その後の小話
イチャイチャしてるだけで短いです。
時系列は本編終了から一ヶ月後くらい。
「最近気づいたんだが」
「何ですか?」
「お前は左手だと逃げないな」
ある日の夕刻、ラルスが高等学校から帰ってきた後のことである。自室で鞄を机の脇に置くやいなや、ラルスは興味深げにそんなことを言い出した。
いつも通り、彼の制服の上着ボタンをちまちま外していたエデニアは怪訝な面持ちで視線を上げる。“左手だと逃げない”という言葉の意味がいまいち分からない。
ラルスもそれは承知していたようで、「見てろよ」と小さく呟いた後、不意にエデニアの髪を右手で掬った。
そのまま自身の口元へ持っていき、軽く口付ける。
「な、な、何を……」
伏し目に沿った、男の短い睫毛が美しく扇状に広がっている。
それだけのことなのに、ただ睫毛が綺麗なだけなのに、その光景を見ていると、全身のありとあらゆる熱が迫り上がってきて、頬と耳に集中する感覚がする。
半ば無意識にエデニアが後ずさったところで、ラルスは彼女の髪をパッとすぐさま解放した。
「ほら、右手だと恥ずかしがってすぐに逃げるだろ」
「何ですか? これは一体何の時間ですか?」
ラルスは「予想通りだ」みたいな納得顔をしているが、こちらはまったく予想通りではない。
困惑するエデニアをよそに、再びラルスは手を伸ばす。
ただし今度は左手で、その動きは右手より数段鈍く遅い。
ゆるゆると、男の左手が己の頬に伸びてくるのを、エデニアは固唾を飲んでじっと見つめていた。
その一秒後、筋張った指先がエデニアの頬に触れる。薬指に嵌められた指輪が当たると、ひやりと一瞬冷たくて、エデニアの肩がピクリと小さく跳ねた。
「……やっぱり、左手だと逃げないな」
ラルスは嬉しそうに目を細める。
「右手の時は、髪で触れられるのも飛び上がって恥ずかしがっていたのに」
指が優しく、頬を撫でていく。
「だが左手の時は、お前は顔を赤くして、触れられる瞬間をじっと待っている。それは何故だ? エデニア」
何故だと訊かれても、そんなの今まで意識したことがないから分からない。けれど、エデニアにとってラルスの左手が特別なのは確かだった。
「……貴方の左手は、私が駄目にして、私を駄目にしたもので……以前までは、目に入ると辛くなるものだったんです」
エデニアのせいで動かなくなった左手。
エデニアの人生をめちゃくちゃにした左手。
それは、この四年間ずっと彼女の後悔と罪滅ぼしの象徴だった。
「でも、今は違う。今は貴方の左手が動いてるのを見るだけでどうしようもなく嬉しくなって……触れられたいと、そう思うんです」
だからきっと、待ってしまうのだ。たとえどんなに恥ずかしくても、触れられるのを待ち望んでしまう。——そう続けようとしたが、できなかった。
目の前の男が、いきなり思い切り抱きしめてきたからだ。
「ら、ラルス様⁉︎」
「……僕も触れたい」
「え?」
「ずっと、お前に触れたかった」
そう言ったラルスの声は、少しだけかすれて震えていた。
それに気づかないふりをして、エデニアも己を包む身体を力強く抱きしめ返す。
「…………」
「…………」
そのまま数分ほど経っただろうか。
先に音を上げたのは、エデニアの方だった。
「…………ラルス様」
「……何だよ」
「……ちょっと、恥ずかしくなってきました」
「……だろうな。心臓の音がすごいぞ」
そういうラルスの心臓の音だって、ものすごい速さでドンドコ聞こえる。人の心音など今までちゃんと聞いたことがないので、こんなに速く大きくて大丈夫なのかちょっと心配になるが、まあそれはお互い様だろう。
大体、さっきまでエデニアは髪に口付けられただけでも恥ずかしくて堪らなかったのだ。今まで何度かしたことがあるとはいえ、数分間のハグで降参するのも当然といえば当然だった。
とにかく身体がポカポカしすぎて熱いので、少しだけラルスから身体を離す。
ほっと息を吐くついでに、中途半端に外された制服のボタンが目に入る。そういえば着替えの途中だったなと思ったところで、ふいに上から声がかかった。
「エデニア」
「はい?」
素直に上を向いたエデニアの顔に影がかかって、そのまま唇を塞がれた。エデニアが反応するよりも先に、ラルスが離れていく。
「フン、今日はこのくらいにしといてやる」
そう言って、真っ赤な耳をした男は、勝ち誇ったように笑っていた。