第9話 『抱擁の意』
「……あ……あの……」
「ん~? どしたの~?」
「いや……えっと……その…………こ、これは……」
「愛情表現だよ? 何か疑問?」
この時の少女の体温は、低く見積っても50度を軽く超えていただろう。
正座をする少女の背後からの抱擁。囁く声に含まれる空気が、直接耳に伝わる程の至近距離。何より少女の気をそぞろにしたのは、背中に押し当てられている2つの巨大な半球である。
この状況の何もかもに親しみが無い少女の頭は、今にも爆発しそうなほど──
「う~ん……やっぱり華奢な女子は栄養になるのぉ~。ヴェノムは最近筋肉がついてきちゃって、アタシ好みじゃなくなってきた頃だったから……助かるぅ~」
すんすん、と時々少女の匂いを嗅ぐシルヴァの抱擁から離れられず、このままでは色々な意味で危険である。
しかし、気の弱い少女が離れろと言うのは断然無理な話であり、謎の熱中症に倒れないように意識を保つだけだった。
「はぁ~……幸せぇ……あと3日はこの状態でイケますなぁ」
「……み、みっ……か!?」
3日もこんなことをされては敵わないため、思わず声が出た。
そんな少女を、「焦ってる声も可愛い~!!」と言いながら頭を撫で、とにかく愛でるシルヴァだったが、思いのほかすぐに少女から離れ、立ち上がった。
「じょーだん、冗談。流石の私も会ったばかりの女の子に自分の欲全開でいくのがマズイことだってぐらいは分かるも~ん」
話には聞いていたとはいえ、性別が女性であったことは最大の救いだった。これが万一男性であったならば、恐らくルーブの二の舞になっていたに違いない。
逆に女性だったせいで、新たな扉が開きかけたというのもあるが……
「そういえば! すぐに抱きついちゃったせいで自己紹介も何もしてない! メンゴメンゴ~。アタシは『十の聖剣』勲九等、『森刃』のシルヴァ。……はぁ……この名乗り方するの、堅苦しくてほんとイヤ……」
髪は全体的に見ればベージュのショートヘアといった具合だが、一部が頭頂部から左肘にかけて長く編み込まれており、アシンメトリーの良いアクセントとなっている。
及そ160センチほどの身長と、穏やかなビリジアンの瞳で少女見下ろすシルヴァの顔立ちやスタイルは、全くもって悪いものではなく、むしろ男性好みとも言えるだろう。
出会ったばかりの少女にさえ思われる程難のある性格でなければ、きっと恋人の取っ替え引っ替え程度は簡単なはずだ。
自己紹介もしないまま強制抱擁をする女性の元に居候するのは果たして大丈夫なのだろうか、という疑問は遠ざけない程度に無視し、少女も適当に名乗った。
「ふむふむミズカちゃんねぇ……そんでそんで、本日はどのようなご要件で…………と、待った! 至って普通の可愛い少女が、突然アタシの前に現れた。その経緯が何となくとか偶然とかで片付くわけない。つまり、話せば長くなるでしょ??」
早口で語るシルヴァの勢いに圧倒されてしまい、少女は頷きのみで返事を済ませる。
「やっぱり~!! じゃあ、先にお風呂入っておいで! 変な女に抱きつかれて汗かいたでしょ? 女の子は常に清潔を保ってなんぼだからね~。だいじょーぶ、大丈夫! 絶対何にもしたい……じゃなくて、何にもしないから!」
勢いはとどまることを知らず、大して内容も聞かずに頷いた後に、事の重大さを理解した。
半強制的に脱衣所まで連れ込まれ、要所要所でセクハラをくらうと分かっていれば、この提案を断っていたはずだったのに。
* * * * * * * * * * * * *
浴槽の中で、少女は考えていた。
今日一日だけ過ごしたら、グレイスとフレイムに相談する。ものすごく迷惑で暮らせないという程ではないにしろ、毎日この調子では自分の気がいつ狂ってしまうか分からない。
消極的で人付き合いが苦手な自分には、彼女の性格が合わない気がする。
今の彼女は自分を愛でてくれてはいるが、こんな自分ではいずれ──
「ひゃっほーーい!! ミズカちゃーん!! 一緒に入ろーー!!」
少女のいる浴槽に躊躇いなく飛び込んで来たのは、噂をしていたシルヴァだった。
浴槽の湯の雫が四方八方に散乱し、反射的に少女は腕を構えて顔面へ飛ぶのを防いでいた。
「…………何もしない……って……」
「それなんだけどね~……我慢できなかった! てへっ」
何もしないわけがないと、半ば少女も考えてはいたが、こうも容易く約束を破られると呆れるものである。
話の勢いに定評のあるシルヴァだったが、そう言ったきり黙っていた。
どういうことかと思えば、少女の左肩を見つめていたのである。
「──っ!」
即座に右手で覆い、例の痕を隠す。
しかし、やはり手遅れだったようで、近づいてきたシルヴァに無理やり右手を外され、もう一度晒す羽目となった。
「……火傷……かな? 随分小さいけど、痛そう」
「……見ないで……ください……」
その時初めてシルヴァに意見した。
この灼け痕は、言わば恥──見栄えが悪いなどといった単純な理由ではない。
そんなものを、人に見られて平気ではいられない。
「……ミズカちゃん、見て、私の右目。実はこれ、義眼なの。ちょっと前に起きた戦いで失くしちゃってね。でもね、アタシは別に恥ずかしくないんだ。だって、これが今のアタシだから……」
そう言うとシルヴァは、少女を正面から抱き締めた。
少女は最初離れようとしたが、その抱擁が単純な愛の押し付けではなく、共感の意思を持っていたことに気づくと、無意識に抵抗をやめていた。
「フレイムと……グレイスと……あと、ヴェノム。少なくともこの3人は、義眼のアタシを見ても笑わないし、何とも思わない。これ、すっごく嬉しいことじゃない? だからアタシも、そんなミズカちゃんのこと笑ったりしないし、ただの可愛い女の子だって思うよ」
微笑みかけるシルヴァの声色は優しく穏やかで、自然と心が安らいだ。彼女の腕の中は、まるで本当の森の中にいるように落ち着く。
「人ってさ、抱き締められると嬉しくなるんだって。アタシ、人からそんなことされたことないから、分かんないんだけどね。どう? 嬉しいかな?」
その言葉を聞いてだろうか。少女はらしくないことをした。
無意識に、しかし確かに少女の意志で、シルヴァを抱き締めていたのだ。
「…………ふふっ……いいの? そんなことしたら、今度は容赦なく襲っちゃうけど?」
はっとした少女は、すぐに回していた腕を離し、浴槽の端へと後退した。
その時の少女は、どんな顔をしていたのだろうか。きっとのぼせて真っ赤になっていたに違いない。
「……あはははっ! 冗談だよ~」
大きく笑うシルヴァに調子を狂わされ、いてもたってもいられなくなった少女は、風呂場を後にしてしまった。
残されたシルヴァは「あ~あ……」と嘆いたが、少女に届かない声で呟いた。
「……でも、ありがと……」