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第三話


 それから次に気がついた時には、エデニアは病院のベッドに寝かされていた。そこで自分が階段から落ちて気を失ったこと、身体の数箇所に打撲、右足の骨に小さなヒビが入る怪我を負ったことを聞かされた。


「……でも良かったわよ、無事に目が覚めて。お医者様は命に別状はない怪我だって言うのに、エデったら三日も目を覚さなかったんだから」

「色々とご心配をかけてすみません」


 見舞いに来てくれた彼女はエデニアと同じ使用人仲間である。宿舎ではエデニアの隣室を使っていて、上司と同様、何かとお世話になっている先輩だった。


「足は大丈夫なの? 骨にヒビ入ってるんでしょ?」

「安静にしてれば治るそうです。体重のかからない所であまり痛みもないですし」


 一応骨折という部類には入るらしいが、飛んだり走ったり過度な負荷をかけなければ、いつもと同じように歩くことが可能だった。打撲の方もまだ痣は消えていないが、腫れや痛みはひいている。


「そ。まあ、あんまり無理はしないでよね。アンタは怪我人なんだから」

「はい、気をつけます。……それで、あの、先輩」

「何?」

「ラルス様のことなんですが……」


 ラルスの名前が出た瞬間、目の前の彼女の顔色がサッと変わる。視線を彷徨わせて、何かを迷っているような表情だった。


「みんな、そうなるんです」

「え?」

「目を覚ましてからこの二日、お見舞いに来てくれた人みんな、ラルス様のことを尋ねるとそんな顔をするんです。それで結局、何も教えてくれません。今はとにかく治療に専念しろって」

「エデ……」

「ラルス様はどうなったんですか? あの時、階段から落ちる私を抱きしめて庇ってくれたことは覚えています! ラルス様もこの病院にいらっしゃるのですか?」

「…………」

「お願いです! 教えてください!」

「……そうね、エデには知る権利があるわ。だってアンタは当事者なんだもの」


 先輩はそう言うと、小さなメモを取り出して、そこに何かを書きつけた。渡されたメモを見ると、ここではない病院の名前と住所、連絡先が書かれている。


「これは?」

「アンタ、もうすぐ退院でしょ?」

「え? あ、はい。このまま何事もなければ三日後に退院します」

「じゃあ、退院したらその病院に見舞いに行きなさい。ここよりもっと大きな病院よ。そこにラルス様がいるわ」

「お、大きな病院って、」

「別にラルス様が死にかけてるとか記憶喪失になったとかそんなのじゃないわ。何ならアンタより先に目を覚ましたし。……ただ、難しい状態なのは変わりないの。だから、中途半端に他人から聞くより、自分でしっかり見て、ラルス様とちゃんと話をした方がいいわ」

「…………」

「関係者以外面会謝絶ってことになってるけど、アンタなら大丈夫でしょ。一応ラルス様にも伝えておくわ」

「……はい。ありがとうございます」


 とりあえず、ラルスに命の別状はないらしい。それは良かったと思う。……けれど、“難しい状態”とはどういうことだろうか?

 それに、もうひとつエデニアには気にかかることがあった。


「あの、私はまだお屋敷の使用人なのでしょうか?」


 他の使用人もいる中あれだけ騒いでいたのだ。ラルスとの結婚をめぐるあの会話は聞こえていたはずだ。それに加えて、故意ではないにしろ主人に怪我まで負わせてしまった。使用人を解雇されていてもおかしくは無い。

 ある意味当然のエデニアの問いに、先輩は再び苦々しげな顔をする。


「……そうね、そのこともあったわね。大丈夫、アンタは解雇されてないわ。怪我についてもあれは事故だったし、落ちるアンタをラルス様が庇ったのを目撃した人も沢山いたし。今も屋敷の使用人よ。……ただ、」

「ただ?」

「何も、問題がないといえば嘘になるわ。その辺もラルス様ご本人の口からちゃんと聞きなさい。それからこれ、ご実家から手紙が来てたわよ」

「あ、ありがとうございます」


 封筒の日付を見るに、昨日来たものらしい。おそらく内容はエデニアの怪我のことだろう。事故のすぐ後、上司が自分のことを電話で知らせていたと先輩が教えてくれた。また今度お礼を言わなければ。

