第二話
エデニアとラルスが親交を深めるのに、そう時間はかからなかった。二歳差と歳が近いことと、エデニアの変に物怖じしない性格や、ラルスの偉そうで不器用な性格を二人がお互いに面白がって、気に入ったせいもある。
秋が終わって、冬が来て、年が明ける頃には、エデニアは使用人の中で一番ラルスと話していたし、ラルスはエデニアと話すためだけに屋敷中探し回って彼女の元にやって来ることもあった。(本人は偶然見つけたのだと言い張っていたが)
そんな生活が楽しくて仕方がなかった。もちろん失敗や大変な事も多々あったけれど、これからどんどん仕事にも慣れて、ラルスとももっと仲良くなれたらいいのにと、本気でその頃は思っていた。
だが、それはやっぱりただの幻想に過ぎないのだと思い知らされたのは、それからすぐのことである。
その日は珍しく田舎から手紙が来ていた。
田舎から手紙が来ること自体は別におかしくはない。いつも月初めに仕送りをした後は、お礼の手紙が来ていた。だが今日は月の半ばである。手紙を開けずとも、何かあったのだとエデニアは悟った。
仕事終わりに受け取ったその手紙を、使用人宿舎の自室でひっそりと開ける。
手紙の内容は別に驚くほどのものではなかった。エデニアに縁談が来ているという知らせだ。田舎の年頃の娘であれば誰しもが通る道で、避けられないものである。相手はお世話になっている村長さんの紹介で、隣村の家の生まれだという。歳は五つ上で、面識は無かった。
「ふー……」
手紙を全文読み終えると、エデニアは深い溜息を吐いた。とりあえず、家族が病気をしたとか、そういう不幸な知らせなどではなくて良かった。正直それか縁談の知らせのどちらかだろうと予想していたのだ。縁談なら、おめでたいことだ。……たぶん、おそらく、きっと。
明日の仕事の準備をしながら、これからのことを考える。とりあえず、上司には報告しなくてはならない。実家にも、顔合わせやら何やら日取りを確認して、休みももらわなければ。
縁談に向けての予定をひとつふたつと考えるたび、エデニアの顔はどんどん暗くなる。
「あー!! 嫌だぁー!」
憂さ晴らしに叫んでみると、「うるさいよエデ!」と隣室の先輩に怒られた。
次の日の午後、エデニアが屋敷の窓を拭いていた時のことである。
「お前、暗いな」
エデニアを見るなり、年下の少年は開口一番そう言った。最近声変わりしたせいか、前より随分低くくなってしまったその声はまだ少し耳慣れない。
制服の上に外套という格好を見るなり、玄関からこの場所まで一直線で来たようだ。日を追うごとにラルスはエデニアを見つけるのが上手くなっている気がした。
「おい、聞いているのか?」
「あ、はい。聞いております。暗くて申し訳ありません。今、明るくしますので」
「馬鹿か。照明か何かじゃないんだぞ」
ラルスの指摘は尤もであった。照明のように気分も自分で簡単に切り替えれたらいいのにとエデニアは思う。
ため息を吐く代わりに、グッと背を逸らして姿勢を正す。ラルスを正面から見据えると、彼の外套の肩あたりが少し濡れているのが気になった。そういえば、外は雪が降っていたはずだ。
「とりあえず、着替えられてはいかがですか?」
「それもそうだな。着替えてくる。後で部屋に珈琲を持って来い」
「かしこまりました」
「………」
「ラルス様? どうしました?」
「着替えてくる」と言っておいて、目の前の少年はこちらを見つめたまま動こうとしない。不思議に思ってエデニアもじっと見つめ返す。数秒の間の後、大変言いにくそうにしながらも何とかラルスは口を開いた。
「……何があったかは知らないが、げ、元気を出せ」
「ら、ラルス様……! ありが、」
「分かったらさっさと珈琲を持って来い馬鹿」
「ええっ、励ましはもう終わりですか⁉︎」
「フン。甘えるな」
鼻を鳴らしてふんぞり返った少年は、そのまま外套を翻して去っていた。エデニアが感激してお礼を言うより先に、励ましタイムは終わってしまったようである。短い命であった。
兎にも角にも、珈琲を持って行かなければ。厨房へと向かうエデニアの足取りは、さっきよりは幾分か軽いものとなっていた。
◇
それから次の日、エデニアは縁談のことを上司に報告した。
「そう……じゃあ春には辞めてしまうのね」
「……はい」
「エデニアはもうすぐ勤めて一年でしょう? せっかく慣れて来たのに、残念ね」
エデニアから縁談の話を聞いた上司はどこか寂しげな顔をして、そう言った。屋敷に勤めてもう随分経つという年配の彼女は、エデニアが勤め始めた時からたくさんお世話になった人物だ。
