最終話
台風二十一号は各地に様々な爪痕を残して過ぎ去って行った。
祐也のアパートを襲ったのは、連日の台風の影響による大雨によって裏山の地盤が緩んだものによる土砂崩れだった。小さな山や丘などは数えるとキリがないほど沢山ある。一つ一つ対策をしきれるものではないだろう。危険と感じる場所は日頃から自分で注意を行い、いざとなった時には早目に自主避難するべきしかない。
幸か不幸か、土砂崩れの被害を受けたのは祐也のアパートのみで、近隣の住宅までには被害が及ばなかった。
──ザッ
「よっ、と」
河原はスコップで土砂をすくってはかき出す。
「いやぁーまさにピンポイントで狙われたって感じだよなぁ。助かったもんの、運がいいんだか悪いんだか、分かんねぇなぁ」
アパートへと雪崩れ込んだ土砂の片付けの助っ人としてやって来た河原は、スコップを持ってせっせと体を動かしながら口もせっせと動かしていた。
「すんません。わざわざ手伝っていただいて……」
申し訳なく言った吉田の息はハァハァと上がっていた。
「いんや、君は気にすんなって。困ったときはお互いさまだぁ」
雪崩れ込んだ土砂は、祐也と吉田の部屋の外壁と窓ガラスを突き破り、部屋の中へと雪崩れ込んでしまっていた。半壊といったところだ。
「しっかし、この木。なんの木? でっかいなぁ。どうすんだ、こりゃあ? てか、これアパートに倒れてたら屋根ごとぶっ潰れてただろ」
アパートのもみの木は、台風の強風により根元から根こそぎ折れて、アパートの部屋を避けるように庭へと横倒れになっていた。
「……ですよね。折れて倒れた瞬間、僕は絶望というものを身を持って体感しました。でもこれのおかげで土砂の流れを食い止めてくれたワケなんですよね」
もみの木が裏山側の庭へと倒れたため、いくらか土砂を食い止める形となった。アパートの部屋へと倒れていたら全壊どころか、もし逃げていなかったならば命も危うかっただろう。吉田は想像してゾッとする。
「この木は業者だろうけどよ、アパートはどうなんだ? 君、どうすんのよ?」
「はい……どうしましょう」
吉田は部屋の中を見渡して途方に暮れた。今はとりあえず被害に遭っていない空き部屋に仮住まいさせてもらっている状態だ。新しい部屋を探してみるも、ここと同じ安い家賃のアパートなどそうそうには見つかりそうにない。他へ引っ越すとなるとこの地域からは離れることになるだろう。
「あいつもよぅ、どうすんだろな。いや、どうなるんだぁ?」
「田喜さん、大丈夫でしょうか……」
「ちょい、様子見てくっか。君も、こまめに水分摂りながら休憩入れろよ」
そう言って河原はダラダラ流れる汗をタオルで拭きながら、アパートの隣にある神埼の家へと向かって行った。
河原ほど汗は流れていないが息を切らしている吉田は、言われた通り素直に用意されていたペットボトルのお茶で水分補給して、庭に倒れている木を腰かけにして休憩を取る。すると、何か黒っぽいものが視界の端を通り抜けた。
「ん?」
吉田はその正体が気になって、確かめるべく後を追いかけた。
◇
チリン──
音に反応した祐也はぼんやりとした意識の中、必死にもがいて瞼をこじ開けた。
「あら、起きたかい」
声のする方向に顔を向けると、視線の先では神崎が軒先に風鈴を吊るしていた。祐也が期待した音ではなく、気を落としてしまい再び重く瞼を下ろす。
「風鈴は台風が来たらしまっておかな、短冊が飛ばされて壊れてしまうけんなぁ」
台風が過ぎ去ったので吊るし直していたのだ。もう暦の上ではとっくに秋なのだが、そんなことはちっとも気にしていない神崎は年中吊るしている。ここの住民達は風鈴が好きだ。
「熱は下がったかい? そうや、トマトでも食うかい? 今持って来るけん、ちょい待っちょりや」
冷蔵庫の中のトマトを取りに、奥の台所へと神崎はそそくさと向かっていく。
あれから──河原の話によると、あの土砂崩れが起きた直後、祐也は倒れ込んでしまったのだという。そこへ丁度、河原が何となく虫の知らせがして祐也への二度目の連絡を入れたところ、受話器の向こう側から聞こえたのは半分パニック状態の吉田の声だったという。
急いで駆け付けた河原は、まず目の前の光景にびっくら仰天! その後、吉田と二人で台風の荒れ狂った天候の中、河原の家まで倒れた祐也を運んだのだった。「意識のない大の男を運ぶのはそりゃあ大変だったぞ」と、河原から愚痴と文句を垂れ聞かされた。
風邪引きのところへ持ってきて雨に打たれて高熱を出した祐也は、時折うなされるように何かうわ言を言っていたという。それは祐也にもうっすら記憶がある。
(……雪、ナイ)
三日経過した今尚、二人の姿は消えたまま見つかっていない。
まだ体調が完全に回復していない状態の祐也は、無理を言ってアパートへと戻って来たものの、アパートはあの惨状だった。大人しくしているようにと、こうして神崎の家の座敷へと寝かされているという訳だった。
神崎が台所からお盆を持って戻って来た。皿の上には山程盛られたトマト。真っ赤に熟れたトマトは美味しいだろうが、あまり食欲はない裕也だ。
「ほれ、ちっとは食べな。治るもんも治らんで」
