張られたら、張り返す件について
『引いちゃダメ、押していけ』から五年後、レスラリー王国の話です。
相撲は人々を惹き寄せて、そこに出会いが生まれ、恋が芽生えます。
首筋に触れた息の熱さに、二十歳のエニス・ガルバハムは肩を竦めた。頬に熱が集まる。二人乗りした馬の手綱を操るのは、出会って一年になる恋人で黒豹獣人のジョルディだ。
「俺は嘘を吐いていた」
プロポーズの後に聞くには、相応しくない言葉だ。
「はい。それは、いつも楽しいことを仰るジョルディの冗談ですか?」
ジョルディは誠実を旨とする騎士だが、真面目過ぎるエニスをいつも軽快に茶化して、解して、笑顔を誘う。プロポーズに緊張するエニスを、慮ってくれたのだろう。
「真面目な話だよ。エニスが結婚を受け入れてくれて、嬉しい。直ぐに婚約だ。叔父様のカルロス・ガルバハム子爵への挨拶を急ごうね。で、謝らないといけないことがあるんだ。今まで虚言をしたし、妄言もあったんだ」
口を歪めて大袈裟な言い方だ。常に歯切れが鋭いジョルディが、殊更に真面目に捉えているようだ。
他愛もない、些末な嘘だろう。例えば身長を百八十九センチの申告より大きいとか、騎乗する馬の値段を見栄を張って高く告げたとか、だと見当をつける。エニスは笑顔で振り向いて、目線だけで先を促した。
「レスラリー王国でもっと暑い『荷葉の月』だって、俺たち二人の思いの熱さには敵わない。エニスは髪は柔らかくて、陽に溶ける。美しい小麦色だ」
首肯したエニスは、街道を吹き抜ける風に前髪を揺らした。
レスラリー王国では一年を六つの季節に分ける。今は一番暑い季節だ。
馬が進むのは、王都の東側にある穏やかな丘陵地帯だ。ここはレスラリー王国内全てに繋がる街道が整備されて、商業も盛んな地域だ。デートするには楽しい場所だ。
「エニスに出会って、本当嬉しいんだ。コニアス国王の結婚が三年前にあって、更に獣人と人間の結婚が推奨された。人間のエニスとの出会いは運命だよ」
レスラリー王国には、獣人と人間がほぼ同数いる。
人間は魔力を持ち、獣人は強靭な身体能力を持っていた。互いの能力を生かし、凝る力を撓めるために、人間と獣人は結婚をした。獣人も人間も、互いに長所と短所を補い、支え合っている。レスラリー王国強さだ。
生まれてくる子供は、獣人と人間のどちらか一つの気質を受け継いだ。結婚により人間は魔力が安定し、獣人の身体はより強靭となった。
人間と獣人は姿が似ている。大きく違うのは、三つだ。獣人の耳は頭部にある。尻尾もあり、髪が人間より種類も色も豊富だ。毛深い獣人は頭から背にかけて鬣を靡かせる場合もあるが、稀だ。狼獣人や狐獣人などは、やや鼻筋から顎にかけて発達して前に出ている。美しい姿だ。
黒豹の獣耳が、気忙し気に揺れている。
「俺は、王都騎士団じゃなくて王宮に勤めているんだ」
「私と一緒の職場なのですか? 知りませんでした。あった覚えは、ありません」
エニスは、王宮に勤める女官だ。レスラリー王国で女性の登用が始まって二年になるが、エニスは初めて任官された女性の一人だった。
レスラリー王国は、女性が働く場がどんどんと広がっていた。契機となっているのは、生活を便利にする魔道具を生み出すジェイド・ウルスラウス辺境伯夫人だ。
ウルスラウス辺境伯夫人は奇妙で、摩訶不思議な魔道具を開発する。それに、考え方も侯爵家で育った令嬢だったと思えないほど変わっている。女性が働くことを説き、レスラリー王国で復活した相撲を魔道具を使ってレスラリー王国全土に浸透させた。エニスも相撲を楽しみにしている。
思い当って、きっぱりと聞いた。
「相撲好きって言うのも、嘘でしょうか? 年齢は二十五だって聞いていました」
「エニスの次に相撲が好きだよ。その、年齢は三十三だ。エニスには若く見られたかったんだ。見栄だ」
「若くは見えます」
驚き過ぎると、冷静になっていく。十三歳も年上とは思えなかったと、顔を見詰めた。漆黒の髪が好きで、獣人特有のしっかりとした顎にも惹かれた。しなやかで長い尾が腰に絡むと、恥ずかしくていつも俯いた。
今はジェルディの申告する嘘に向き合わなければならない。エニスは気を取り直して、トラウザーズの刺繍に触れた。
王宮の女官には制服が支給されている。洗濯が簡単だとの理由で、踝丈のスカートとブラウスだ。動きやすいように女官には騎士服に似せたトラウザーズもある。ウルスラウス辺境伯夫人が王宮でトラウザーズ姿をで馬を駆け、度肝を抜いた。
今、エニスも女性用の刺繍とレースの美しいトラウザーズで馬に乗っている。相撲好きなジョルディなら、信じられる要素が残っている。嘘を見極めるために、言葉を選んで問い掛けた。
「王宮に勤めているなら、ジョルディは近衛騎士ですか? まさか騎士爵だって話も、違うのでしょうか?」
近衛騎士は、騎士の中でもエリートだ。騎士としての技量も、見目も、身分も求められる。
そこまで思い浮かんで、エニスは僅かに身動ぎをした。近衛騎士なら、エリスとは身分が釣り合わない。世襲をしない騎士爵なら、エニスは結婚ができる可能性を考えた。エニスは子爵を叔父に持つが、母親のアリアは今も実家のガルバハム子爵家にいる。エニスは婚外子で、父親が誰かを知らない。
「近衛騎士じゃないが、騎士爵は持っている。俺は王宮の文官なんだ」
エニスは、後ろを向いた。
黒豹獣人は、艶やかな漆黒の色を身に纏っている。尖った左耳の先に切れ込みがある。エニスの知っている傷だ。確かに、ジョルディだ。だが、今は初めて知った黒豹獣人の男のように見えた。
「俺は、身分と経歴と仕事に関してかなりの部分を偽っていた。正しい今の家名は、レギ――」
「黙ってください。それ以上は、聞きたくありません」
慌てたエニスは、大声を上げてジョルディを遮った。自分でも信じられないほどの大きな声が出た。
「大きな声が出るんだな。驚いたよ」
ジョルディの話を聞いてはいけない。エニスが世の中で一番嫌なのは、騙されることだ。
アリアは相手の男に婚約者がいるとは知らずに騙されて、エニスを身籠ったとガルバハム子爵家の使用人から聞いている。
居候としてエニスは育った。善良な叔父は良識を持っていたため、歳の近かった従兄弟と共にエニスは学ぶ機会があった。エニスは学習を進めて、他人より秀でた才能を求めた。貴族籍のある女性が自立し給金を得るには、貴族の家に住み込んで働くカヴァネスがあった。だがアリアがカヴァネスだったため、エニスは徹底してカヴァネスを避けた。
努力を重ねたエニスは、誰にもまねできないほど美しい文字を書くようになった。得意の風魔法も使って、流麗な文字が寸分も違わず並ぶ技術を身につけた。
「私は、騙されるのが嫌です。嘘吐きは許せません」
決然と大音声で告げる。身体の奥から声が湧き出す。
名前の知らない父親のような女を騙す男は懲り懲りなのに、誰よりも心を許し愛していたジョルディに裏切られていたとは信じたくなかった。あまりの状況に、呆然とするエニスを、ジョルディがふわりと優しく抱きしめた。
「本当に悪かった。混乱してるよね。落ち着こう」
優しい声はよく知る。エニスが落ち込んでいたり悲しんでいたりすると、こうやって優しく抱きしめて慰めてくれて、安心しで穏やかな気持ちになれたのだ。
ゆっくりとエニスは腕を振りほどく。
張られたら、張り返す。押されたら、押し返す。一歩も引かない。押し相撲が好きのエニスの信条だ。
「もう一緒にいられません。ジョルディとは別れます」
厳然と決定事項だと分かるように言い切った。
眼を剥いて、ジョルディが馬を止めた。騎乗で向き合う。
「待ってくれ、馬の上じゃあ危ないよ」
エニスは、一番得意の風魔法を腕に込めてジョルディの身体を捉えた。漆黒の髪が逆巻いて風に煽られ、身体が浮き上がる。