 ……にしても、事故のすぐ後に電話でエデニアが怪我したことを知ったのなら、もう少し手紙が早く届いてもいいのに。不自然に日が空いていることが何となく気になった。


 受け取った手紙をじっと見つめていると、ベッドの側に居た先輩が席を立った。


「それじゃ、私はそろそろ戻るわ。午後の仕事も始まるしね」

「はい。お忙しい中来てくださってありがとうございます」

「うん。……エデニア」

「何ですか?」

「アンタ、頑張りなさいね」

「え?」

「外野の私から言えるのはそれだけ。じゃあね」


 それだけ言うと、先輩は颯爽と去っていってしまった。取り残されたエデニアは、しばらく無言で扉の方を見つめていた。それから実家からの手紙に視線を移す。


「……縁談、今どうなっているのかしら」


 事故があってから今日で五日経っている。もう既に二月に入って、仕事を辞めるまであと二ヶ月を切ったはずだ。相手方は今回の怪我のことを知っているのだろうか。日常生活を送る分には問題ないはずだが、右足が完治するまでには早くて三ヶ月ほどかかると医者には言われた。


 怪我でしばらく満足に動けないのだと相手が理解してくれるといいが。仕事を辞めるのを伸ばして欲しいと懇願した時も、縁談相手から散々手紙で罵倒されたのを思い出して、エデニアは目を伏せた。


 ……とりあえず、今は実家からの手紙を読もう。気を取り直して、エデニアは封筒を開けた。


 手紙には、知らせを受けて驚いたこと、エデニアの怪我の具合を心配していること、帝都まで一度様子を見に行こうとしたが、断念したことなどが書かれていた。


「断念……?」


 エデニアはポツリと呟く。違和感のある文章だった。文脈からして何も帝都へ行く金が足りなかったわけではあるまい。では何故断念したのだろうか? その理由が書かれていない。

 疑念を抱きつつも、手紙を読み進めていく。そして最後の一枚に差し掛かる。


 そこには、エデニアの縁談が無くなったことが書かれていた。





 ◇





 退院したその次の日に、別の病院に見舞いに来るとは何だか変な話だ。そう思いながら、エデニアはとある病室の扉の前に居た。

 部屋の前の名札には、もちろんラルスの名前が書かれている。


 先程からノックを何度かしているのだが、いかんせん返事がない。部屋の主人の許しがないと入ることを躊躇ってしまうのは、エデニアが使用人だからだろうか。

 しかし、このまま帰るわけにもいかなかった。寝ているだけかもしれない。そう自分に言い聞かせ、ようやくエデニアは扉を開けた。


「……失礼します」


 部屋に入って、真っ先に感じたのは風だった。どうやら病室の窓が空いているらしい。頬を撫でる感覚に誘われるように奥に視線をやると、ベッドの上に佇む彼がそこに居た。身体を起こし、窓の外を眺めている。扉が開いた音は聞こえたはずだが、こちらには見向きもしない。


 エデニアがゆっくりとベッドの側に近づくと、彼が振り返った。特に驚いた様子はない。おそらくエデニアが今日来ると聞いていたのだろう。


「最近、お前のそういう顔をよく見るな」

「……どういう、顔ですか?」

「苦しそうな、今にも泣きそうな顔だ」


 どう返事すればいいのか分からなくて、エデニアは結局黙ることしかできなかった。

 部屋に入ってからずっと、彼女の視線はある一点に注がれている。包帯が巻かれたラルスの頭だ。彼のこの怪我は、階段から落ちたためだと一眼で分かった。


「僕は、お前にそんな顔をさせたかったわけではない」

「……ラルス様、私は……」

「あの時言った結婚の話も、僕は本気だった」

「…………」

「お前が泣くのを見て、どうにかしてやりたいと……本気で思っていた。たとえお前が使用人であろうとなかろうと、関係なかった」


 ラルスが小さく笑う。それは、どこか諦めたような、自嘲めいた冷たい笑みだった。


「今なら分かる。僕はお前が誰かにとられるのが嫌だったんだ。お前はずっと僕の側にいるのだと、何の保証もないのにそう思っていたんだ。……きっと結婚という言葉があの時出たのも、お前を僕のものにするのにそれが一番手っ取り早いと考えたからだ」

