最終話
ラルスの左手が、自分の手を握っている。エデニアの手を包み込んでいる。その動きはあまりにもゆっくりで小さく、弱々しいものだったが、確かに動いていた。
この四年間、人形の手のように微動だにしなかった左手が。エデニアのせいで動かなくなった左手が。エデニアの人生をめちゃくちゃにした左手が。
どうやら、人は驚いて感情が乱れすぎると何もできないらしい。頭は混乱して、今すぐ叫び出したいくらいなのに、エデニアは呆然と突っ立って、彼の手を見つめていた。
「いったい、いつから……」
「……ここまで動くようになったのは、ひと月ほど前からだ。まだ痺れが残っていて、動かすのには時間がかかるがな。だが、前より力を入れる感覚が戻ってきている」
「……このことを、他の人は?」
「リハビリに協力した僕の主治医は知っている。それ以外は、まだお前だけだ。口止めしているから家族も知らない」
四年前の事故から月に一度、ラルスは屋敷に医者を呼んで麻痺した左手を診てもらっていた。初診以外でエデニアが診察に同席したことはない。彼の手が動かないのをより一層思い知らされているようで、あまり気分の良いものではないからだ。
毎月毎月、意味もなく、ただ動かない左手の確認をしていたのではなかったのか。
「怪我をした時、お医者様は、もう、一生動かないだろうと……」
「そうだな。確かにそう言われた」
「だから、だから貴方は、一生動かない左手の代償として、一生貴方に仕えろと、私に言ったのではないのですか?」
「そうだ。……本当に、すまないことをした」
「だったら、どうして今更、“自由になれ”などとふざけたことを言うのですか⁉︎ 左手が動いたから、償いは終わりにして、もう私は用済みだと?」
「違う! そうではない!」
ラルスが語気を強めて否定する。彼の短い睫毛を濡らして、そのまま涙が頬を伝っていく。その様子を、エデニアはただじっと見つめていた。誰にも拭われることのないその涙は、音もなく地面に落ちていった。
「……始めは、自分の左手を治そうなどと考えてはいなかった。お前を縛りつけるための代償を払ったと思っていたんだ。だから、もしまた元通りになるようなことがあれば、お前を手放すことになるかもしれない。そう考えると、怖かった」
「…………」
「だが、それがいつからか苦しくなった。お前を不幸にしている原因が自分であることに、耐えきれなくなった。お前を縛りつけてしまった償いをしたいと……お前を自由にすべきだと……そう思った」
「……私ではなく、貴方が、償う?」
「そうだ。僕はお前の人生を台無しにした償いを、しなければならない。左手を治そうと、動かそうと思ったのもそのためだ」
弱々しくて微かだが、ラルスの左手にまた力がこもる。ここまで動かすためにもきっと、たくさん時間をかけたはずだ。
この彼の手を握り返すべきなのだろうか。エデニアには分からない。どうすればいいのか、分からない。
動揺するエデニアに、ラルスは続けた。
「僕の左手は、こうしてまた動くようになった。……もう、償いはしなくてもいいんだ。エデニア」
「……あ、わたし……」
「今度は僕が償う番だ。僕にできることなら、お前の望むままにしたい」
「ラルス様、私は……」
「……お前が死んで償えと言うならば、僕は出来るだけ苦しんで死ぬように努めたいと思う」
この男の言葉は、果たして自分が望んでいたものなのだろうか。彼の元から離れて、こうして自由になることを、四年間ずっと、自分は望んでいたのだろうか。償わせて、こうして惨めな言葉を吐かせたいと、自分は思っていたのだろうか。
「……違う。違う、違うんです。そうじゃない……!」
「……エデニア?」
「私は、貴方に償ってほしいわけでも、死んでほしいわけでもないんです。私はただ、ただ……前みたいに、戻りたかっただけ……」
前みたいに、たくさん話したいだけ。少しかすれた低い声で、優しくエデニアの名前を呼んでほしいだけ。訳もなく笑い合いたいだけ。側にずっといたいだけ。
四年前のあの日から、きっとエデニアが心の底で望んでたのはそれだけだった。初めて好きになった人と、ずっと一緒にいたかっただけだった。