「では、落馬をしてください。全てが無理です。一年間かけて積み重ねた信頼関係が一瞬で崩れました。もうジョルディと向き合えません」
黒豹獣人の身体能力を駆使して、ジョルディは鐙を踏ん張って態勢を維持しようとする。
「信頼を裏切る形になったのは本当に申し訳なかった。でも俺自身はなにも変わっていないんだ。エニスを愛している」
風に抗って、ジョルディは懸命に声を出す。尾が、エニスの手に絡んだ。
誠実で優しかったジョルディはもういない。目の前にいるのは、笑顔の裏で人を平気で騙せる黒豹獣人だ。
絡まる尾を叩き落とし、エニスは風魔法を最大まで高め、ジョルディの身体を馬から放り投げた。どさっと落ちた顔を目掛けて、小瓶を投げつける。
「さようなら。もう二度と会うつもりはありません」
「待ってエニス。話を聞いてくれ」
額を押さえて、ジョルディが呻いた。
「ジョルディの話は嘘ばかりです。もう、何も聞きたくありません」
耳を塞ぐ私にうんざりしたのか、仰向けに手足を伸ばしたジョルディが深い息を吐き出したのが見えた。
竿立ちする馬を宥め、胴を蹴る。
丘から一歩離れるたびに、二人で過ごした一年の日々が消えていく。
「もっと楽しもうよ。笑って、肩の力を抜いて。ジョルディは嘘吐きです」
好きなものを素直に告げられずに、エニスは生きてきた。楽しむことに罪悪感を持ち、燥ぐ気持ちを後ろめたく思っていた。婚外子で貴族籍もないエニスは、身を慎んで生きることが当たり前だった。
「一時でも、楽しい気持ちになったのは間違いでした。相撲の話をする人が、減ってしまいました。近衛部屋の力士と話している姿も、もう忘れたいです」
ジョルディが人気の近衛騎士と気軽に話した時に、思わず相撲が好きだと告げていた。何事も身を慎んで控えめにしていたエニスを、ジョルディは解放してくれた。
「恋は分不相応で、恋人は幻だったんです」
エニスは早駆で王都に戻った。王都騎士団の門に手綱を結わえた時、エニスは全てが終わったと気付いた。
馬がなければ、ジョルディは王都まで一日を掛けて歩く。文字通り捨てられた男になったジョルディは、エニスの仕打ちを許さないだろう。せめて馬だけは返却する。家名を正しく聞かなかったから、家は分からない。だが、王都騎士団に出入りしていたのは事実だ。
魔法薬の小瓶を煽った。風魔法を使い過ぎた身体に、急激に回復していく。
エニスは、女官に与えられている女子寮まで顔を上げて歩き出した。
―――☆彡☆彡☆彡―――
休みが明けて、エニスの仕事が始まった。
何があっても、仕事はやってくる。結婚の道がなくなった分、エニスは仕事を続ける必要がある。元気に婚約直前とはしゃいだ時間が、今は疎ましかった。
昼食で支給されるチーズと胡桃の入ったパンとサラダを持って、人気のない庭に出た。エニスの後を声が追いかけて来る。
「で、丘の上でのデートは楽しかったの? ねえ、プロポーズされたんでしょう? 良いなあ。街で飲んだくれた悪い男に絡まれていた時に、助けてくれた黒豹獣人で王都騎士のジョ? ――。名前は忘れたけど、話を聞くだけでもかっこいいよね」
テレーサ・シモンズは女官で、一緒に登用されて以来の友人だ。一つ年下のテレーサの言葉を聞いて、今更に出来過ぎた話だった気が付く。
ジョルディとの出会いは、王都騎士団の近くだった。執拗に後を追う男たちからエニスをジョルディが助けてくれた。窮地に現れたジョルディを簡単に信じて、エニスは一緒に食事へ行った。大人で洗練されたエスコートを受け、エニスは舞い上がった。ジョルディはレスラリー王国の各地を訪ねていて話題が豊富だった。楽しい時間を過ごし、エニスはジョルディに惹かれ、二人は恋人となった。
「プロポーズはされました。でも、嘘だったです。騙されていました。あの出会いだって、仕組まれた嘘かもしれません。荷葉の月の幻惑って感じです。暑さにやられたんだと思っています」
レスラリー王国には六つの季節がある。一年の初めは『子葉の月』で、木々や種から初めての芽吹きを待つ時期で、寒さがやっと緩む季節だ。
暖かくなる『若葉の月』は農作業が始まり、海辺では漁の準備をする。レスラリー王国の西側には断崖が連なる海があり、複雑に入り組んだ入江が豊かな漁場となっていた。西側から活気が伝わって来る季節だ。
華やかな『青葉の月』には、貴族が王都に集まる社交シーズンがある。
地面に落ちる影が一段と濃くなるのは『荷葉の月』で、厳しい暑さを乗り越えるために、避暑に出向く貴族が多い。
農産物の収穫や、魔石の掘削が一番多いのが『紅葉の月』だ。陽の出る時間が少なくなり、忙しなく過ぎて行く季節だ。レスラリー王国の南側の果ての砂漠にはオアシスが点在し、砂の中に忽然と泉があった。泉からは珍しい魔石が採れた。
寒さが厳しい『朽葉の月』は、王都にも雪が積もる。天然の要塞となっている北に聳える峻険な山々から風が吹き下ろす。
「今は『朽葉の月』の山の中のように、枯れ果ててしまいました」
エニスの話に、テレーサがパンを喉に詰まらせた。
叩くと、パンを呑み込んだテレーサが涙を流しながら問い掛ける。
「相撲は本当は好きじゃないとか? 約束した『荷葉の月場所』に行こうって話は嘘だったとか? 本当は押し相撲が好きで、四つ相撲は好みじゃないから近衛騎士団部屋が嫌いだとか? エニス、何があった? エニスの可愛い声は変わってないよ」
言いながらテレーサは号泣し始めた。テレーサも相撲好きだ。昼食を食べながら相撲の話で盛り上がるのが、仕事を忘れる息抜きだ。
相撲が好きだと初めて告げた時、ジョルディは随分と驚いていた。
「不知火大神殿の荘厳さは、何度も聞きました。同じことを聞いても、嫌な顔せずに話してくれました。優しかったんだと思います」
テレーサの涙につられて、エニスも顔を覆った。掌が濡れていく。
レスラリー王国の相撲は、一年に三回の場所が開催される。相撲の聖地ウルスラウス辺境伯領の不知火大神殿で、『若葉の月場所』と『朽葉の月場所』がある。間の『荷葉の月場所』は王都で開催される。
「相撲は好きみたいです。終わったばかりの『荷葉の月場所』の話も、弾みました。でも、他は全部が嘘でした。年齢は三十三歳で、文官だと言ってましたが、何が本当なのか分かりません。王宮に勤めているらしいですが、私にはもう関係ありません」
涙を掌で拭いて、テレーサが訳知り顔で頷く。
「婚約破棄ってやつね。こんな真面目で、無垢で、律儀なエニスを騙すなんて、許せない」
「そもそも婚約していません。多分、恋人ではあったと思います。今は、詐欺にあった感じでしょうか。でも身体もお金も、貢いではいません。心配しないでください」
家庭の状況も知っているテレーサの眉が顰められたので、慌てて付け加えた。騙されても、金銭的被害は受けていない。身体も清いままだ。真面目な交際で、ジョルディはエニスを大切に扱っていた。何も無理強いされたことはない。互いに不必要な気遣いはしないが、無遠慮に踏み込みもしなかった。
「二人でいて、私は居心地が良かったです。でも考えれば、何も求められませんでした。きっと、恋人でもなかったんです」
「嫌いになったの?」
問われて、かぶりついたパンを咀嚼する。チーズの味が口に広がる。微かに塩味が常より強い。
「一年という時間が無駄になりました。今は好きって気持ちより、不信感の方が強いです。顔も見たくありません。だから、馬から落として丘の上に捨てて来ました。馬は返却しましたから、犯罪ではありません。親切にも、怪我の手当て用の魔法薬だって顔にぶち当てました」
テレーサが握り拳を突き上げる。
「良くやった。騎乗での押し出し。いや? 決まり手は投げ出しかしら。そんな男は、相撲の神様の雲龍神に呪われて、投げ飛ばされるべき。許せない」
