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第六話「ナイ」

 顔に何か柔らかなものが押し当てられるのを感じる。同時に何か上半身にずっしりとした重みも感じる。

 祐也が瞼をゆっくり開けると、目の前に雪の顔が逆さに映り込んだ。

 何か柔らかな感触とは、雪の前足の肉球である。朝になると、雪に前足で顔をプニプニ押されて起こされる。朝ご飯ちょうだいの催促だ。毎朝、決まった時間なので、雪を飼い出してから目覚まし時計は不要になった。

 顔への感触は目を開けなくても分かっていた。が、次に重みを伴う上半身へと視線を向けると……少女の顔が飛び込んできてギョッとする。慌てて思考を巡らせ、昨日の一連の出来事を思い出す。

 少女は胸元に顎を乗っけて、無表情の顔で祐也の目をジッと覗き込んでいる。その目線は合っているようで合っていない。まるで祐也の眼球の奥に映る自分の姿を眺めているかのようだ。少し怖い。


「……飯か?」


 雪と同じく、お腹が空いたという訴えだろうかと、今の目覚めのショックで少々頭のこんがらがっている祐也はそう捉える。だが少し間を置き、


「……風呂、入るか?」


 風呂に入れて着替えをさせねば。傷の消毒もせねば。あと、歯磨きもだ。と、まるで親戚の子供でも預かっているのか? というような感覚が生まれる。

 乗っかっている少女の頭をそっとどかし、むくりと起き上る。一晩中ずっと畳の上で寝ていたせいで、少し背中が痛む。顔には畳の目の跡がくっきりついていた。子供が見たら喜んで笑いそうなものだが、少女は何も反応しなかったので、祐也も気づかないままに終わった。

 替え用に買っておいた歯ブラシと、タオルを用意して、着替えを探す……が、子供服などある訳がない。適当にTシャツを着せる事とした。


「パンツ……」


 当然ながら、子供用の下着もあるはずもない。と、思ったが。そういえば以前、姉が父親とケンカして家を飛び出して勝手に押しかけて来て泊まっていった時に、忘れて置いていったパンツがあった事を思い出す。「捨てるぞ」と電話すると、「それ、お気に入りだから」と言われ、しかし取りに来る気配はなく、わざわざパンツを届けに行ってやる義理もなく。

 そのパンツでも履かせるかと、タンスの奥に突っ込んでいたのを探って取り出す。


(…………)


 サテン生地のショッキングピンク色に黒の水玉模様で黒のレースが付いたデザイン。いわゆる勝負下着ではなく、普段着だろう。いかにも姉好みだが、自分ならこんなの履かされたくない……嫌がられても仕方ないと思いつつ、タオルと着替えを少女に手渡す。


「これ、タオルと着替えな。風呂場はあっちだ。……入り方、分かるか?」


 果たして一人で入れるのだろうか? という疑問に、祐也は尋ねる。


「……フロ」


 少女はつぶやくと、よろよろと布団から立ち上がった。まるで生まれて初めて立ったのかというほど、何ともバランスが悪い。

 祐也が不安感でいっぱいになる中、手渡されたタオルと着替えを握り持ち、引きずりながら、とぽとぽと歩いて風呂場へと向かう。雪も後に続いていく。


「雪、朝ご飯は?」


 後でいいらしく、仲良く一緒に風呂場の中へと入っていった。

 祐也は何か嫌な予感を感じつつ台所へ向かい、冷蔵庫から冷たい麦茶を取り出してゴクゴクと一気に飲む。フゥと息をつくと、……朝から一体何をやっているのだろう? という大きなクエスチョンマークが頭の中いっぱいに広がる。

 自分の身に何かとても大きな問題が起こっているはずなのだが、何だか現実感がしない。まだ寝起きで頭が働いていないのかと思いながら、とりあえず朝食の準備をした。

 食パンをトースターに入れ、フライパンで二人分の目玉焼きとウィンナーを焼いていると──ガランッ、バシャン! と音と共に、「フギャー」と雪の悲鳴のような鳴き声が風呂場から響いてくる。祐也の予感は意図も簡単に的中した。

 風呂場の様子が気になるところだが、目玉焼きがあと二十秒で良い具合に焼き上がるんだ、頼むから少し待っててくれ! と願いつつも気になり、流し台の後ろの風呂場とフライパンを交互に見る。だが、二十秒を待たずして開かれた風呂場のドアから雪が飛び出して来た。びしょ濡れだ。何が起こったかは想像つく。

 仕方なくコンロの火を止める。続いて出て来た少女は、だらりとTシャツを被って長い髪から水滴をボタボタと滴らせていた。これが初めて一人でお風呂に入れたと言うのならば、「がんばったね」という状態だ。

 浴室には洗面器やらシャンプーが散乱し、転がりっぱなしのシャワーヘッドからは水が噴水のように勢い出て、脱衣所の床にかかっている。

 急いでシャワーを止めると、まずびしょ濡れの雪をタオルでくるんでザッと拭き、次いで少女の長い髪を拭いてやる。普段は使わないドライヤーを取り出して稼働させて乾かそうとした。

 ──途端、少女はビクッと跳ね上がり祐也の腕を振り切ってトトトッと走り逃げた。雪も尻尾を巻いてソソソッと低姿勢で逃げる。


(──猫か!)