なのに、どうして上手くいかないのだろう。どうして、ラルスと自分は主人と使用人なのだろう。どうして、自分達の関係はこんな風になってしまったのだろう。どうして自分は今、好きな人にこんな惨めな言葉を吐かせるような、浅ましい人間になっているのだろう。
エデニアにはもう分からない。分かるのは、すごく辛くて悲しいことだけだ。四年前の時よりも、心臓が痛い。苦しくてたまらない。
「……泣くな、エデニア」
溢れ出したエデニアの涙を、ラルスが取り出した上質そうなハンカチで拭う。前にもこんなことがあったはずだ。あの時も、目の前の彼は今みたいに戸惑った顔をしながら、こうしてハンカチを取り出していた。
どれだけ時が経とうと、歪になろうと、変わらないこともある。きっとエデニアが好きになったのは、ラルスのこういう所だったはずだ。
「……昨日、言いましたよね。私は、貴方も自分自身も嫌いだって」
「……ああ」
「あれは半分、ウソです。私が嫌いなのは自分自身だけです」
「…………」
「貴方が左手を怪我した時、はじめは悲しくて、苦しくて、罪悪感で押し潰されそうでした。でも、そのうち気づいたんです」
「……何に?」
「……貴方の左手が麻痺してしまったことは、私にとって、都合が良いことに」
ラルスの左手の償いをするという名分が生まれたことで、顔も知らない男との縁談が消えた。歪ではあるが、仕事を辞めず、ラルスの側にいたいという願いも叶った。よく考えてみれば、それは全てエデニアにとっては都合の良いことだった。
その事実は、エデニアにとって受け入れ難いものだった。だから、知らないふりをしたのだ。自分の置かれた状況は、仕方のないものだと、必死に正当化しようとした。
自分がこんな辛い目に遭っているのはラルスの左手のせいだと、罪滅ぼしをしているからだと、そうやって押しつけて、楽になろうとした。
ラルスが自分のために左手を動かそうと努力していた間も、自分は逃げようとも関係を変えようともせず、罪の意識にすがっているだけだった。浅ましい人間に、落ちぶれてしまっただけだった。
「……ラルス様の言う通りかもしれません。私たちは、もうとっくに限界だった」
「…………」
「もう、私は貴方が思っているような人間ではないんです。浅ましい、人間なんです。綺麗な人間で居続けるには、……四年は、私には長すぎました」
エデニアの瞳からひとつふたつと涙が落ちる。それを、ラルスの左手が拭った。力は弱々しくて、まだ微かに震えているが、触れられると何故か心の底から安心した。
「……お前は、僕がお前をどのような人間だと思っているのか知っているのか?」
「……それは……」
「お前は頑固で、愛想がなくて、変なところで卑屈で、生意気で、よく泣いてよく怒っている。エデニア・ローレンとは、そういう特徴を持った人間だと僕は思っている」
「…………」
「そこに、お前の言う“浅ましい”という特徴が加わる。ただ、それだけのことだ。……そういう人間のお前が、僕は好きだ」
そう言って頬をなぞる彼の左手に、エデニアは静かに己の手を重ねた。いつか触れた時、綺麗で滑らかだった彼の手は、今は筋張って少しカサついている。その肌をゆっくりとなぞっていると、するりと彼の手が抜けて、今度はエデニアの手が上から重ねられた。あの頃のように手荒れの痕が目立つ彼女の小さな手を、ラルスは片手で難なく包み込んでしまった。
「……四年前の事故の後から、もうずっと、ずっと思ってきました。私の中にあるこの気持ちは、貴方に対する後ろめたさから来るものだと」
「……ああ」
「貴方の一挙一動で心がこんなに動かされるのも、貴方を大切だと思うのも、全部左手のせいだと、罪悪感のせいだと言い聞かせていました。でも、本当は、違うんです。私は、わたしは……」
エデニアの語尾が震える。自分の気持ちを言うのが怖かった。使用人の自分が持ってはいけなかったものだ。一度は目の前の彼に告げずに墓場まで持っていくと決めた過去が、エデニアの唇を戦慄かせた。