「これからは仕事に生きます。女官だったことに、今回は救われました。女が一人でも生活できます」
女官として仕事をすると、疎まれ、妬まれる経験は多い。互いに、仕事で忸怩たる出来事を乗り越えてきた。
「また、恋ができるよ。諦めないでね。エニスは、小麦色の髪も、大きな琥珀色の瞳も輝いている。見目が良いから王宮に見物人が立っているわ。出る所が出て、きっちりと引き絞った身体は、私から見たら垂涎ものよ。これからだって、社交界に出ても良いはずよ」
エニスはアリアに似て、幼い頃から美しいと評判だった。瞳の色だけが違うが、アリアも社交界の華と呼ばれた時があったらしい。
「恋は、一生分が終わりました。子爵家の令嬢ではありません。社交界には出ません。叔父にこれ以上の迷惑を掛けたくないです。これからは仕事ですよ。ねえ、新しい宰相補佐官様が来たんでしょう? 総務部文書課にはまだ来ていません。衣裳管理課には挨拶がありましたか?」
エニスは、任官時に最高得点を挙げて総務部所属となった。特に祐筆を名乗れるほどの達筆さで、コニアス国王から指名される書記を務めている。
「割れ顎のイーサン・ホポムハウゼ宰相の御推薦って話よ。名前は忘れた。さてと、仕事に戻ろう」
テレーサは、名前を覚えるのが苦手だ。身体的特徴や忘れられない出来事に関連を付けて頭に叩き込んで、やっと相手の名前を覚える。エニスのことは、『出るとこが出ているエニス』と認識しているらしい。
「王宮の舞踏会も終わったし、化粧まわしも仕上げた。しばらくはまた女官の制服を考える予定よ。化粧まわしの直しが来ていたなあ」
テレーサの特技は、衣裳のデザインだった。レースや刺繍を駆使した女官のトラウザーズも、テレーサの作品だ。
王族の意匠を作る総指揮を、テレーザが担っている。最近は、近衛騎士団部屋で相撲の化粧まわしの刺繍も手掛けた。
二人は互いに明日、また昼に会う約束をして職場へ急いだ。悲しい話が妙に弾んで、テレーサはエニスより泣いていた。
昼休みの終了の鐘が、鳴り始めていた。
―――☆彡☆彡☆彡―――
昼食の休憩も取らずに、新しくて、馴染みのある職場についての説明が、ジョルディの前でだらりと続く。元々ジョルディは王宮の文官だったが、コニアス国王の密命により騎士となっていた。忌々しい思いがこみ上げる。恋人にまで、嘘を吐く必要があった任務だ。
鐘が鳴り止んだ。昼休みの始まりと終わりを告げる鐘が、王宮にある。ウルスラウス辺境伯夫人の発案だ。
目の前で話し続けるのはエリック・アルバ侯爵だ。財務大臣で、王宮に長く勤めている。三年前に妻が死んだと長々と話をした後に、表情を消し去った顔でジョルディを見た。
「左遷されて剣を振るってた貴殿に、何が出来るのか本当に楽しみだよ」
エリックが書類を差し出した。『青葉の月』にあった舞踏会の収支決算書だ。非常に分かり易い文字だった。読み易いのは安定した筆圧もあるが、見出しや薄っすら引かれている罫線が適宜施され、内容が精査されていた。
扉がノックされた。誰何の後に、兎獣人の女官を連れて、ダビド・サンチェスがやって来た。ダビドは総務部文書課の文官で、同い年のジョルディとは長年の友人だ。
「ジョルディ・レギオン宰相補佐官様、こちらはテレーサ・シモンズ女官だ。舞踏会の衣装についての問質しをしたまえ。文書の読み方を覚えているかい? ダビドが手助けしろ」
エリックは、あからさまにジョルディを蔑ろにしたがっている。
テレーサは茶色の垂れ耳で、困ったように目も眉も優しく下がっている。王宮の女官は五人だと聞いていた。
テレーサは、ジョルディの恋人を知っているだろうか?
丘の上で酷い別れ方をしたが、ジョルディはエニスと結婚する決意を固めていた。互いに分かり合って、結婚できると信じている。風魔法の攻撃で落馬したが、エニスは魔法薬を投げてくれた。レスラリー王国の魔法薬はウルスラウス辺境伯夫人の謹製で、優れた効き目がある。エニスは、何があってもジョルディを支えてくれている。エニスを思い出し、ジョルディは心を温かくした。
「不備なく舞踏会が行われたと分かる。多くの相撲部屋から力士が参加して、収益が出ている。分かり易い書類だ」
ダビドが破顔した。
「ガルバハム女官の作成した書類ですね」
「これを、書いたのは――」
エニスの存在を間近に感じて、ジョルディは書類を撫でる。真面目なエニスの息遣いを感じさせる文字だ。清廉な横顔を思い出す。同じ紙をエニスが手にしたと思うだけで、ジョルディの心は浮き立った。
「私の大好きな友人です。女官で優秀で美人で、王宮の一番の人気者です。傷ついてしまって、本当に――」
テレーサの目尻が更に下がって、口が歪んだ。
「何かあったのかい? テレーサ・シモンズ女官? 泣いているよ」
ダビドがテレーサを椅子に座らせた。
「詐欺師に騙されたんです。私ではありません」
息を詰めて、ダビドの声が探るように沈んだ。
「ガルバハム女官が、詐欺にあったんだな? 間違いないな」
知らない話だった。ジョルディはテレーサの肩を揺さぶって問質したい思いを堪えた。今すぐ、エニスを探し出して慰めたい。辛い思いをしている恋人を支えたい。だが、まずは事実を確認する必要がある。状況を知るために、テレーサが落ち着くのを待った。
しゃくりを上げて、テレーサが口を開いた。
「間違いありません。昼休みにエニスから直接聞きました。落ち込んで、ああ、ガルバハム女官って、『出るとこが出ているエニス』なんです。名前を覚えるのが苦手だから、色々こじつけて覚えています。相手はペテン師だったんですよ」
テレーサの告げる修飾が付いたエニスの名前には、説得力があった。感心して頷きながら、気を引き締める。
詐欺を働くペテン師が、エニスの側にいた。気が付かなかったでは済まない状況だ。
「損害は、どのくらいだったんだ?」
落ち着いた様子でダビドは、ジョルディに横目を流してからテレーサに問い掛けた。気持ちばかりが焦って、ジョルジョはただ頷くだけだ。
「お金の被害はないって言ってました。でも、時間を失って、信頼する気持ちも傷つけられたんです。全部嘘を吐かれていたらしいです。身分も職業も偽って、女を騙したんです。あんな男は、雲龍神に投げ飛ばして欲しい」
ジョルディは、完全に顎を落として眼を剥いた。既に馬から投げ飛ばされたと、沸騰し混乱する頭がテレーサに答えていた。
「恋人の男の話しかよ? ああ? 何だ、エニスは男に騙されたんだな?」
ダビドもぞんざいな言葉になった。
「心だけ弄ばれて、捨てられたんです。エニスは真面目だから、清いお付き合いだったんです。でも、相手が悪かった。恋人だと思い込んでしまった。酷い獣人の男がいたもんです」
エリックは横を向いているが、僅かに近づいてきた。猪獣人特有の鼻が、忙しく蠢いている。
誰もが、テレーサの話に集中していた。
「酷いな。でも、恋人だったんだろう? もう恋人と、別れたのか?」
「破局しました。エニスは王宮で人気があったから、苦労していました。寄ってくる男が多いんです」
エニスから王宮での様子を聞いて、恋人を公言しようと提案したのはジョルディだった。愛らしいエニスの身が心配で、虫よけのつもりもあった。
エニスとは別れていないし、関係も壊れていない。歯を喰いしばって、ジョルディは叫び出すのを耐えた。二人の間には誤解がある。騙したが、弄んではいない。誠実な恋人だ。今は、エニスを話し合うのが先決だと奥歯を噛んだ。
「慕う人がいるからって、誰からの誘いにも応じなかった。健気に断る姿が、また儚げで、愛らしくて、人気があった。そうか、別れたんだな」
「ダビドは結婚しているだろ」