 雪はドライヤーが怖くて嫌いなのは知っているが、少女は一体どうしたというのか。部屋の隅でうずくまり警戒してこちらを睨んでいる。雪のようにドライヤーが怖くて嫌いなのか。それともまさか生まれて初めて見て驚いたのだろうか。

 仕方なくドライヤーはしまい、タオルで髪を拭き乾かしてやる。雪も一所懸命、濡れた体を不快そうにペロペロと舐める。


「傷は……と」


 かすり傷の手当てをしようと、昨日から枕元に置きっぱなしの救急箱から消毒液を出した。こちらは何も怖がらない。「染みない」というキャッチコピーの消毒液ではあった。少女は髪を拭かれるのも傷の手当てをされるのも、ボーッとしてされるがままだった。

 テーブルの上に並んだ目玉焼きは、フライパンの余熱で黄身の部分がすっかり固くなってしまっていた。ウィンナーは少々焦げた。トーストした食パンは冷めた。どれも仕方がない。

 それでも少女はウィンナーが好きらしく美味しそうに食べている。

 エサを食べ終えた雪が、今朝もちゃっかりと少女の膝の上に乗って、ちょん。と顔を出してテーブルの上を覗いている。昨夜のようにはさせまいと、祐也がメッとする。雪は少し耳を伏せがちにおずおずとしたものの諦めてはいない。隙を狙って少女の持つフォークに刺ささっているウィンナーにガブッとかぶりついた。


「あっ!」


 雪はウィンナーを口にくわえたまま、テーブルから少し離れた位置で食べる。祐也は負けた。今朝も溜息をハァとつく。少女は奪われてウィンナーが消えてしまったフォークを少し見つめた後、目玉焼きをペロンと吸い込むように喉に通した。食パンには見向きもしなかった。

 食事を終えて落ち着いたのを確認すると、昨夜と同様にもう一度、再び祐也は尋ねてみた。


「名前は、何て、言うんだ?」


 はっきりと伝わるように、一語一句、ゆっくりと喋った。

 少女は瞳をパチクリさせて祐也を見ると、首を傾げながらつぶやいた。


「……ナイ」

「……ナイ?」


 返事を聞き間違えたのかと思って聞き返すと、


「ナイ」


 今度は少女はさっきより少しばかり大きな声を出してハッキリと答えた。


「ナイ……か」


 まさか名前がない。という事はないだろうし、そんなニュアンスには聞こえなかったので、祐也は少女の名前を〝ナイ〟と覚えた。少々変わっているとは思ったが、今時変わった名前はごまんとあるので、特に気にしないことにした。


「じゃあ……ナイ。おうちは、どこだ?」


 ナイはそっぽを向いて寝転がった後、首だけ回して祐也を見上げて答えた。


「ココ」

「ココ?」


 これにはさすがに眉をひそめたが、今度はもう何も答えてくれず。雪が「ミャウ」と少女の上に飛び乗って、昨夜のようにじゃれ合いが始まる。

 「ココ」という市町村名はない。「ココ」とは、ここのアパートという意味か。ここのアパートは全部で合わせて四部屋ある。その内、入居者は祐也の他には隣の102号室に浪人生の少年が一人のみ。腕を組んで、今朝も仲良くじゃれ合う二人を眺めながら考えあぐねる。


(……まずは神崎さんに相談だな)


 何にしても大家に伝えた方が良い。それに祐也はこれから仕事だ。この子の面倒を頼めるのは大家の神崎しかいない。よし、連絡しよう。と、携帯を開いて時計が目に入ったところで、気付いて慌てる。


「うおっ」


 あと五分で家を出なければ遅刻だ。だが、祐也にとって五分もあれば十分に間に合う。風呂場へ飛んで向かうと、カラスの行水のごとくシャワーを浴びて着替え、歯磨きをして超高速で身支度を整える。作業服のポケットに手を当て財布と携帯を持ったのを確認し、鍵を手に取る。そして、玄関へと向かうと後ろをバッと振り返った。

 ナイとじゃれていた雪がいつものように「ニャン」と、見送りの挨拶に来てくれる。祐也の目尻を一気に下がる。


「雪ー、いい子にしてろよ」


 と、抱き上げて頬ずり。この間に十五秒を費やす。

 はたと気づけば、ナイが台所の向こうの居間から、うつ伏せ状態でジッとこちらを覗いて様子を窺っている。何か白い目で見られている感じだ。


「……ナイ。あとで大家さんのおばあちゃんが来るからな。……分かったか? それまでいい子にな」


 理解したのかどうかは分からないが、「分カッタカ?」と祐也を真似る。神崎へは後で連絡する事にして、玄関のカギを閉めると戸締りをしっかり確認して、会社へと急いだ。

読んで頂きありがとうございました


名前が「ナイ」。

決してふざけて付けた名ではないです。結構、気に入っていたりします。

少女の偏食には、ちゃんと理由があったりします。

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