「……私は、使用人です。貴方と結婚することはできません」

「そうだな。今の僕はお前と結婚することはできない。環境も、年齢も、何もかもが足りない」

「…………」

「だが、お前を手放すことも、僕にはもう無理なんだ」

「え?」

「たとえお前に嫌われたとしても、お前を奈落の底に落としてでも、僕はお前を手放さないと決めた」

「ラルス様、一体どういうことですか? 貴方は何を……」


 困惑するエデニアをラルスはただ静かに見つめる。その瞳からは何の感情も読み取れない。それがエデニアには怖かった。あの時と同じだ。後戻りできないところまで追い詰められるのが怖くてたまらないあの感覚。

 数秒の沈黙の後、ラルスがゆっくりと口を開いた。


「お前の縁談が、破談になっただろう。それは僕の指示だ。そうするように命じた」

「命じたって、誰に、」

「……お前の両親だ。お前の家族から、僕はお前を買った」

「か、った……?」

「最初は激しく抵抗したらしいが、左手の償いだと話せばもう何も言わなくなったという。金も結局受け取らなかった」


 いったい何を言っているのだろう、この人は。分からない。分からない。分かりたくない。エデニアを家族から買った?何故。左手の償いとは何の話だ。何故その話をしたらエデニアの両親は諦めた?


 心臓が激しく脈打つ音が随分とうるさく聞こえる。辛うじて咀嚼した言葉を、エデニアはそのまま返した。


「左手、とは、何のことですか?」

「——麻痺して動かなくなった、僕の左手のことだ」


 ただ、淡々とラルスは告げる。


「正確には、肘より下の腕から掌にかけてだが。動かそうとしても痺れて思い通りにならない」


 まるで、それが当たり前であるかのように。


「階段から落ちた時に、打ちどころが悪かったらしい。医者は、頭の左腕を動かす神経が傷ついたのだろうと言っていた」

「……もう、治らないのですか? ずっと、動かない?」

「……ああ。この左手は、もう一生使えない」


 どうして頭を怪我したら、左手が動かなくなるのだろう。分からない。分からない。

 分かったのは、ラルスの左手が動かなくなったことだけだ。階段から落ちた時に、頭を怪我したせいで。階段から落ちるエデニアを、助けようと庇ったせいで。


 エデニアの、せいで。


 その事実を理解した瞬間、全身から血の気が引いた。それから烈しい後悔と罪の意識が、一気にエデニアに押し寄せる。


「……あ、ラルス様、私、わたし、ごめ、ごめんなさ……」

「エデニア、謝るな。これは命令だ」

「ごめんなさい……ごめんなさいラルス様……」

「謝るなと言っている! 僕はそんなこと求めていない!」


 ラルスの怒鳴り声が部屋に響く。そのまま彼は震えるエデニアの腕を掴んで、自分の元へと抱き寄せた。

 その右手は痛いくらいに彼女の身体を抱き締めているのに、左手には何の力も入っていない。それが何よりの証明だった。


「……僕は左手の代償として、お前の両親からお前を奪った。そうまでして、お前を手に入れたかった」

「……わたし、私、どうしたら、どう償えば……」 

「一生だ。償いたいのなら、一生をかけて、ずっと僕のそばに居ろ!」


 そう叫んだ少年の声は、震えていた。自分の身体を離すまいと必死に抱き締めている彼の表情を、エデニアはそこで改めて見る。——ラルスは泣いていた。

 彼の涙を見たのは、出会ってから初めてのことだった。


 自分は一体どうすればいいのか、エデニアにはもう分からない。自分が金で買われたことに対する怒りと嫌悪感と、彼の左手に対する責任と罪悪感と、泣きじゃくる彼に対する哀傷と愛しさが入り混じって、感情がぐちゃぐちゃになってしまっている。


 彼と自分の関係は変わってしまった。それも、取り返しのつかない方向に。エデニアが求める関係にはもう戻れないし、ラルスが求める関係にも今の自分達はなれない。

 残酷なその事実が、エデニアの心をズタズタに引き裂いてくる。心だけ遠くに残して、頭はだんだんと冷えていく感覚があった。


「分かり、ました」


 自分でも驚くほどに、冷えた声が出た。傷ついた心とは裏腹に、頭は冷静になっていく。


「……私は、これから使用人として、一生貴方に仕えます。ラルス様」


 そう言ったエデニアの頬を、一筋だけ涙がこぼれ落ちていった。




 ◆




 それから、エデニアがラルスの専属使用人になったのは、彼が退院してすぐのことだった。

 左手に関する諸々のことや、ラルスがエデニアを買ったことなどを含めて、周りの反対は勿論あった。特にラルスの父である当主の反対は強かったらしいが、それも結局、ラルスが何か交渉をして全て片付けしまった。


