落下する男
落ちながら、男は考えた。
まだ、各地を巡る仕事は終えていない。
でも、自分はこのまま眠りにつく。長い眠りに。
目覚めるのは10年後、いや数十年後?
・・そんなに長い間、この仕事を中断する訳にはいかない。
自分が真面目だからとか、そういう事ではない。
いや真面目か不真面目かと言われれば、とても真面目な方だと思う。
この髭に誓っていい。
男の脳裏に、一人の少女の姿が浮かんだ。
”ワッフルヘア”の少女。
1本で束ねている時もあれば、2本の時もある。
太陽の様なまぶしい笑顔で笑ってくれる。
”何してるの?””どこいくの?””それ私にも出来る?”
目が合えば質問攻めだ。
忙しくて答えられない事もあったが、疎ましく思った事はなかった。
むしろ最近の話しかけれた時の感情は、喜び。
男の脳裏に、少女が大事そうに抱える一冊のノートが浮かぶ。
いつだったか少女に渡した小さなノート。
自分が持っている事典を羨ましがり、欲しがったのであげた。
ノートには、大地の理を簡単に書いて置いた。
内容に意味はないが、なんだか凄い事が書かれていそうな雰囲気の文字で書いた。
”ひげのおじちゃん、ありがとう!”
少女はもちろん読めなかったが、とても喜んでいた。
相変わらずの太陽の様な笑顔と、後ろにはパシーの花が咲いていた。甘い香りがしていた。
落下という、空を切り続ける自分。皮膚が痛い。息が出来ていない気もするが、自分は人間ではないので大丈夫。三日間くらい息をするのを忘れてしまい、ハッとした事もあるくらいだ。
海面が迫って来る。
少女の事をもう少し想っていたかったが、今は時間がない。
時間は、未来にたっぷりある。
少女の思い出は、その時にじっくり味わおうじゃないか。
そうだ、あのノートを使おう。
男はひらめく。
空高くから落ちながらも、右手を強く握った。
強く握った右手は淡く光る。
その光は、遠く離れた少女が持つノートの元へ。
これでなんとかなるだろう。
男は安堵した。
ただいま落下中、眠りにつくまで、あと何分か。
男はふと自分の髭の事を心配した。
毎日かかさず、小指第一関節分の長さに整えている。
ちなみに左手だ、右手の指はなぜか少し短いのでだめなのだ。
男は、見た目こそ細身の少し外見が優れた人間ではあるが、実は人間ではない。数十年後、自分の髭がどんな状態になっているのかわからなかった。
今まで髭を整えなかった事はなかったし、長さを間違えた事もない。
あれか、おじいさんの髭の様になってしまうのか。
男はしかし気づく。
自分は人間ではない、老化しない。成長しない、すなわち髭も伸びないのかもしれない。
いや待てよ、では毎日カットしている髭とは?
気づきの連続を繰り返して、男は時間を無駄にしたと気づいた。
自分は人間ではないので、なんとでもなると思い、いきなりどうでも良くなった。
”ヒゲのおじちゃんまだー?”
ワッフルヘアの女の子。大きな犬がいつも隣にいる。
女の子の前ではかわいらしい目つきの犬なのだが、女の子がいない時に自分に向けられるあの眼力と言ったら。
旅をしていると言う自分に異様になついてくれた少女。
男は気づいてしまう。
少女が大きくなって、女性らしい姿に変貌し、子が出来て母になり、幸せと悩みを併せ持ったり、おばあちゃんになって自分の事を懐かしく語ってくれたり。
そんな光景を自分は見られないのだ。
少し胸が痛んだ。