「急な話で申し訳ありません」
「いいえ、おめでたいことだもの。気にしないで」
「ありがとうございます。春まで、残り二ヶ月と少しですがよろしくお願いします」
今は一月の下旬なので、春まで残り二ヶ月と少し。自分で言って、その短さをエデニアは実感した。春が来たらエデニアはもうここには居ない。結婚したらもう二度と帝都にも来られないだろう。
「でも、本当に急ねぇ。なにも春にすぐ結婚するわけではないんでしょう?」
「結婚自体は夏頃になると思います。ただ、お相手の方が、その、女の私が働いていることをあまり良く思っていないようで……本当は来月にでも辞めろと言われたんですが、手紙で何とか頼み込んで、春まで伸ばしてもらったんです」
「そうだったの。私としては少しでも貴女がいてくれた方が嬉しいけれど……」
「まあ、おそらく春からは結婚の準備で色々と忙しくなると思うので……」
「そうねぇ。お相手のこともあるし、それが良いのかもしれないわね。分かったわ、旦那様や他の皆には私が知らせておくけれど、それでいいかしら?」
「はい、お願いします」
お辞儀と挨拶をして、会話を終える。気持ちを切り替えて仕事に取り掛かろうとするエデニアを、「あ、そうそう」と上司が呼び止めた。
「ラルス様には、貴女から直接伝えた方がいいと私は思うのだけれど」
「え?」
「エデニアは今まで随分と目をかけてもらっていたでしょう? 挨拶はしっかりなさいね」
「……はい。分かりました。ありがとうございます」
エデニアがしっかり頷いたのを確認すると、上司は今度こそ去っていった。
上司の言う事は尤もだ。今まで散々仲良くしてもらっていて、何も言わずに辞めるなんてことはできない。エデニアが使用人を辞めるということは、ラルスとももう会えなくなるということなのだから。
「…………」
分かりきっていたことなのに、そのことを考えると心が痛かった。
……いや、当たり前か。誰だって親しい人との別れは辛い。この痛みはきっとそういう類のものなのだ。
今日は休日なので、ラルスは屋敷にずっといるはずだ。
なるべく早いうちに伝えておいた方がいいかもしれない。話をするだけなら、仕事の合間になんとか時間を作れる……いや、作らなければ。
そう決めたエデニアは、いつもよりもさらに奮って仕事に取り掛かった。
それから何とか時間を見繕ったエデニアは、予定通りラルスの部屋の前にいた。
今ではすっかり見慣れてしまった部屋の扉を、控えめに三回ノックする。
「……ラルス様、エデニアです。お話ししたいことがあります。少しお時間よろしいでしょうか?」
間髪入れずに、扉の奥から「入れ」と声がかかった。何なら「お時間よろ」ぐらいでもう食い気味に返事があったような気がする。
兎にも角にも、入室の許しが出たので扉のノブに手をかける。いつも大体彼の部屋に入る時は珈琲を乗せたトレーを持っていたため、普段は塞がっている利き手でノブを握るのは何だか新鮮だった。
「失礼します」
部屋に入ると、ラルスは机に向かっていた。どうやら勉強をしていたようだ。というか、いつも彼は読書か勉強しかしていない。それに読んでいる本はどれも分厚くて、エデニアには到底読めない難しい外国語で書かれている。それでも、彼が高等学校で今習っているよりも数段階上の高度なものを学んでいるということはエデニアにも理解できた。
これまで何度か、「つまらないから」という理由で授業を途中で抜けて来たこともある。彼の勉強事情を知らなかった当時のエデニアはそれを聞いて「なんだこいつ」としか思わなかったが、試験ではしっかり首位を取るらしい。共に勉学に励む同級生はさぞや腹の立つことだろう。
「珍しいな、お前が話なんて」
「申し訳ありません。お勉強中に」
「別に構わないが。で? 話とは何だ」
エデニアが近づくと、ラルスは椅子を引いて、彼女の方に身体を向けた。まるでそうするのが当たり前のように、自然な動作だった。それを見て、ふと思う。
——縁談の相手は、こんな風に自分の時間を割いて、エデニアの話をしっかり聞こうとしてくれる人だろうか?
「…………」
「エデニア?」
こんな風に、少しかすれた低い声で、気遣うようにエデニアの名前を呼んでくれる人だろうか?
不器用すぎて、他人を励ます時間を一瞬で終わらせてしまうような人だろうか?
屋敷中探し回って、いざエデニアを見つけると偶然だと言い張るような意地っ張りな人だろうか?