 その時彼らがどんな交渉をしたのかは分からない。自分には知る機会も必要もないことだとエデニアは思う。……ただ、自分は言われた通りにラルスに仕えて償えばいいだけ。それだけだ。

 とにかく当主の許しが出たことにより、屋敷内でも表向きには反対する人はいなくなった。それから四年間、エデニアはラルスにずっと仕えている。


 この歪な関係を、ずっと続けていた。







「……ニアさん、エデニアさん!」


 誰かが自分を呼ぶ声に、エデニアはハッとして我に返った。振り向くと、後輩が心配そうにこちらを見つめている。


「大丈夫ですか? さっきから何度か呼びかけてたんですが…」

「ごめんなさい、ぼんやりしてて。寝不足かもしれないわ」

「ただの寝不足なら構わないんですけど……その、エデニアさん、昨日から随分思いつめた顔をしてますし」


 後輩の言葉に一瞬どきりとする。まさに、昨日あったラルスとの左手をめぐる口論についてエデニアは考えていたからだ。否、お互いに「嫌い」と言い合っただけで、それらしい口論でもなかったが。


「少し、考え事をしていたのよ」

「……あの、それってもしかして、ラルス様との関係のことですか?」

「何だ、知ってたの」


 エデニアは少しだけ驚いた様子で後輩を見た。この子はつい昨日まで自分とラルスの事情は知らなかったはずだ。

 色々思うところがあるのか、後輩は気まずそうに目を伏せて言った。


「実は昨日、専属使用人の話をした時のエデニアさんの様子が少しおかしかったのが気になってしまって……あの後、他の先輩に聞いたんです」

「……そっか。ごめんね、変な気を遣わせてちゃって」

「私こそすみません。事情も知らないのに不躾なことを言ってしまって」


 普段はもっと明るい子のはずなのに、後輩はすっかり萎縮してしまっている。この間屋敷の高い花瓶を割ってしまった時以上かもしれない。一体何と聞いたのか。やはり自分とラルスの関係は異常なのだなとエデニアは改めて思う。


「別にいいのよ。もう慣れたから」

「……エデニアさん、ひとつ聞いてもいいですか?」

「ええ。何?」

「その、ラルス様から逃げようとは思わないんですか?」

「……そうね、思ったことは何度もあるわ。いつも諦めちゃうんだけどね」

「それはやっぱり、ラルス様が逃げるのを阻止してしまうとか……ですか?」


 後輩のその純粋な質問を、鼻で笑い飛ばしそうになるのをエデニアは寸のところで耐えた。そうだったらどれほど良いだろうか。逃げたくても逃げられない、悲劇のヒロインに徹することができたなら。


「いいえ。たとえ逃げても、結局同じだなって思ったからよ。私がどこに居ようと何をしようと、ラルス様の左手を駄目にしてしまった原因を作った事実はずっと変わらない。罪悪感は、もう一生消えないのよ」

「そんな……」

「それなら、まだ彼に使用人として仕えて罪滅ぼしをしてる方がマシだと思ったの。私は、自分が楽になりたいからラルス様の側にいるだけ」


 ラルスのことが好きだから、愛しているから。そういう綺麗なものだけで側にいられたらどんなに良かっただろう。最初はそんな気持ちもきっとあったはずだ。けれど、いつの間にか分からなくなってしまった。上から、ぐちゃぐちゃに塗りつぶされてしまった。

 今のエデニアの中にあるのは、彼の左手に対する後ろめたさと、罪の意識だけだ。自分を買ってまで縛りつけようとしたあの男の側にいるのも、少しでも償っている気分になって心を軽くしたいから。……そうに決まっている。

 我ながら、随分と浅ましい人間になってしまったものだ。


 後輩は戸惑った様子でこちらを見つめている。エデニアは目を伏せて詫びた。


「ごめんなさい。あまり気分のいい話ではなかったわね」

「いえ! 私の方こそ申し訳ありません。ずけずけと色々言ってしまって……」

「心配してくれてありがとう。もう行くわ。そろそろラルス様がお帰りになる時間だから」

「あ、はい! 後はお任せください!」


 後輩の返事に頷くと、エデニアは玄関の方に向かう。去っていくエデニアの後ろ姿を眺めながら、彼女の後輩は悩ましげに呟いた。


「……でも、いくら罪滅ぼしといっても、本当に嫌いな相手だったら四年も側にいようと思わないんじゃないかなぁ……」




 ◇




 送迎の車から降りてくる己の主人を、エデニアはいつも通り無表情で迎えた。


「おかえりなさいませ」

「……ああ」


 エデニアの出迎えの挨拶に、ラルスは短く答える。昨日は「愛想がない」などといつもの煩わしい嫌味が飛んできたのに、今日はそれもない。ただ、何か言いたげな顔をしてこちらを見ている。その視線から逃れるように、エデニアは目を逸らした。