首を締め上げそうになる手を、ジョルディは拳を握って抑える。
「エニスは真面目で、素っ気ないくらい丁寧な話し方をするんです。声が可愛いんですよ。小鳥の囀りって感じに軽やかで、文字が奇麗なだけじゃなくて、心も清らかです」
知っている。テレーサはエニスを大切に思う友人だが、ジョルディはもっと深くエニスの心を理解している。
「端的な返事は、潔いよね。一切媚びないんだ。確かに声は愛らしい」
分かっている。ダビドはエニスを評価する上司だが、ジョルディの側には恥じらう無垢なエニスがいた。
「でも、相撲の話になる饒舌なんです」
一番、愛らしい顔を思い出す。テレーサにだって見せたくない。いつでも熱く相撲を語る唇は可憐で、潤んだ瞳で張り手についての考察を繰り広げた。
「へえ、相撲の話を今度してみるか。慰めよう。おい、ジョルディが唸ってどうする。威嚇する相手は、エニスを騙したペテン師だろう? 俺じゃあない」
反論できずに、行き場のない思いが蟠る。
「今思えば、恋人がいたなんて迷惑な話です。でも、きちんと恋人と話し合って公言したんですよ。それなのに、捨てるなんて許せない。女の迷惑を考えろって言いたい。信じられない、下衆野郎です」
信じられない思いだけを共にして、ジョルディはテレーサに深く首肯を返した。
―――☆彡☆彡☆彡―――
恋の終わりをテレーサに告げて、三日が過ぎた。
エニスの仕事は、順調に進まない。歩いていれば、書類を渡される。その場で書く書類も多い。持ち出しが制限される書類だ。
毎年『荷葉の月』は、多くの貴族が社交を終えて王都を離れる。王宮も静まるが、その分、保管する文書の作成は忙しくなる。特に、新たな宰相補佐が着任して以降、駆け込みの文書作成依頼が増加した。
「在庫処分のようです」
エニスは、多くの部署に出向いて清書をする。今日は、王立魔法師団の売り上げ報告書の清書や、コニアス国王直属の文官の稟議書をそれぞれ部屋に入って仕上げた。
歩いているだけで何度も声を掛けられた。清書を終えると、エニスは必ず食事に誘われた。
「勿体ないお話で、お断りいたします。仕事があります。急ぎます」
声が段々と大きくなっていく。
仕事を終える時間が迫るが、朝から総務文書課に辿り着かない。仕事も多いが、煩わしい話も絶え間なかった。
テレーサは話好きだ。取り乱して泣いていたから、エニスと恋人との破局を悪気なく話しているはずだ。エニスから告げなくて済んだと、安堵する。恋人がいなくなったエニスを、誘う声は止むことなく続いた。
やっと総務部文書課の扉が見えた。エニスは扉を開いて、そのまま固まった。音高く、扉を閉めた。
乱暴な勢いで扉が開いて、エニスは中に引き入れられた。
「御挨拶だな。扉の開閉が荒すぎるよ」
見たくない顔があった。偽りをへらりと吐き続けた男の顔だ。エニスの肩を抱いて、側に引き寄せる。黒豹獣人が、寸分の隙もない貴族の装いで立っていた。王宮の文官だと告げたジョルディだ。
ダニエル・バルデが揉み手をして、痩せすぎた身体をせわしなく動かしながら前に出た。ダニエルは総務部文書課のリーダーで、エニスの直接の上司になる。
「部下が大変失礼しました。これは、エニス・ガルバハム女官です。困るねえ、女官のくせに恋人がいるって吹聴して、浮かれているんだろう。新たに着任なさったジョルディ・レギオン宰相補佐官様の顔の美しさに驚いて、扉を閉めるとは無礼だ」
「レギオン公爵? あの相撲名解説のレギオン公爵様の御子息」
告げられた家名に、エニスは表情を消した。レギオンは公爵家の家名だ。貴族の身分も不安定なエニスに、ジョルディが家名を偽るのも当然だ。大きな身分の差がある。偽ったことより、結婚を申し出た不誠実さにエニスは唇を噛み締めた。
「気を付けよ。『これ』って発言は、女性への言い方としてはいただけない」
ジョルディが口を開いた。
エニスは、大好きな相撲を思い浮かべた。懸命に気持ちを落ち着かせる。
相撲は、立ち合いが重要だ。出会い頭に後れを取らないのが、大前提となる。立ち合いで後れを取ったら、二歩目が重要だ。素早い二歩目と、畳み掛ける攻めが必要だ。
エニスは上司になる二人に礼を取った。事実だけを端的に伝える。
「恋人はいません。間違いでした。御前失礼します。仕事に戻ります」
張り手のように言葉を投げた。
「何だって? 恋人がいなくなったって、チャンスだ。おい、相談に乗るから――」
ダニエルの追いかける声を遮って、ジョルディが冷ややかな声を出した。
「文書保管庫を見せたまえ。女官の尻を追いかけている時間ではない」
「ガルバハム女官に、書類の清書の依頼が来ているよ。御指名だから、変わってあげられない。急ぎだ」
同僚のダビドが、立ち上がってエニスを呼んだ。三十三歳のダビドは気遣いができて、エニスをさり気なくフォローする。
ダビドの背に隠れるようにエニスは席へ向かい、仕事を始める。机の上をぐるりと書類で埋めて、話しかけ難い姿を作った。
任されたのは簡単な清書で、書類は直ぐに出来た。扉の前で動けなくなっていたエニスを見かねて、ダビドは機転を利かせて助けたのだろう。
「エリック大臣まで書類を届けて来てよ」
ジョルディは、まだダニエルと文書庫の前で話し込んでいる。苦笑するダビドにエニスは薄く笑い返して、エニスは廊下に出た。
エリックは部屋に不在で、財務担当の文官に書類を渡した。文官の物言いたげな視線を冷淡に交わす。食事の誘いを撥ね付けて、エニスは重い足を前に進めた。
柱の影から伸びてきた腕に捕まれた。声も上げられなかった。黒豹獣人の力に抗うことはできない。エニスは小さな空き部屋に押し込まれた。壁に本棚が据えられ、古びたソファが二脚あった。
「エニス。恋人との喧嘩で怒っていても、仕事に私情を挟むべきじゃない。そんな素っ気ない態度で仕事をしていたら、周囲が心配するよ。気遣い屋のダビドが可哀想だ。俺を避けないでよ」
あまりな言いように、エニスは怒りを通り越して笑いが込み上げてきた。
ジョルディは、エニスが傷ついているとは考えもしないのだろうか? 平然とするのが難しい精神状態だと、分からないのだろうか? 表情を消して、鉄仮面に押し込めなければならないほどの悲しみを、知らないのだろうか?
失望が全身を巡って、攻撃へと転じて行く。エニスは冷ややかに見つめ返した。張られたら、張り返す。強烈な張り手を繰り出す。
「仕事に私情を挟むなと仰るなら、まずは、私をファーストネームで呼ぶのをやめてください。先ほど職場で上司より伝えしましたので、家名を御存じのはずです」
ジョルディの目が大きく見開かれた。あきらかに動揺している様子が、さらにエニスを冷めた気持ちにさせる。
「聞いて欲しい。俺たちの間には誤解もある。俺は結婚に向けて、婚約したいんだ」
「レギオン宰相補佐官様からの言い訳は、結構です。騙された事実は変わりません。相手を信用できないのは、結婚を断り、恋人の関係を清算するのに十分な理由です」
「他人行儀だな。俺はエニスを愛しく思っている。何より大切にしているんだ」
また嘘だ。息を吸うように偽りを重ねる。
「愛しているなら、騙せないはずです」
ジョルディが黙り込んだ。二人の間の空気が重くなる。話は終わったと、扉に向かったエニスの足が止まった。
扉の前に、賑やかな声がする。二人でいる所を見られたくない。ジョルディにとっても、別れた恋人はただの醜聞だ。
首を廻らせても、隠れる場所はない。
ジョルディが、本棚から迷いなき手付きで一冊の本を引き抜いた。するりと本棚が動き、先に通路が見える。肩を押されて通路に入った途端に本棚が動いて、二人の姿を隠した。
肩に置かれたままのジョルディの手を払い除ける。
小さく両手をホールドアップして、ジョルディがエニスから僅かに離れた。
