17時よりのシンデレラ
目の前でうずくまる少女がいた。道行く人は皆彼女が居ないもののように通り過ぎて行く。
分かっている、皆トラブルに巻き込まれたくないんだ。都会という街で生きる以上、平穏に生きたいというのが一般的な思考だから。
だけどさ、本当にいいのかな。危険には飛び込まない、非日常とは線引きをする。確かに賢い生き方だと思う。けど、それって本当に正しいのかな。
俺は気が付けば彼女に声をかけていた。
「おい、大丈夫か?」
ゆっくりと顔を上げた彼女は美しい瞳に涙を浮かべていた。そんな彼女の姿を見た瞬間、いや、見てしまった瞬間心の中を血液が駆け巡っていくのがわかった。
─────
都心部からほんの少し離れた所に世渡橋という橋がある。不吉なネーミングのせいか誰も寄り付かないような寂しい橋だ。仕方なくそこを通って行く人たちもどこか足早にそこを渡って行く。
しかし、俺は別の考えを持っている。何故ならそこは、もしかしたら都会で唯一人混みに混じることなく居られる静かな空間だからだ。考えに行き詰まった時、息抜きのために俺はそこに訪れていた。
世渡橋のすぐ近くの川沿いにそこを一望できるベンチがある。当然、橋自体の集客が悪いのだからそこに座るような物好きは居ない。俺はそのベンチで世渡橋を眺めるのが好きだ。だからこそ、そこを彼女との居場所にした。
「こんばんは詩織」
「はい。こんばんは将臣くん」
あの日偶然にも声をかけた少女、高野詩織と俺は1つ約束を取り決めた。それは彼女があの日、街中でうずくまっていたことに起因するのだが。
”毎日17時にこの場所に集まること”
それが俺と彼女の2人で交わした約束だ。
「体調は大丈夫?」
「大丈夫です。将臣くんが居てくれるから」
「そうか。それなら良かった」
詩織は1年前に母親を亡くしていた。彼女が17歳だった頃の話だ。
元々精神が不安定だった詩織の母親は、マンションから投身自殺をしたらしい。不幸にもそれは、詩織の目の前で行われてしまった。マンションの下に居た詩織と飛び降りた彼女は最悪の別れをする形になったのだ。それが17時のことだったらしい。
以来、彼女は17時を迎えるとパニック発作を引き起こすことになった。過呼吸やめまい、絶対的な死の恐怖。決して軽くない彼女のパニック発作であるが、それは誰かが側に居てあげれば収まるものであった。
けれど、彼女はそのことを父親に打ち明けられずに居た。なぜなら、妻を亡くした詩織の父親も同じように傷ついていたからだ。
げっそりと痩せ細った父親の姿を見ていると、これ以上彼に重荷を背負わせることは躊躇われた。だから彼女は17時の地獄を1人で抱えることに決めたのだ。
本当に凄いと思う。少なくとも俺には無理だ。きっと酒と薬に溺れて生きることを諦めてしまうと思った。だから、彼女の前では明るく振舞おうと決意した。それは18歳の少女が背負うにはあまりにも重い……そんな苦痛を抱える彼女への、せめてもの救いでありたいと思ったからだ。
「俺の友達にな、マルボーロ君て呼ばれてる奴がいるんだ」
「マルボーロ君?なんだか可愛らしい呼び名ですね」
「四六時中マルボーロ食べてるからマルボーロ君」
「ふふ。それはユニークですね。将臣くんはどうしてマルボーロ君と友達になったんですか?」
「辛い時に何も言わず側に居てくれたからかな。その時も横でマルボーロ食べてたんだ。思ったよ。あぁ、こいつのことめっちゃ好きだなって」
「素敵な話ですね。お母さんがよく言ってました。楽しい時よりも、辛い時に側に居てくれる人を大切にしなさいって」
「なんか分かる気がするよそれ。実際そっちの方が友達関係も長続きするしな」
俺は詩織にとって、辛い時に側に居てくれる存在になれているのだろうか。もしそうだったら嬉しいな。
詩織に会うまでは1人で過ごす日常が普通だった。友達とはたまに連絡を取り合うぐらいだし、家族とは生存確認の会話ぐらいしかしない。会社の同僚だって、所詮は上辺だけの関係だ。飲みに誘われればついて行くが、自分からは誘おうとも思わないししたこともない。
高野詩織は俺にとってまるで、世界と自分を繋ぐ世渡橋のようだった。
「今日は将臣くんに大切な話があるんです」
いつにも増して、詩織の目が俺を捉えているような気がした。それは、どこか不安感を煽るような不思議な感覚があった。
「お父さんの仕事の都合で明日引っ越すことになったんです。だから……だから、将臣くんと会えるのも今日が最後なんです」
「え」
嫌な予想は当たっていた。当たってなんて欲しくなかった。詩織が居なくなる? 冗談だろう? つまりそれが意味するのは詩織の地獄の再来で。
「お前これからどうするんだよ……」
「どう……しましょうね」
詩織は務めて笑っている。そんな笑顔はない。しちゃ駄目だ。ましてや、俺だけは絶対詩織にさせては駄目な表情であった。
「私将臣くんだけだったんです。誰でもいいから側にいて欲しいわけじゃなかったんです。将臣くんだから、隣にいて17時を平穏に過ごせたんです」
限界だった。心の中に押し寄せる感情の波に抗うことは出来なかった。
「それじゃあお前、ずっと17時に取り残されるだろうが!!」
気づけば泣いていた。俺も詩織も泣いていた。
「そう……だと思います。私はこれからずっと時間に取り残されるんだと思います」
「そんなのってないぜ……こんなの……あんまりだ」
世界は残酷だ。ほんの少し噛み合わないだけで人が死んで、ほんの少しのズレで人が不幸になる。
だから俺は世界が嫌いだった。冷淡で淡白で、他人の不幸を無視するような普通が嫌いだった。ニュースを見て、純粋に故人を偲んで心を痛める人は一体何人いる? 大抵が自分の身近な人と重ねて同調するか、無心だろう。それが現実で真実だ。
けれど、俺は詩織と会ってそんな世界も嫌いではなくなった。冷淡で淡白だと思っていたのは、もしかしたら俺自身がそうだったからなのかもしれない。
俺にとって詩織はかけがえのない存在なんだ。
「詩織を置いてけぼりになんてさせない。詩織はもっと幸せになってほしい。不幸なんて違うことで一緒に笑い飛ばそう。不安なんて俺がとっぱらってやる。ごちゃごちゃ言うやつが現れたら俺が守ってやる。これからもお前の側に居る」
詩織は何も言わなかった。代わりに俺に抱きついて、胸の中で泣きじゃくっている。はじめて知った。涙の温度はそれほど冷たいものではなかった。
「将臣くんが好きです。これからも一緒に居てください」
「もちろんだ。俺も詩織が好きだから」
夕陽が世渡橋に差し掛かる。それは幻想的で、これからの未来を暗示しているように温かく感じた。