「エデニア、僕を見ろ」
エデニアとラルスと視線が交わる。彼の瞳はまだ少し潤んでいるが、今までと同じ意志の強さがあった。そして、今までにはなかった愛しむような温かさと、落ち着きの色がそこに加わっている。
「お前が何を望むのか、どんな気持ちなのか、僕は聞きたい。今度はもう間違えないから、最善を尽くすから……どうか、教えてくれ。エデニア」
「………私は、わたしは、」
「うん」
「私は、貴方が……好きで、」
「…うん」
「貴方の側に、ずっといたくて。……償いとか、罪滅ぼしとか、そういうのじゃなくて、わたしは、私は、ただ、貴方と一緒に生きていきたい……!」
そう言った瞬間、エデニアはラルスに強く抱きしめられていた。己の背に回された彼の手は、左右とも力が込もっている。それがどうしようもなく嬉しくて、エデニアはまた泣いてしまった。
ラルスの温かい両手の感触を噛み締めながら、エデニアも彼の背にゆっくりと手を回した。
◇
それから少し時間が経って、次の日のことである。
その日もいつも通り、高等学校から帰ってきた己の主人を、エデニアは無表情で迎えた。
「おかえりなさいませ」
「……おい」
「はい?」
「朝の見送りの時もそうだったが、なんでまだ無表情なんだ」
「元々こういう顔です」
「嘘をつけ!」
ラルスは眉を顰めて、口をへの字に曲げている。どうやらエデニアの表情がまだ乏しいことに対して拗ねているらしい。そのことが何だかおかしくて、エデニアは目元をゆるめた。
「すみません。本当は、昨日の今日で、どういう顔でお迎えしたらいいのか分からなくて」
「……そ、そうか」
「……どうして下を向いているのですか?」
「お、お前が急に笑うからだ。笑うならそう言え!僕にも心の準備というものがある」
「ええ……」
笑うだけでなぜ事前告知しなければならないのかよく分からない。だが、屁理屈をこねる目の前の男の耳が赤くなっているのを見たエデニアは、これ以上言及しないことにした。
代わりにますます嬉しそうに笑みを深めて、いつも通りラルスの鞄を受け取ろうとする。
「ラルス様、荷物をお預かりします」
「……いや、いい。自分で持つ」
「………」
「何だよ、その白々しい目は」
「いえ」
「……言わなくても分かるぞ。今まで散々持たせておいて、何を今更格好つけているんだとでも思っているのだろう」
「格好つけていらしたのですか?」
「違う! ……チッ、鞄を頼む」
「かしこまりました」
何だか悔しそうなラルスから荷物を受け取って、そのまま部屋へと向かう。鞄を持つ持たないは置いておいて、純粋にラルスが自分を気遣ってくれたのは嬉しかった。道中でそのことを伝えるとまた彼は下を向いてしまったが。前はちゃんと見て歩いてほしい。
転びやしないかと内心ハラハラしながらラルスの後ろについて歩いていると、いつの間にか部屋に到着していた。
エデニアはいつもの場所に鞄を置いて、ラルスの方に向き直る。彼もこちらをじっと見つめていた。
「エデニア、話がある。僕たちのこれからのことだ」
「……はい」
「昨日あの後、父さんと話をした。左手のことや、お前と一緒になることについて」
「…………」
無意識に、エデニアの身体が強張る。ラルスは名のある資産家の息子で、自分はただの使用人だ。昨日、四年越しにやっと想いが通じ合ったからといって、一筋縄ではいかないことは理解している。それでも、不思議ともう不安は無かった。どんなことも、乗り越えてみせる。
エデニアは押し黙って、勇ましい軍人のように覚悟を決めた顔をした。そんな彼女に対して、ラルスは非常に言いにくそうに声を掛ける。
「……その、何やら腹を決めているところ悪いが、僕とお前の結婚自体は認めてもらった」
「えっ⁉︎」
「……ただし、条件がある」
「…………」
「おい、その戦士みたいな顔をやめろ。言いにくいだろう」
別にしたくてしているわけではないのだが、自分は相当厳しい顔つきをしているようだ。それだけ真剣に考えている証なのに。若干不服に思いながらも、エデニアは自分の顔を軽く揉み解した。