「なあ、今はチョロく落ちるんだろうな。巨乳だし、楽しめそうだ」
初めて聞く声だ。部屋に入ってくる前に、サーベルの音がしていたから、一人は騎士がいるはずだ。足音から三人の男たちだ。職場の勤務時間に、遊女の選定をしているようだ。
「お下がりで、使い古しでも気にならないのか? 恋人がいたならお手つきだろう。確かに『出るとこが出ている』身体だ」
「だから捨て易い。ぐははっ、楽しみだ。女官だって、女だ。可愛がってやろうぜ。帰る時間は俺が分かる。総務部文書課にいて、こんなにうまい話は初めてだ」
下卑た笑いを含んでいるのは、ダニエルの声だった。『恋人』や『女官』から導き出せるの答えに、エニスは呻きを零しそうになって口を押えた。身体的特徴をテレーサに言われても感じなかった恐ろしさを、男たちの息遣いから痛感する。震える身体を押さえるために、蹲った。
話しているのは、エニスのことだ。どこまでも無礼を働いていいと考えているのか? 当のエニスが聞いているとも思わず、男たちは下品な声でああだこうだと、憶測でエニスの身体について議論を熱くする。
怒鳴り声を上げて、期待に応えられない処女だと投げ飛ばしたい。
大きな掌が、エリスの耳を覆った。全ての悪い物から遠ざけるように、労わる気持ちが掌から伝わる。
女が恋愛して、別れたことが悪い。男たちは、そういう論理だろうと推測もできる。適当に使って捨て得る女の烙印が、エニスには押された。男避けに恋人の存在を伝えた事実が、巡り巡って碌でもない男を引き寄せる餌になっている。
「文字が奇麗だからって、身体まで具合が良いわけじゃないぞ」
身体を揺らすたびに、剣ががしゃりと揺れる。ジョルディの掌が覆っても、エニスの耳に悪意が滲み込む。
「そうだな、調教してやろうぜ。仕事をする女は生意気なんだよ」
「女官だって澄ましやがって、ぐははっ。あの顔が歪むと思うと堪らねえ。潔癖で儚げな姿が、聞いて呆れる」
悪気も他意もなく、エニスの人格を踏みにじる様子にふつふつと腹の底に怒りが溜まる。悔しいのか辛いのか、よくわからない感情で手が震え、瞬きを忘れた目が熱く潤んでいく。
「馬鹿にしな――」
掠れた声を搾り出した時、エニスを後ろから抱き締める腕に身体を硬くした。
「申し訳ないけれど我慢して。あいつらと同じ土俵に乗って戦うのは、無駄な時間だ」
ジョルディの声が耳朶に触れる。縋りたくなる。不実を働いたジョルディに頼ろうとした浅慮に、エニスは自分を呪った。
唇を噛み締め口の中に血の味がを感じた時に、空気が動いた。隠れているエニスのいる通路まで、地を這う気配が埋めていく。
「ほう、総務文書課と近衛騎士が二人いる。小部屋に籠って女の品定めに奔走中だ。何処の遊女の話しかな?」
驚くエニスの横で、眼を剥いたジョルディが難しい顔をして鼻を蠢かせた。
「エリック財務大臣様、何か御用でしょうか?」
「ダニエルが話しているとは、驚天動地だぞ。恋人とか、女官とか聞こえた。確かガルバハム女官が恋人と破局したと聞いた。何があったかは詮索無用だ。獣人は皆、耳が良いんだよ。何でも聞こえる」
「俺たちは、その、女官を――」
「手籠めにでもしたら、必ずコニアス国王の耳に入る。竜獣人の耳を侮るな」
転げるように走って男たちが出て行く。
エリックが静かに扉を閉めた。
静まり返った小部屋で、エニスは足を踏ん張って踏み出した。
「エリック大臣が、助けてくださった」
気遣わし気に、ジョルディが顔を覗き込む。
「顔色が悪い。総務部文書課まで送る。とんでもない噂が出ている。エニスは十分に注意して欲しい。噂は俺が押さえる。明日から新たな仕事がある」
エニスが一番に警戒をする相手は、目の前にいる。後退った。
「レギオン宰相補佐官様が噂の発生源ですから、対処は当然です」
苛ついた様子でジョルディが間を詰める。
「エリック大臣にも用心しろ。思惑がある」
扉を開けると、顔を上げた。怯まない。張られたら、張り返すだけだ。
「戯言にもほどがあります。御自身を、顧みてください。一人で戻ります」
黒豹獣人の鼻を掠めるように、扉を締め切った。
―――☆彡☆彡☆彡―――
食べきれなかった昼食を、エニスはテレーサの手に押し付けた。食欲がない。王宮に広がった噂は急速に静まり、エニスは静かに激務をこなしていた。
平穏無事には遠い状況だ。新たな仕事を任された苦役に喘いでいた。明日から、やっと休みになる。休みの前に、テレーサに打ち明けた。
「えええっ! 恋人詐欺でエニスを泣かせたペテン師は、ジョルディ宰相補佐官様だったの? いかさま野郎だったんだ。それで、一緒に仕事をしているって何よ? 『いかさま詐欺のペテン師のジョルディ』宰相補佐官様が、まだエニスの側をうろつく訳なのね」
テレーサの中で、ジョルディの認識が『いかさま詐欺のペテン師』と決まったらしい。
「総務部にある文書保管庫の整理をします。毎年『荷葉の月』は、保管文書の整理が多いです。今年は、さらに忙しいく感じます」
埃に塗れた制服にテレーサが眉を顰めた。
「だから、そんなに制服が汚れたんだ。恋人と一緒の職場ってことね。職場恋愛って話よ」
文書保管庫は、総務部の部屋の続きにある。ジョルディは、財務や外務の書類を丹念に読み直していた。エニスは指示された書類を探し出し、必要に応じて新たな清書を作成した。根気と忍耐が試される仕事だった
「元恋人です。いかさまペテン師はお断りです」
「嘘を吐いた理由を聞いたの?」
テレーサの問い掛けに、首を振るう。頑なな態度だと分かっていても、エニスはジョルディと仕事以外の会話を拒んでいた。
情報に通じているテレーサの元に、何か新たな噂が届いたのだろうか? だか、エニスには関係がない。ジョルディとの関りは、終わったのだ。
「聞いていません。信頼を失った時点で、私には先を考えられませんでした」
「恋人にも話せない身分とか、仕事とかあるよね。確かに寂しいけど、私たちだって、仕事の話は家族にも憚るわ。守秘義務よ。だから『いかさま詐欺のペテン師のジョルディ』宰相補佐官様には、文官が騎士のふりをする必要があったんだよ」
テレーサの言分も理解ができた。公私は混同できないし、すべきではない。だから、エニスは仕事を続けてもいられる。エニスは、一歩前に踏み出した。
「身分も経歴も偽るのは、どんな場合ですか?」
パンを咀嚼して、テレーサがふごふごと言葉を続ける。
「例えば、不正を暴く潜入調査とか? 反乱の兆しを探るとか?」
レスラリー王国は隣国との戦いが集結して、約十年になる。平和を願う相撲も復活して、安寧の時が続いている。国を揺るがす問題は、俄かには信じられない。だが、不穏を孕む芽が皆無とは言えないだろう。
「物騒な話です」
テレーサが辺りを窺ってから、声を潜めた。
「恋人を危険から守るためにも、きっと真実を伝えられなかったのよ。二年間も王宮を離れてたって話よ。他国のスパイを出し抜いたとか?」
衣裳管理課のテレーサの元には、王族から依頼が来る。衣裳の流行を作る場所は、噂の集まる場所でもある。
「一度、嘘を吐いた理由を聞いても良いと思うよ。ペテン師だって、コニアス国王の信頼も厚いって話だしね。でも酷い噂をもう聞かない。売女とか、淫乱女とかえげつない話だった」
テレーサから飛び出した言葉に、目を瞠った。噂の尾鰭は、エニスが知るよりいかがわしく、猥らになってしまったようだ。
「エリック大臣が助けてくれました」
小部屋に飛び込んだ時に、エリックが発した殺気を思い出す。
「そうだ、エリック大臣が後妻を探しているらしいよ。亡くなった先妻は病弱だったんだって。今年デビュタントだった一人娘がいるんだよ」
「どんな結婚の話も、今は、辛いです」
