉は完全に壊れきってはおらず、錠か反対の金具が壊れて扉が開くまで、獣は破壊を続けるつもりらしい。
その獣の様子を見て、少女は心を決めた。
カーソルを慎重に動かし、その言葉まで持っていく。
「私は……」
他人に人生を穢され、幸せになることを許されなかった。もし新しい世界でやり直せるのなら……
──決意を固め、その文字をクリックする。
するとディスプレイは表示をやめて、ノイズ音を消した。お陰で背後の破壊音がより強調される。
しかし、それも全てもう終わり。
私はこれから、普通に生きることができるのだから。
徐々に頭がぼんやりとしていく。視界もぼやけ、おともあまりよく聞こえなくなってきた。
思考もうまくまわらなくなり、からだのちからもぬけて、そのばにたおれこむ。
──その瞬間、待ち望んでいた言葉が聞こえた。
《異世界転生を開始します》