「それで、その条件とは何ですか?」
「結婚は僕が大学を卒業してから、だそうだ」
「…………」
「そのことについては僕も考えていた。学生のうちにするより、お前をきちんと養えるようになってから結婚するのがやはり望ましいのではないかと。だが、その場合、お前に4年も待たせることに…………エデニア?」
「……それだけですか? 他に条件は?」
「他? 父さんに言われたのはそれだけだが……そうだな、後はお前の実家のこともあるな。お前の両親にも取り返しのつかないことをしてしまったから、まずは謝罪を……」
「そ、それもありますけど、旦那様が出した条件は本当にそれだけなのですか?」
エデニアの顔に困惑の色が浮かぶ。正直、もっと無理難題を出されて、諦めるように言われるかと思ったのだ。目の前の彼女の戸惑いの訳をラルスも察したのか、またもや非常に言いにくそうに口を開いた。
「……なるほど。お前は、もっと大々的に反対されると思ったんだな?」
「当たり前です! だって、私を専属使用人にする時も旦那様は反対されていたではないですか。なのに、結婚はそんな簡単に認めるなんて……どう考えてもおかしいです」
「…………」
「ラルス様? どうしました? もしかして、何かあるのですか?」
「別に、どうということでは無いが……まあ、今回のことはお前を専属使用人にするための交渉の件も関わっている」
エデニアがラルスの専属使用人になる際には相当揉めたらしいが、結局彼が父親と何か交渉をして全て片付けしまった。
今までのエデニアは、自分には知る機会も必要もないことだと思っていたが、一体彼らはどんな交渉をしたのだろう。
「四年前、旦那様と何をお話しになったのですか?」
「…………」
「ラルス様」
「……お前を専属使用人にしなければ、その……死んでやると言った」
「……え?」
「……お前を僕から引き離すなら、自分の命を絶ってやると、父さんを、……脅した」
ラルスの語尾がだんだん小さくなっていく。それから、呆気に取られて固まるエデニアを、彼は非常に気まずそうに見つめていた。一応過去の自分のしたことに対して後ろめたさはあるらしい。
「な、何てことを……! 貴方は馬鹿なんですか⁉︎」
「ば、馬鹿とは何だ! あの頃は本気だったんだ!」
「なお悪いです!」
確かに四年前のラルスは今より危うさが際立っていたが、まさか自分の命を盾にしていたなんて。当時の彼はただでさえ大怪我をしたばかりで精神が不安定だったのだ。本当に自殺しかねないと、彼の父親も了承せざるを得なかったのだろう。
「……昨日お前の話をした時も、もう四年も僕がお前に執着しているのを見せられて、今更どうこうするつもりはないと言われた。ただし、大学にはちゃんと進学して卒業しろと」
「…………」
それはもう、認められたというより、呆れられたに近いのではないだろうか。今度からどんな顔をして旦那様に給仕をすればいいのだろうと、エデニアは内心ひそかに悩んだ。
そして、若干白けてしまった場を仕切り直すかのように、ラルスがわざとらしい咳払いをした。
「……とにかく、晴れて僕とお前は将来を誓った仲になったわけだ」
「はい。そういうことになりますね」
「…………」
「ラルス様?」
「手を出せ」
「はい」
ラルスが制服のポケットから小さな箱を出した。それからその箱から指輪を取り出すと、エデニアの指にそれをはめる。まだラルスの左手はゆっくりとした動作しかできないが、それでも彼が両手を使っていることがエデニアには嬉しくてたまらなかった。
「これは、婚約ゆび……おい、何故泣いている?」
「だって、貴方の左手が動いているから……」
「…………」
指輪をはめたエデニアの手を、ラルスがゆるく引っ張る。すっぽりと彼の腕の中に、エデニアの身体が収まった。
「……本当は、泣くのではなく笑うところなんだが」
「すみません……でも、これは嬉し泣きです」
「フン。なら、いい」
「……この指輪は、いつ買ったんですか?」
「今日だ」
「…………」
「何だよ。……おい、ニヤニヤするな」
「元々こういう顔です」
「嘘をつけ!」