身体の線を貪る男たちの視線が、怖ろしかった。移動にはダビドが同行し、総務部文書課では文書保管庫に籠る。エニスは噂から物理的に遠ざかっていた。
「噂の元ネタがジェルディ宰相補佐官様だし、やっぱり『いかさま詐欺のペテン師』の名前は伊達じゃあない。敵も味方も欺くスパイって線が濃厚だわ。ねえ、休みの日にまた逢ってみれば?」
「私にはもう関係ありません。それに、今度の休みは母様の所に行きます。ガルバハム子爵家から手紙が来ました」
アリアからの手紙は、急ぎの用事を告げていた。王都の外れにあるガルバハム子爵家に、戻らなければならない。今日の仕事が終わったら、向かう予定だ。一泊して王宮に戻る。
「そっか。忙しいね。でも時間を作って、話をしてみなよ。エニスには幸せになって欲しい」
「幸せに、なれるのでしょうか?」
テレーサがエニスを抱き締めた。頭を撫でられると身体から力が抜けていく。『荷葉の月』の厳しい陽射しが、木陰から降り注いでいた。
―――☆彡☆彡☆彡―――
文書保管庫から見つけた書類を読み進めると、辺りはもう陽が落ちていた。『荷葉の月』の名残の暑さが、身体を重くする。ジョルディは首を廻して、近づく足音を待った。
「よう、『いかさま詐欺のペテン師』の宰相補佐官様。任務の遂行に支障はないか?」
ダビドが破顔したまま、顔を近づけた。
「ありまくりだ。テレーサにも同じ称号で呼ばれた」
「名誉だ」
エニスとジョルディの関係を伏せられているが、テレーサはエニスの恋人を知っているようだ。ジョルディが通り過ぎるだけで、テレーサは兎獣人の毛を逆立てて、威嚇の齧歯を突き出す。来世までも呪い殺そうとする眇めた視線で、腐った内臓を突き付けられたような皺を鼻に寄せていた。分かり易い反応だった。
「ジョルディが詐欺師だとは、気づかなかった。でも、エニスを巻き込んだのは事実だぞ。俺の大切な部下だ」
ダビドは容赦なく事実を突きつける。呼び捨てにするのも気に障る。王宮に戻ってから、何も上手く運ばない。
「俺の恋人だぞ。ダニエルが側にいたのは、迂闊だった」
女遊びが絶えないダニエルは、王宮から一歩出ると奔放な生活を送っていた。
「合わせて三人を、南の砂漠地帯に送った。『敏腕いかさま詐欺のペテン師』の宰相補佐官様の初仕事だ。エニスの碌でもないでのない噂を呟けば、左遷が待っている。でも、ジョルディは捨てられたんだろう?」
イーサン宰相が是非を問う間も与えずに、ダニエル達を砂漠へと送られた。
無責任な噂を垂れ流す奴らを、許せなかった。エニスの窮地を助けたのがエリックだったのも、情けなかった。あの場に乗り込むのは得策ではないと考えたジョルディは、出遅れた。何より許せないのは、エニスが貶められる事態を招いたのが、ジョルディ自身だという厳然たる事実だ。
遣り切れない苛立ちで、見せしめの報復人事をした。褒められた話ではない。強権を振るった自覚もある。
「捨てられてない」
「まだだったか。清廉潔白なエニスには、もっと相応しい相手がいるかもしれないぞ。ペテン師には合わない。いかさま詐欺を働くから、勝負の土俵から転げ落ちた」
正論を掲げてダビドが挑発している。
「土俵を割ってない。廻しには手が掛かっている。俺が、エニスを幸せにするんだ」
「だったら、攻めろよ。怖気づいてどうするんだ。なあ、エリック大臣の再婚の話を聞いたか? 心配だな。時間がない。エニスが再婚相手の候補かもしれないぞ」
「エリック大臣がエニスを助けた理由は、嫁にしたかったからだろうか?」
問いながら、ジョルディは考えを進める。助ければ、心証は上がる。確かにエニスは感謝していた。
「でもなあ、再婚でもエニスは貴族籍がない。侯爵家には嫁げないだろう。ジョルディは、どうする心算だったんだよ。金か?」
頷く。貴族籍がなくとも、金を積めば養女を迎える没落した貴族は多い。身分の壁は簡単に超えられると、ジョルディは考えていた。
「エニスを守るのは、俺だ」
「出会いの時も、助けたんだったな。今度もエニスは助けられて、エリック大臣に絆されるかもなあ」
街で助けた時に、ジョルディに下心がなかったとは言い切れない。愛らしい女性に、かっこいい姿を見せたいと感じた。すかさず食事に誘ったのも、チャンスを逃さないためだった。
あの時のエリックは容赦がなかった。迷いなくエニスを助けて、見返りを求めなかった。醜聞に塗れ、心の弱ったエニスにつけ入ろうとしなかった。
一方、エニスの耳を押さえながら、ジョルディは挽回の時を窺っていた。
そんな小細工さえ、エリックにはなかった。
「エリック大臣の思惑は、何処にある? 何か見落としている」
エリックの瞳に浮かんでいたのは、王宮ではめったに見ない慈愛だった。
「女を見る目にしては――」
ジョルディの呟きに、ダビドが詰め寄る。険しく視線をぶつけ合って、互いに大きく息を呑んだ。
「コニアス国王への謁見を求める」
ダビドと連れ立って、文書保管庫を出た。
―――☆彡☆彡☆彡―――
王宮を出た乗り合いの馬車は、夜の王都を抜けていく。賑やかで、穏やかな夜風が過ごしやすくなってきた。時折、馬車は停車場で止まる。王都騎士団の騎士服が見えた。ジョルディに似合っていた騎士服だ。
「あと十日もすれば『紅葉の月』が始まります。平和なレスラリー王国に、スパイがいるでしょうか?」
話せないままに、エニスは仕事をしていた。ダビドに、珍しく週末の予定を聞かれて、素っ気なく帰省を告げた。隣でジョルディは驚いていたが、何も言わなかった。
ガルバハム子爵家には、夜遅く到着した。寝静まった邸で食事をし、エニスは与えられている小さな部屋で眠った。
一夜が明け、はっきりと目覚める前にアリアが部屋にやって来た。後ろには叔父のカルロスもいる。
慌てて身支度を整える。着替えていたが、髪は手櫛で撫でただけだ。
母のアリアは頬を染めて、エニスの手を取った。
「分かって欲しいの。佳き御縁だわ」
唐突に話し出したアリアの声は上擦っている。
「急ぎの用件とは、縁談ですか?」
信じられない思いだった。眠気の優る頭がはっきりしない。二十歳のエニスは婚期を逃している。アリアやカルロスが熱望する縁談が、都合よく舞い込むとは思えなかった。
ジョルディが、ガルバハム子爵家に正式な婚約を打診したのだろうか? 僅かに浮かんだ喜びに戸惑いながら、エリアの言葉を待った。
「お相手は、エリック・アルバ侯爵様よ」
驚愕に息が詰まった。何とか声を搾る。
「財務大臣を担っておりますわ。お年は五十五歳だったと思います」
エニスにとっては、父親とも思える年齢だ。
「女官をしているエニスのことを御存じで、仕事も褒めていたわ。エニスには理解して欲しいの。苦労させたと、悔やんでもいる。でも実は、長いお付き合いなのよ。私たち親子の事情を分かっている。本当に、こんな日が来るとは思っていなかった」
王宮でエリックに助けられた話は、飲み込んだ。恋人がいたとは、家族には伝えていない。避暑に向かう貴族が多い中で、ガルバハム子爵家は王都に留まっている。貴族の体面を何とか保っているのが現状だ。王宮で一時流れたエニスの噂も、王都の外れまでは届いていないようだ。縁談の話を続けるアリアとカルロスは、喜びだけを感じている。
「後妻のお話なら、納得いたします」
「再婚でも、嬉しいわ。正直諦めてもいた。でも、思い続けていたの」
まるで自分が嫁入りするかのような恥じらいで、アリアは頬を染めた。
「願っても得られない縁談だよ。先の奥様が亡くなって――」
興奮したように話し続ける叔父のカルロスは、エリックとの縁談に前のめりだ。
「決定事項ですか?」
エリックは、エニスを憐れんだのだろうか? 醜聞を抱えたいわく付きの女を助けて、面倒を見ると決めたのだろうか?
