過ぎたる呼吸
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共にこの場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
つぶらやくんは、しっかり呼吸をしている自信はあるかな?
いや、つい最近歯医者に行った時、口呼吸を指摘されちゃってね。耳鼻咽喉科の仕事じゃないか? とも思えるけど、どうも口呼吸をすると歯が乾きやすくなって、歯垢がつきやすくなってしまうのだとか。
鼻呼吸に改めることができると、身体の調子もよくなると聞いてね。トレーニング機器も用意してもらって、絶賛矯正中ってところさ。
聞いたところだと、身体の調子を整える自律神経のうち、意識的にコントロールできるのは、呼吸だけなのだとか。そいつをうまいこと扱うことが、健康を維持していくコツらしいよ。
それだけに、日ごろから呼吸をめぐるトラブルは、いろいろなところで起こっているみたい。僕も、学生時代に不思議な体験をしてね。そのときの話、聞いてみないかな?
僕の同級生に、山田君という男の子がいた。
良い意味でも悪い意味でも、手を抜くことが大嫌いな子でね。その日も体育のシャトルランでクラス屈指の記録を出すや、ぶっ倒れてしまう。
過呼吸だと、先生たちは診た。当時はペーパーバッグ法が一般的だったからね、紙袋が口にあてがわれて、落ち着きながら呼吸するようにいわれたんだ。
袋の中で彼は、やけに音を立てる。
スッスッ、ハッハッ、スッスッ、ハッハッ……。
運動場の隅にいるというのに、少し距離を離した僕の耳にも、呼吸音が届くほどの乱れ具合。けれど先生からは、周りの人が心配すると、かえって当人にプレッシャーがかかって、治りづらくなると、仰せつかっている。
僕たちはできる限り、普段と変わりないよう彼と接した。1日の最後のコマだったこともあり、彼は紙袋を手放さないままで、掃除も帰りの会も済ませていったんだ。
ところが、次の日になっても彼は、紙袋を手放さなかった。
いや、「手は放していた」かな。彼は袋の端にひもを通し、耳にかけられるようにして、あたかもマスクを思わせる形態のまま、口に袋を当てていたんだから。
底を詰めてあるとはいっても、お遊戯会での変装を思わせる格好に、クラスのみんなからは失笑を買ったよ。でも僕は、朝の時点で彼が職員室の先生に連絡帳を渡し、おそらくはあの状態の事情を伝えているのを見ている。
――おそらく、のっぴきならない事情があるのでは……。
事実、彼は学校にいる間はほとんどマスクを取らなかった。給食も牛乳のみで、ストローを顔と袋のわずかなすき間から差し込み、飲んでいく始末。それを笑うのが3分の1で、もう3分の1は彼の残したものも含めて、お代わり合戦に興じる面々だ。残りの3分の1は彼に何かあったんじゃないかと、じょじょに心配になってきていたよ。
次の日も彼は同じ格好を見せ、僕の不審はますます増す。
過呼吸は、そう長引くものじゃないと聞いているからだ。きのう、おとといに比べたら、彼の呼吸は落ち着いている。ただときどき、思い出したようにあの「スッスッ、ハッハッ」が飛び出すんだ。
2日目となると、さほど反応する人もいなくなっている。先生方もあいかわらず、表立った対応を見せない。それでも、この状態はさすがにおかしくないか?
僕は休み時間に、それとなく彼に具合を尋ねてみたが、気にしないでほしいと返され、何も言えなくなってしまう。それからは遠目に、彼のことを観察していたけど、問題は放課後になって起こった。
僕の学校の出入口は、校舎正面にあたる北の校門以外にも、車が入ってくるために三方が存在する。そのうちの南門が、登下校でいつも僕と彼が使う場所。
彼より何歩か後ろに離れていた僕だけど、ふと背後から笑い声が。ほどなく、僕をどんどん追い抜いていく、低学年たちの姿を目にしたんだ。思い思いに全力疾走する彼らは、これから遊ぶ約束でもしているのだろうか。
前を行く彼にも、同じように波が襲い掛かる。子供たちはそのほとんどが彼をうまいことかわしていくが、ただひとり。彼のぎりぎりを通り過ぎようとしたのか、明らかにぶつかった子がいたんだ。
ごめんなさいと声を出すも、ぶつかった子は振り返ることなく、そのまま門を出ていってしまう。一方の彼はというと、当たりどころが悪かったか、バランスを崩してそのまま転んでしまった。
僕はすぐ駆け寄ったけど、ほんの数歩手前まで来たとき、彼はマスク代わりの袋を抑えながら、「来るな!」と僕を静止してきた。
彼のするマスクは、口にあてるのとは反対部分。底の部分に穴が開いてしまっていた。それを彼の手が押さえているのだけど、僕は気づいてしまう。
底にあてた彼の手のひら。その指の間からツタのようなものが、何本も這い出していることに。見ると、彼の身に着けている襟や裾からも、何本か同じようなものが。
「すぐに離れるんだ!」
もう一度注意してくると、彼は立ち上がって門をかけ出ていく。だが、彼が転んで手をついたところ、細いツタが一本、土から頭を出していたんだ。件の門とそばのフェンスにも、不自然に絡まるツタたちがいくつか。
そして僕自身も、歩いていてやけに足の裏が地面に引っ付く感触があった。ガムでも踏んだかなと思いきや、靴底からもツタが生えていたのさ。それもアスファルトを相手に、曲がるどころか小さく穴を開けるくらいの剛毛がね。
彼はそれから数日学校を休み、登校してきたときにはもう、袋を取り払っていた。
彼はあのことについて、何もいってはくれなかった。でももし、あの2日間で彼がマスクをしていなかったら……。想像して、少しぞっとしてしまうんだ。