「……荷物をお預かりします」


 ラルスの鞄を預かって、碌な会話もないまま彼の部屋へと向かう。部屋に到着すると、エデニアは鞄をいつもの位置に置いた。この後は、いつも通りなら着替えの手伝いのはずだ。……いつも通りならば。


 今日はどうするのだろうか。そう思いながらラルスの方に振り返ると、存外彼が近くにいたので驚いた。飛び上がったエデニアの肩を見て、ラルスは少し不服そうに目を細める。


「……僕が近くに寄っただけでそんなに驚くな」

「お、音もなく近寄られれば誰でも驚きます」


 普段は尊大な態度で煩いくらいに存在を主張するくせに、どうして足音はそんなに静かなんだ。統一しろ。

 突然近づかれたことで動揺して、自分でも若干訳の分からないことを思っている自覚がエデニアにはあった。


 とりあえず一歩後ろに退いて距離を保とうとしてみる。だが、ラルスが彼女の手をとって握ったことによって、あえなく失敗に終わってしまった。彼の右手の握る力は優しいが、決して離さないという強い意志を感じる。


「ラルス様、」

「このままにしろ。……このままで、話がしたい」


 ラルスの言葉に、静かに抵抗していたエデニアの動きが止まる。それを了承と受け取ったのか、彼は口を開いた。


「昨日から、ずっと考えていた」

「何を、ですか」

「……僕は、お前をどうしたいのか、お前に何を求めているのか」

「……貴方は、私を自分の側に置いておくのが目的なのではないですか」


 たとえ嫌われたとしても、奈落の底に落としてでも、エデニアを手放さない。

 四年前のあの日、この男は確かにそう言った。だから左手の償いとして側に仕えさせているのではないのか。エデニアの罪悪感と責任感を承知の上で、それを利用してまで手放さなかったのではないのか。そう言わんばかりに困惑する彼女に、ラルスは続ける。


「確かに、最初はお前を自分の元に縛りつけることができるなら、手段は何でもよかった。……お前が一生罪悪感と責任感に苛まれていようと、僕の側にいるならそれで良いとさえ思っていた」


 目の前の彼は眉根を寄せて、何かに苦悶しているような表情だ。それはどこか、己の罪を懺悔しているように見える。エデニアはそれが気に食わない。一生消えない罪悪感を背負っているのは、背負わされたのは、自分の方なのに。


「……だが、それでは駄目だった。いつからか、欲しくなったんだ。罪悪感や責任以上のお前の感情が」

「……っ、」

「償いや罪滅ぼし関係なく、お前自身が僕の側にいることを選んで欲しいと、今更思うようになってしまった」

「どの口が……!」


 思わず口をついて出た言葉を、言い切る前にエデニアは何とか止めた。それでも目の前の男を睨みつけるのはやめない。

 本当に今更だ、今更すぎる。お前が償えと言ったくせに。償いたいのなら、一生をかけて、ずっと側に居ろと言ったくせに。だから、だからエデニアはここに居るのに。仕方がないと、これは罪滅ぼしだからと、ずっと言い聞かせてきたのに。


 燃えるようなエデニアの瞳を、ラルスが静かに見つめ返す。その視線があまりにも強くて、エデニアの瞳が無意識に揺らいだ。


「分かっている。最初に壊したのは僕だ。……お前は嫌だと言って怖がっていたのにな。僕がお前との関係を壊した。それでも、お前が欲しかったから」

「…………」

「だがもうとっくに限界だった。僕もお前も。だから、だから僕は……」

「ラルス様……?」


 様子のおかしい己の主人に、エデニアはだんだんと怒りを忘れて戸惑い始める。ラルスの声は少しかすれて、震えているようにも聞こえた。

 目の前の彼は泣いているのだと、数秒遅れて彼女は気づいた。


「……本当に、今まですまなかった。お前はもう自由になれ、エデニア」


 エデニアの手を、ラルスの()()が握った。


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