「是非にと望んでいらっしゃる」
窮地を救い出したエリックが、責任を感じる必要はない。
「思惑があるのかしら」
ジェルディの言葉を思い出し、口から小さく零した。何を知っていたんだろうか? ジョルディは、やはり嘘を吐いてまで暗躍する必要がある立場のようだ。エニスとエリックの結婚の情報を掴んで、いち早く阻止しようとしたのだ。
何が何の障りとなるのだろうか? エニスには見当もつかない。思いつくままにエリックの家の状況を辿る。名門の侯爵だ。王宮から近く、国の南部に領地を持っていた。
「侯爵家には、デビュタント令嬢がいたはずです」
アリアが頷くと、カルロスが胸を張った。
「心配は要らないよ。十六歳になるソフィア様は猪獣人の血を受け継いでいて、元気な令嬢だ。エリック様の再婚の前に、早々自分の婚約を決めるって張り切っているらしい」
ジョルディの考えを知りたくて、でも、真実を知るのは怖いと思った。
「後は、エニスの気持ちだけよ。どうかしら?」
黒豹獣人の緒が絡んだ手首を掴む。尾の感触もなくなっていた。終わった恋だ。
「全て、母様と叔父様のお考えにお任せします」
「分かってくれて、本当にありがとう。これで安心だわ」
「仕事も辞めるのでしょうか?」
侯爵家に入るなら、王宮にはいられない。ジョルディとの繋がりが、また一つ切れて行く。
「まあ、焦らなくても大丈夫よ。婚約期間も作るって下さったわ。エニスが案じることは何もないの」
身体が震えた。現実が重く圧し掛かる。
「急な話だったから。ゆっくりしなさい。ああ、朝食は部屋に運ばせるよ」
カルロスが明るく手を振って部屋を出て行く。
「食べたら、王宮に戻ります」
嫁ぐまでのわずかな時間でも、ジョルディの側にいたい望んだ浅ましさに、エニスは呆然とした。
―――☆彡☆彡☆彡―――
遡って収支を確認しても、得られる結果は明らかだった。三度目の精査を終えて、ジョルディは結論に達する。
「コニアス国王の目論見は、正しいな。なあ、エニス。違うな。ガルバハム女官の意見を聞きたい。相撲は神事だろうか?」
相撲の話題に、エニスは手を止めた。僅かな逡巡の後で、弾んだ声が戻って来た。
「はい、当然、神事だと考えます。雲龍神に捧げるからこそ、不知火大神殿で相撲を奉納するのです。相撲の全ての所作が、神に捧げられます」
「相撲の技については、どう考える? 技も神事に通じるだろうか?」
慎重に話しかける。休日に帰省していたエニスには、落胆が見えた。ガルバハム子爵家で交わされた話は、縁談だろう。随分と気落ちして見える。相撲の話で、元気づけたかった。
「通じます」
「張り手でもかよ? 相撲には荒い技もあるだろう。神事なのに、流血の事態にもなる」
ダビドが気安く話題を広げる。文書保管庫に満ちる空気が明るくなっていく。
「張られたら、張り返すんです」
言い切るエニスが頼もしい。
相撲の話をするエニスは、普段は見せない高揚を身の内から発散させる。深く押し込めていた喜びや楽しみが、エニスの中から飛び出してくる。
「殴り合いの応酬みたいだな。復讐ぽいけど、違うのかな? 顔を張られたら、痛いじゃん」
エニスの姿に、ダビドが楽しそうに驚いている。慎ましやかなエニスの見せる、魅力的な一面だ。ダビドに知られるのは惜しいが、今はダビドがいないとエニスはこの姿を表さない。
「張り手は有効な技です。張り手を除けて、躱すのも場合もあります」
ダリルが何度も張りての技を、壁に向かって繰り出し始めた。
視線だけをエニスに向けて、ジョルディは考えの先を促す。
「でも、張られたら、私は同じ張り手で応じるのが好きです」
「随分と、気性が荒かったんだな。部下の新たな姿に、驚きの連続だ」
ダリルに向けた笑顔が、羨ましい。手に届くところに居ても、今は遠くなってしまった。必ず、もう一度手を伸ばす。ジョルディはエニスを見つめ続けた。
「神事という共通の認識を力士が互いに持つことで、同じ技を返す意味があるんです。相手への敬意を、私は感じます」
ダリルが感心したように何度も頷く。
ジョルディは話題を進めて、エニスに踏み込んでいく。
「その、一般論だが。ウルスラウス辺境伯領で、一度、相撲を見たいかい?」
「はい。見たいです」
小気味よい即答だった。
「迫力が違うんだよね。あの不知火大神殿の持つ特有の静謐な空気は、王都にはない」
「行ったことがあるんですか?」
応えたダビドに向けるエニス目が、煌めいている。エニスを独り占めしたい思いが過る。
「ああ、レギオン宰相補佐官様がね、三年前に連れて行ってくれたんだよ。あれから忙しくなったから、一緒に出掛けてない。ねえ、今度は三人で相撲に行こうか?」
「お断りします」
「即答じゃん。容赦ないねえ」
ダビドの冷やかしにもめげずに、エニスだけに話を続ける。
「相撲の聖地に行きたいんだろう? そう、考えるのは一般的だろうなあ。そうしたら、相撲は神事に留まらない」
沈黙が落ちた。エニスがジョルディを見た。燃える瞳がジョルディを捉えていた。
「難解な言い方です。でも神事を超えて、人を呼ぶという意味でしょうか?」
エニスの慧眼に、ジェルディは心が躍った。打てば響くように答えが返って来る。エニスの答えが、さらにジョルディの考えを深く広く、進めていく。
「興行になる」
「なり得ます。ですが――」
迫る足音と身体の出す音、匂うの全てがと猪獣人だと告げる。文書保管庫の扉が軋んだ。
エニスが固まった。
「ダビド!」
「承知」
ジョルディが指示を出す前に、ダビドがエニスの前に立ちはだかる。迫りくる純白の塊から一寸でも遠ざけるために、ジョルディは大声を出した。
「此処には機密文書がある。アルバ侯爵令嬢と言えども、無闇に入ることは許されない。立ち去れ」
扉の前で押し留め、侵入を阻む。ジョルディの声に、エニスが顔を伏せたのが見えた。
ざらりとした声がする。ソフィア・アルバは侯爵家の矜持を持ち、礼儀作法を身に着けて、物怖じしない令嬢だ。大声に怯むはずがない。
案の定、返事があった。
「ええっ、レギオン宰相補佐官様に御面会をお願いしたんですよ。まあ、埃が多くて、咳が出ます。部屋の奥にいるそちらが、もしかして、子爵家の――」
エニスに合わせたくなかったソフィアだ。腕を掴む。強引に絡めて、部屋の外を目指した。
「此処ではできない話をしましょう」
「まあ。レギオン宰相補佐官様からのお誘いですか? 喜んでお受けいたします。嬉しいです。勿論、結婚についてのお話ですよね。父様の所に行きますか?」
エニスが保管文書庫の奥で書類から顔を上げたのが見えた。輝きを失った瞳は、ジョルディを透かして、ソフィアを捉えていた。
「行くぞ」
ジョルディはエリックの執務室まで歩みを止めず、ソフィアを引き摺るように進んでいった。
「家族になる挨拶を、させて下さらないのですか? 腕を掴んで強引です。もう、誤解されちゃうじゃないですか? 聞いてますか?」
腹立たしかった。エニスは結婚の話を受け入れ難かったんだろう。出自について悩みを話してくれてもいた。エニスの父親については、コニアス国王から厳重な緘口令が敷かれていた。知る者は少ない。ジョルディも、事実を伝えられなかった。ソフィアが知ったのも最近だろう。
「エニスの気持ちを考えろ」
「分かっているからこそ、早々に訊ねたんです。なさぬ仲ですよ。私は仲良くなりたいんです」
ソフィアにも考えがあるのだろう。婚約者を見繕って、早めに侯爵家から出る算段を始めたと聞いている。
「真実を、エニスはまだ知らないはずだ。結婚だって、受け入れてない様子だったぞ」
思い出してもエニスは沈んだ様子だった。
「承諾の挨拶が、ガルバハム子爵家からあったんです。だから、嬉しくって王宮に逢いに来たんです。レギオン宰相補佐官様は、エニス様と親しいんですか?」
「黙れ」
「え? この頃王宮で評判だったペテン師の話を御存じですか? エニス様を騙したいかさま詐欺師って――」
「喋るな」
目の前に相撲の化粧まわしが見えた。
「あれ? 新しい化粧まわしが見える、美しいわ。もっと見たい。素敵、止まってよ」
立ち止まるソフィアを、荷物のように肩に抱き上げた。
「急げ」
目の前に化粧まわしが飛んだ。テレーサが叫ぶ。
「ぐええっ、今度は王宮で女を抱いている。『女誑しで、いかさまペテン詐欺師のレギオン宰相補佐官様』が、女といちゃついている」
新たな名前を叫んで、テレーサが走り去った。
―――☆彡☆彡☆彡―――
エリックの執務室で、ソフィアに長い説教をした。結婚に浮かれていたと詫びるエリックを苦々しく見つめる。
戻った文書保管庫の前にダビドがいた。
「俺の役割は果たしたよ」
片手を挙げて応じる。
埃の中にエニスの小麦の髪が見えた。手を伸ばして一房持ち上げる。
「結婚が決まりました」
俯いた顔は青褪めているようだった。
「エリック大臣からも報告があった。悦ばしいって祝ったほうが良いのだろうな。勤務時間は終わった。エニスは埃まみれだよ」
結婚を承知しかねる様子に胸が痛い。救い出したい。
「嘘を吐いていた理由を教えてください。聞いたら、吹っ切れると思うんです。私にとっては、強烈な張り手です」
伝えたら、いなくなってしまうだろうか。ジョルディは懸命に告げる。
「文書保管庫で、最後の検証も終わった。後は、稟議を書くだけだ。俺は、文官を離れて、全ての騎士団を廻っていたんだ。全ての相撲部屋を訪ねていた」