「おい、どうした? エデニア?」
「あ、私……」
いつも偉そうなくせに、いざとなるとこんな風に心配してくれる人だろうか?
珈琲ばかり頼むくせに、ミルクと角砂糖を二個つけないと飲めないことを気にしている人だろうか?
エデニアが最初にあげた金木犀を、こっそり押し花にして大切に保管してくれているような人だろうか?
「ごめんなさい……わたし、わたし……」
違う、違う。縁談の相手にそんなことを求めているわけではない。最初から比べることなどできるわけがないのだ。いけない、これ以上は気づいてはいけない。
そう言い聞かせてるのに、止まらない。最悪だ、最悪のタイミングで気づいてしまった。
「……ラ、ルス様、どうしよう、私……わた、し……」
「大丈夫だ、落ち着けエデニア。僕はここに居る」
動揺して、混乱して、取り乱すエデニアの両手をラルスが己の手で包み込む。綺麗で滑らかな、だけど確かに男の子の手だと分かる、そんな手だった。触られるとびっくりするくらい心臓が速くなるのに、何故か心の底から安心した。
ラルスを見ると、彼がぼやけている。どうやら自分は泣いているらしい。ラルスは上質そうなハンカチをポケットから取り出すと、優しくそれでエデニアの頬を拭ってくれた。
「僕がついてる。だから泣くな、エデニア」
そう言った目の前の彼が、エデニアはどうしようもなく好きだ。
◇
人前で、これほどまでに泣いたのは初めてかもしれない。
「少し、落ち着いたか?」
低く囁くような声でラルスが言う。エデニアは無言でゆっくり頷くと、彼に包んでもらっていた両手を解こうとした。だが、目の前の彼はそれを許さず、今度は指を絡めるようにして強く繋ぎ直す。
「このままにしろ」
「…………」
一瞬エデニアは躊躇うような素振りを見せたが、ラルスに抗う事なく、繋ぎ直した二人の手をじっと見つめていた。
綺麗で滑らかな彼の手と、手荒れの痕が目立つ自分のカサついた手。その二つを見比べる。
エデニアには、もうそれで充分だった。
「……春になったら、使用人の仕事を辞めます」
先程泣いたせいで少しかすれていたが、声は震えなかった。ラルスは黙ったままだ。
「今まで、ラルス様には沢山お世話になりました。本当にありがとうございます。あと二ヶ月と少しですが、よろしくお願いします」
「……辞める理由は?」
ラルスが静かに問う。エデニアは繋いだ手に視線を落としたまま答えた。
「縁談が、決まりました。そのためです」
エデニアの手を握っている彼の力が、強まる。
「縁談相手は、泣くほど嫌いな奴なのか?」
「……いえ、嫌いではありません。いい人だと聞いています」
「その口ぶりから察するに、まだ面識はないんだな」
「…………」
「会ったこともない奴を、“いい人”だとお前は思うのか?」
ラルスの険のある言い方に、エデニアにはようやく顔を上げた。彼女の表情は怒っているようにも、悲しんでいるようにも見える。それでいて、道に迷ってしまった小さな子どもみたいに、途方に暮れているようにも見えた。
「……貴方は私に、どうしろというのですか?」
「お前は仕事を辞めることも、会ったこともない男に嫁ぐことも、どちらも嫌がっているように僕には見える」
「……いいえ。いいえ、そんなことはありません」
そうだ。そんなはずはない。さっきだって、この部屋に来る前まではラルスにお別れの挨拶を言うつもりだったのだ。辞めることも縁談も、確かに最初は憂鬱だった。けれど今はもう納得して、自分は受け入れることができているはずだ。
首を振って否定するエデニアに、ラルスは苛立ち混じりの声で尋ねる。
「泣くほど嫌なのだろう? 何故そう言わない?」
「泣いたのは……泣いてしまったのは、もっと別の理由です。仕事を辞めることとも縁談とも関係ありません」
「では、別の理由とは何だ?」
「…………」
言えない。言えるわけがない。自分の想いに気づいてしまったからだなんて。目の前のこの人と自分の住む世界は違う。彼と自分の手を見比べたあの瞬間、この想いは告げずに墓場まで持っていくとエデニアは決めた。
「大したことではありません。見苦しいところをお見せしました。……手を、もう離してください」
「嫌だ、言うまで離さない」
「ラルス様!」
エデニアが咎める声をあげても、ラルスは耳を貸さない。身を捩ってなんとか手を解こうとしても、強い力で絡めとられて離れられない。
射抜くようにこちらを見つめる彼の瞳に、静かな怒りの色が見えた。ラルスは本気で怒っている。彼のこんな様子は初めて見たはずなのに、本能的にエデニアはそう感じた。
