プロローグ 『その涙が語るのは』
1人の少女が、先の見えないトンネルの中を歩いている。ぴた、ぴた、と湿気った地面の上を、その死人色の素足でゆっくりと。
酷く憔悴したその顔からは、喜怒哀楽のどれも感じられない。
ただ少女は、涙を流し続けている。
しかし、少女は自分が涙を流していることには気づいていない。
そんなことに気づける余裕は、もう少女の心のどこにもない。
次にその時が来ても何も失わずに済むように。
次にその時が来ても苦しまずいられるように。
少女は常に無であり続ける必要があるのだ。
それでもまだ、少女は希望を失わずにはいられない。
次こそは、この地獄から抜け出せるかもしれない。次が駄目でも、さらにその次こそは──油断すると、いつの間にかそんなことを考えている。
挫折と困憊を繰り返した少女は、自分の脳に指令を下すことができずにいた。歩き続けるという唯一の命令は、その細々とした筋肉が勝手に、そして延々と繰り返してくれる。
少女が歩き続ける理由──それは、少女がその歩みを止めたいからなのだ。
光源も人の気配も一切無いそのトンネルは、まさに少女の心の中そのものであった。
どうして少女は、こんなにも闇で包まれているのだろうか。
理由はただ1つ、少女はただ、苦しみ過ぎただけ。
そのあらゆる艱苦を回避できなかった結果が、この有様である。無論、回避する術など、少女は最初から持ち合わせてなどいなかった。
どんなに希望を見出しても、その時が来れば、何であろうとその希望は悉く絶望に変わった。
そうして繰り返され続けた絶望が、少女の心を蝕んでいったのだ。
文句も垂れずにひたすら牛歩で進む少女は、最早自分が生きているのか死んでいるのかの区別さえつかない。
足下から伝わる冷たい地面の温度、冷えきった少女の精神と肉体──何もかも冷酷な世界で、少女は確かに生を持っている。
だが、この少女は生命を──文字通り、生きる命を失ってしまった。
その時が来れば、結局は同じ。
数十回、数百回とその時を繰り返してきた少女は、意思を持たずともそれを理解していた。
すると突然、今しがたまで歩いていた少女が足を止めた。少女は俯いていた頭を上げ、些かにわす辺りを見回す。
恐らく、長時間この暗闇の中にいた少女はその周囲の様子が見えているのだろう。
周囲に何も無いことを知覚すると、少女はその場に腰を下ろし、うずくまった。
自分以外の何からも影響を受けないと知り、負と闇で埋め尽くされていた心に、僅かな隙間程度の余裕が出来上がる。
そして漸く、少女は自分が泣いていることに気づいた。
しかし、少女にとって、自分が泣いている理由など最早どうでも良かった。
出来た思考の余裕をすぐさま埋めたのは、その時が早く来て欲しい、という切なる願い。
当然、この願いを叶えられる者はいない。
初めの頃はその時を酷く嫌い、憎み、恨んでいた少女だったが、今はもう、自らその時を望む。
腰を下ろしてからしばらく経つと、長く無表情だった少女の表情には笑みが表れていた。
その笑みが何を意味するのか、それは少女にしか知り得ない。
だが実際には、これは今も流し続けている涙と全く同じもの──とうの昔にどこかへ置き去りにしたはずの感情が、彼女を完全に壊さないようにと仮初の形で蘇っているだけである。
しかし、やはりそれに意味などない。彼女の心は、とっくの昔に壊れているのだから。
しばらく座り込んでいると、不意にも少女に眠気が襲ってきた。無理もない話である。
少女は精神だけでなく、元より弱々しい身体までも疲弊しきっている。
冷たく、堅く、湿り汚れたトンネルの地面に、無意識の内にその上体を倒し、あたたかさの欠片も無い風が彼女を覆う。
そして、少女は眠りについた。無論、睡眠が与える安らぎ程度で、少女の苦しみが緩和されるはずもない。
* * * * * * * * * * * * *
──どれくらい少女は眠っているのだろうか。暗闇のトンネルの中では、時間など知る術が無い。
しかし、やはり少女にとっては時間などどうでも良いのである。
少女にとって重要なことは、その時が来るのか、来ないのか、ただそれだけ。
勿論、その時が来なかったことなど、未だ嘗てあり得なかったが。
──終了します。
眠っていた少女の脳は、突然何かに起こされたかのように目覚めた。かと言って、少女を目覚めさせた存在はそこにはいない。
少女が起きてからしばらく経過すると、少女の脳内に機械のような感情の無い声が再生された。
《今期の世界を終了します》
どこからともなく声が聞こえた瞬間、先程まで暗闇に包まれていたトンネル内が、突然トンネルの両端から明るく照らされた。
その光は最初、丁度少女のいる所までは届かなかったが、次第に少女近づいていく。
微量の熱を帯び、徐々に光度を強めていくその光源は、ある種、少女にとっての希望の光とも呼べただろう。
少女は、その光の正体が何かすぐにわかった。そして、光に吸い込まれるようにその方向へ歩いていく。
とうとう光が少女の眼前まで来た時、少女はやっと言葉を発した。
「……やっ……と……」
それが今期の少女の、最初で最後の言葉だった。
──その時が来たのだ。
その言葉を発した直後、少女の身体はその光に飲み込まれ、両目からその光を放つ大きな鉄の塊に身体を吹き飛ばされた。
少女の身体は大型のトラックに撥ね飛ばされた後も、対向車線のトラックや後続の他のトラックに何度も轢かれ続けた。
体の原型が留まらなくなるまで、グチャグチャと、何度も、何度も。
腕と脚はあり得ない方向に曲がり潰れ、骨と内蔵は少女の体内で余すことなく砕かれ、潰され、融合した。
しかし、頭だけは運良くか運悪くか潰されず、血液の出口として機能している。
耳から、目から、口から、鼻から、あらゆる穴から、青白い肌の少女の物とは思えないほど、鮮やかな赤黒い液体が勢いよく流れ出てくる。
トラックの群れは、そのゴムのタイヤで、容赦無く流れ出る血を、容赦無く塗り広げていく。血液と同時に漏れ出た骨か臓器の欠片が、地面に広がる紅のアクセントとなる。
心臓もとっくに潰れてしまったはずなのに、少女はまだ意識を保てている。
少女は当然酷い激痛を味わっているが、今期を終わらせる痛みだというのならば、それは少女にとって快楽以外の何物でもない。
少女の瞳から溢れ出ているのはまさに血液だが、その多量の血液の中に、僅かな涙も確かに混じっていた。
この涙は、先程まで流れていた無意味な物ではない。
悲嘆か、苦痛か、安堵か、それとも快楽か──確かに感情を持って流れた雫だった。
その涙が何を意味しているのか、それは少女にしか分かり得ない。だが、やはり少女は自分が涙を流していることには気づいていない。
そんなことに気づける余裕も、この壊れた体と、壊れた心には当然無かった。
《異世界転生を開始します》
こうして少女はまた繰り返す。
次期の世界で、少女の『新たな人生』を。
何度も修復される肉体に、壊れたままの心を植え付けられ始まる『新たな人生』を。
終焉など無い『新たな人生』を──