長い任務だった。文官でも騎士団に所属するには獣人であることや、騎士爵を持つことが条件だった。当て嵌まるのは、ジョルディだけだった。
レスラリー王国の今後を考え、望んで始めた任務だった。相撲に関わるレギオン公爵家にとっても、疎かにできない仕事だった。順調に役目は進んでいた。
「スパイだったんですか? だから、私を助けたんですか?」
唯一の不覚は、エニスとの出会いだった。素晴らしい手違いで、ジョルディはエニスに偽りを吐き続けた。
「違うよ。エニスとの出会いは、御褒美だと思った。身分も仕事も隠す俺を、雲龍神が憐れんで与えたチャンスだった。可愛い子を助けて、デートに持ち込んだ」
「卑怯です。女性の扱いにもなれていました。反則です」
年相応に、女性と過ごしてきた。だが懸命に目の前のエニスだけを追ったのは、初めての経験だった。
「必死だった。エニスに良い印象を持ってもらいたくて、全力だった」
年上の余裕もなく、エニスの前では足掻き続けた。
「それに、各部屋の稽古の様子や、新弟子の様子は互いに知っている。相撲部屋の間で隠し事はない。俺とは違う」
「では、危険分子の洗い出しですか?」
思いがけない問い掛けが続く。エニスにとって、ジョルディは余程、怪しい人物に見えてしまったようだ。
「想像が逞しいね。力士は皆が、真摯に相撲に向き合っている」
誠実に答える。
「汚職が合ったりとか、裏金を作っている人が相撲部屋に近づいたりとか、ありましたか?」
「獣人だけの相撲部屋に喧嘩を仕掛ける強者はいないよ。エニスは勘違いしている。レスラリー王国の相撲は、神事だろ」
「はい。収支を追っても、汚職の疑惑はありませんでした。内乱に繋がる動きも、記録の中にはありません。相撲は、神事を全うしています」
優秀な女官としての発言だ。
「これからは、人の集う興行になっていく。他国からの相撲興業の要請が多くて、二年をかけて、相撲の市場調査をしていたんだ。黙っていて悪かった。コニアス国王のから止めれれていたんだ。覆面調査が必要だった」
顔を上げて、エニスが笑んだ。久しぶりに見せる、満面の笑みだ。
「良かった。危険な状態ではないんですね。私は、ジョルディに隠し事があるって気付いていたと思います」
聡いエニスなら、ジョルディが唯の騎士ではないと分かったのだろう。先の言葉を待つ。
「でも、気持ちに蓋をしました。楽しすぎて、ジョルディが見せてくれる姿だけに、無邪気に信じようとしました。結婚まで夢を見ました。私も同罪です」
「心配ない。だから、俺と結婚して欲しい」
「えっ? できません。エリック大臣から許されないです。話は既に進んでいます」
ふるふると首を横に動かし、エニスはジョルディから離れていく。
「大丈夫だよ。祝ってくれる。なんなら、一緒に結婚式を挙げたって良いよ」
大きく口を開けて、エニスが驚愕の表情をしている。
「酷すぎます。アルバ侯爵家に私は入るんです」
「そうだよ。でも、心配は要らない」
「後妻だと聞いています」
震えるエニスに、ジョルディは決定的な擦れ違いを感じた。互いの理解が、根本から違っている。正す必要がある。だが、ジョルディには伝えられない。伝えてはいけない。
「落ち着こう。エニス。心配いらない」
ジョルディはエニスを抱き締めて、肩に顔を沈めた。
「当事者から、明確な話を聞く。動くな。静かに抱かれていろ」
顔を上げ強く息を吐いた。エニスを横抱きに抱き上げて、ジョルディは走り出した。
「今度はエニスを連れている。お姫様抱っこ? なら、新たな名前は――」
「テレーサ、今は見守ろう」
ダビデがゆるりと手を振って見送ってくれた。
―――☆彡☆彡☆彡―――
執務室には、人が溢れていた。辺りを見回して、ジョルディは進み出た。
ジョルディに抱き上げられたエニスの手を、アリアが握り締める。
「まあ、結婚が決まったのね」
「昨日、既にお受けしたはずです」
暗い声で答えたエニスは、表情をなくし混乱していた。
「聞いていなかったよ」
忌々しく吐き出すエリックに、ジョルディは苛立ちを押さえて言い募る。
「エリック大臣から、エニスに正しい結婚相手をお伝えください。エリック大臣は、何方と結婚するんですか?」
軽く咳払いをして、エリックがもったいぶって口を開ける。
「勿論、ガルバハム子爵令嬢だ。同時に、レギオン宰相補佐官様とアルバ侯爵令嬢との結婚を許可する」
腕の中で、エニスが項垂れる。やはりまだ伝わっていない。
「まあ、子爵令嬢だなんて懐かしい響きね」
傷心するエニスを囲んで、甘やかな声がする。
「おめでとうございます。お義母様、私も嬉しい。おめでたいことが続く。レギオン宰相補佐官様も、嬉しそうね。抱き上げて登場とか、また王宮で噂になる」
辺りを見回したエニスが、ジョルディの胸を叩き出した。
「レギオン宰相補佐官様は、放してください。誤解されます」
張り手が効く。エニスの腕が、徐々に上がってきている。顔に届くまで、もう少しだ。
「曖昧な発言が多くて、混乱する。家名は個人の特定が難しい。これからは、ファーストネームで呼ぶ。エリックと結婚するのは?」
「はい」
「私です」
手を振り上げたまま強張った顔のエニスと、真っ赤に頬を染めたアリアが同時に応えて、見合った。
仕切り線を挟んで互いに動かない。
「やはりな。間違っているぞエニス。しっかりと聞いてくれ。エリックとアリアが結婚する」
口を開けたままのエニスの肩をアリアが叩いた。
「まあ、エニスったら、私だってまだ令嬢なのよ。未婚で初婚よ。照れるわ」
沈黙が落ちた。
「アリアは大事な話をしていない。エリックの結婚相手の名前を、伝えていなかったんだろう? それに、父親の話を明らかにしていない」
ジョルディは小さな熊のぬいぐるみを懐から出した。
「電話と言う名前の魔道具だ。ウルスラウス辺境伯夫人謹製で、特注品だよ。緊急事態だ。おい、聞こえているんだろうな。コニアス国王に奏上する。エニスの父親の話の、解禁を求める」
熊が愛らしく頷く。
「許可する。余の判断が遅かったせいで、エニスには随分と誤解させてしまった」
熊は顔を左右に振って、最後は頭を抱えた。
宥めるように熊の頭を小突いて、懐に納めた。
「許可が出た。当事者から話して貰おう」
エリックが顔を上げる。アリアの肩を抱き寄せた。
「エニス、名乗り出られなかったが君の父親は私だ。ソフィアの母親と出会う前に、レギオン公爵家のカヴァネスだったアリアに恋をしたんだ」
「レギオン公爵家で出会ったんですか?」
エリックの視線を受けて、ジョルディは口を開いた。
「アリアは俺のカヴァネスで、エリックは俺の剣術指南だったんだ。俺が二人を結び付けてしまったんだ」
真摯な眼差しでアリアが向き合う。カヴァネスだった時も、あの瞳で何度も諭された。
「身分差があったから、元々結婚はできなかった。分かっていた。エニスには本当に申し訳なかった。ごめんなさい。許して欲しいとは言えない。辛い思いを長い間させてしまった。でも、愛はあったの」
「レギオン公爵家を巻き込んだ醜聞だったから、エニスの父親の名前は、緘口令が敷かれたんだ。でも、誰が結婚するのかはきちんと話してくださいよ」
アリアが項垂れる。
「舞い上がってしまったの。誤解させてごめんさない。情けないわ」
ソフィアのざらりとした声が、辺りを宥める。
「父様は、誠実で不実なんだよね。病弱だった母様も、最期は新たな幸せを掴んで欲しいって言い残したんだ。だから、私は待ってたんだよ。新しい家族が侯爵家に来るのは、楽しみなの」
エニスが何度も胸を叩いて、身を捩る。
ジョルディは横抱きにしていたエニスを下ろして、逃さぬように腰を抱き寄せた。
「ソフィア様は、レギオン宰相補佐官様、えっとジョルディとの結婚を望んでいないのですか?」
ソフィアがエニスに顔を寄せた。皆に聞こえるように上手に潜めた声で、話す。
「だって『いかさま詐欺のペテン師で女誑し』の宰相補佐官様でしょう。王都でも聞きます。そんな醜聞のある男は願い下げ。エニス様こそ、問題ないの?」
「初めてテレーサに感謝するよ」
ソフィアの話が続いている。
「私は推してる力士がいるの。なんてったって、辺境部屋のキキリン関が好きなの」
「押し相撲ですね。分かります」
エニスが頷き、互いに身振りを交えて相撲を語り出す。
「でしょう。キキリンとサククーラの一番は、毎場所の楽しみよ」
「はい。互いに譲らぬ、手数の多い張り手です。一番終わった後は、身体が赤くなってます」
二人の間に割って入った。
「ソフィア、少し黙ってくれ。エニスから俺はまだプロポーズの返事をもらっていない。俺はしっかりと張り手を繰り出した。エニスも今度は、土俵を下りるなよ」
向き合たエニスが、顔を上げる。
「覚えています。凄く効いて、目が覚めました。私からも張り手で応じます」
ジョルディが考え得る、最高の口説き文句を繰り出す。
「結婚するぞ。結婚式は、不知火大神殿で、『朽葉の月場所』のレギオン公爵の名解説を聞いた後だ。頼む、もう居なくなるな。結婚してくれ」
「嬉しいです。ジョルディと結婚します」
黒豹獣人の尾が、エニスの手首に絡みついた。
【了】
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