「お前を泣かせるような縁談など、断ればいい」
「だから、縁談は関係ないと言っています! それに、断る断らないとか、そういう次元の話ではないんです! もう、私の一存でどうにかなる問題ではないんです……!」
結婚とは家と家同士が決めるもので、そこに結婚する本人の意思なんてものは存在しない。女側から縁談を断るだなんて、ありえない。少なくとも、エデニアの村ではそうだった。実家に、村に、相手の家に、色々なものが絡んでいて、雁字搦めになって、逃れられない。
「……私の田舎と帝都では、縁談のあり方は違うのかもしれません。貴方のような立派な生まれの方は、嫌だと言えば断れるのかもしれません。度胸のある方は、実家を捨てて逃れられるのかもしれません」
「…………」
「けれど、私のような何の力も実家を捨てる度胸もないただの女は、余程のことがない限り断れないんです。無理なものは、無理なんです」
「……では、余程のことを起こせばいい」
ラルスはそう言うと、今までが嘘のようにあっさりと彼はエデニアの手を離した。それから戸惑う彼女の横をすり抜けて、部屋の出口へと向かっていってしまう。その背中に何か不穏なもの感じて、エデニアは慌てて声をかける。
「お待ちください! どこへ行かれるおつもりですか⁉︎」
「父さんのところだ。今日は休日だから、屋敷にいるはずだろう」
「旦那様のところへ行って何を……」
「お前と結婚すると伝えてくる」
「なっ、」
絶句するエデニアを残して、そのままラルスは部屋を出て行ってしまった。自分とラルスが結婚? そんなことはあり得ない。仮に伝えたとしても、使用人と結婚など許されるはずがない。
あまりのことに一瞬たじろいでしまった彼女だったが、急いでラルスの後を追いかけた。
「ラルス様! 待ってください! 貴方が私と結婚するなど、一体何のために、」
「お前の縁談を破談にするためだ。お前がこの僕と結婚すると聞けば、相手も文句はいえまい。馬鹿みたいに金と権力しかないこの家だが、田舎でも家名くらいは知っているだろう」
エデニアが言い切る前に、ラルスは答える。その声がいつもより数段冷たく聞こえるのは、きっと気のせいではない。今の彼が怒りで冷静さを欠いているのは明白だった。まだ学生で成人もしていない彼にとって、使用人と結婚すると言い出した事は、暴挙以外の何物でもない。
「やめてください!私は使用人です!使用人の縁談を破談にするために主人の貴方が結婚するだなんて、そんなのおかしいです!」
「うるさい。お前の意見など求めていない」
「だいたい貴方はまだ十四歳で、結婚できる年齢にも達していないじゃないですか!」
「年齢など、どうとでもできる。十六になるまでの間、婚約者とでも言ってお前をそばに置いておけばいい」
どんなにエデニアが引き止めても、ラルスの歩みは止まらない。廊下を抜けて、とうとう階段にまで来てしまった。騒ぎを聞きつけたのか、他の使用人達も徐々に集まってきている。
「一体どうしてそこまでしようとするのですか⁉︎」
「お前は使用人だ。主人が使用人をそばに置くのに、理由がいるのか?」
「使用人と分かっているなら、何故結婚なんて馬鹿なこと……!」
「僕はお前のあんな姿を見て、黙って送り出せるほど物分かりのいい奴ではない!」
「っ、」
今までにないくらい殺気立ったラルスの強い口調に、エデニアは思わず身をすくませてしまった。それを見た彼は一瞬苦虫を噛み潰したような顔をして、それから彼女から顔を背けた。
「……どけ、邪魔をするな」
「ラルス様!」
エデニアはもうどうすればいいのか分からない。ただ、怖くてたまらなかった。ラルスが怖いのではない。このままラルスと元の関係に戻れない気がして、じわじわと仄暗い何かに追い詰められている気がして、それが怖くてたまらない。
「ラルス様、お願いだからもうやめて! 止まって!」
半ば恐慌状態に陥りながら、ラルスに必死で追い縋る。それでも、止まらない。どうしたら、どうしたら止まるの。止まってくれるの。どうしたら元に戻れるの。
もはやエデニアの頭の中は、ラルスの歩みを止めることでいっぱいだった。彼と同じように、彼女の中にも、もう冷静さなんてひとかけらも無かったのだ。
だから、彼の前に飛び出して立ちはだかろうとしてしまった。足元が階段であることも忘れて。
瞬間、ぐらりと身体が傾く。
「——エデニア!」
一瞬の浮遊感の最中、焦ったようなラルスの声が何故か耳元で聞こえた。