そう言いながら、神崎はトマトを自分の口へと入れる。
「……神崎さん。神崎さんは見ましたよね? ──あの光」
一昨日の夜の出来事について。吉田は自分が見た物を信じていないし、神崎は何事もなかったような素振りをして、それについて一切触れず何も言わない。
だが、確かに祐也は見た。アパートから不思議な光が放たれたのを。そして、あの謎の少女を──けれど、全ては祐也の見た幻だとされた。
誰にともなく、まるで自分自身に確認するかのように祐也は喋っていた。
「……神崎さんは知ってたんですよね。神様の御使いって……あの子のこと? 俺が田んぼで見つけてしまったから……お昼寝しているのを邪魔したから……だから罰が当たったんだ……っ」
「田喜君……」
「だから、雪は……雪は俺の身代わりにって……そうゆうこと?」
上半身をガバッと起こし、神崎に問う。
神とは無償を与えない。必ずや、その代償を求める。祐也はそう、祖母から教わった。
「そななことはない。わしらをお守りして下さった神様が、そななことをしたりせんよ、田喜君」
そう言って、神崎は首を横に振ってやるしかなった。祐也も分かっていたが、どうしても自分を責めずにはいられなかった。うなだれて黙り込む。
しばし、重く沈んだ空気が流れた。が、それを見事に打ち破るかの如く河原がやって来た。
「田喜ー、起きたかー?」
寝ている人をも起こさんばかりの大声を上げながら、玄関から座敷へとドカドカと入るなり、祐也の方ではなくてトマトに目を向ける。
「おっ、うまそうなトマトですねぇ」
「一緒に食べるかい?」
「んじゃ、遠慮なく頂きますわ。田喜、おまえも食わねぇのか? ほら、食えよ」
くし型に切られたトマトを楊枝で刺して目の前に強引に突きつけられる。しぶしぶ受け取った祐也は、トマト以外の選択肢はないのか? と、思った。
「大家さん、アパートありゃあ、リフォームか建て替えになりますねぇ」
口をモゴモゴさせながら、河原がここでも世間話を始める。
「それなんじゃけど、さっき息子夫婦から電話があってな。前々から話にはなっとった事なんじゃけど、ようやくこっち帰って来てくれるゆう話になったんじゃ」
「そりゃあ、良かったですねぇ! 一人暮らしじゃあ、やっぱ何かと不便で心細いですもんねぇ。何より、息子さんも心配でしょうしねぇ」
「さぁあねぇ、今回の事でちっとは考えてくれたんかどうかは知らんけど……」
他人事のようのにフンッと鼻を鳴らして言う神崎だが、その口元は緩んでいた。
「えっ、じゃあアパートは? 不動産の方、継ぐんですか?」
「まだ、そこんところはどうなるか分からんんけど。あの子も仕事があるけんなぁ、すぐには越して来れん。けどもう、このアパートは古いけん、取り壊しじゃあ……じゃけん、田喜君。悪いけど……退去してもらわないかん。新しい所が見つかるまでは、このままうちでおってくれてもええで。あたしは別に構わんよ」
「田喜、だとよ! ご好意に甘えて居候させてもらえよ! おまえの場合、雪ちゃんいるしすぐに引っ越しは……」
そこまで言って、河原はハッとして口をつぐむ。祐也を見ればうつむいたままじっと話を聞いていた。そしてゆっくりと口を開く。
「……雪がいないんだったら、大型免許取って長距離ドライバーにでもなろうかなぁ。たまに寝に帰るだけなら、実家でも姉ちゃんからのこき使いも少ないだろし」
「なっおまえ! いきなり何でそんなっ……傷心の旅でもする気かっ? って、おまえ姉ちゃんにこき使われるのがイヤで一人暮らししてんのな。やめとけよっ、腰痛めっぞ! 運ちゃんは楽じゃないの痛いほど知ってるだろ? ……給料は今より上がるかぁ」
上を仰ぎ、その給料を参考にした人物と会社名から近況までを頭に浮かべる河原。隣で神崎が「あたしゃ一人でつまらんわぁ」と、ぼやく。
「腰ならすでにイテぇよ。転職は前々から考えてた事だ。……旅か、悪くないな。倉庫の中よりかは景色いいかもな。友達百人できるかな?」
「田喜、おまえはそこまでもにも……うぅ。分かったけどよ、ヤケんなんなよ? 雪ちゃんだってまだいなくなったかどうか分かんないんだぞ? なっ?」
河原に両肩を掴まれてゆさゆさと大きく揺さぶられていると、──吉田がアパートから駆け足でやって来た。庭の外から縁側の所で肩でゼェゼェと息をさせながら、
「田喜さん! 雪ちゃんって何色ですか? やっぱり白ですか?」
「……雪は、白猫だ」
祐也は一体何のことか分からず、怪訝な顔をして答える。その顔が怒ったように見え、吉田はしまった! とばかりに慌てて謝る。
「ですよねっ、白猫だから雪ちゃんって言うんですよね、すみませんっ」
「そりゃあそうだ、黒猫に雪は似合わないよなぁ。名付けのセンス疑うよなぁ。何だ、いきなり毛色なんか聞いてきて。どした?」
「いえ、さっき黒っぽい猫を田んぼで見かけたんですけど……雪ちゃんじゃなかったですね。すみませんっ」
吉田が言い終わるや否や、祐也は飛んで立ち上がり、ダダダッと玄関から外へと一目散に走って行った。
「田喜さんっ?」
一体、何事かと河原の方を振り返った吉田に、河原はこう説明した。
「雪ちゃんはな、最初は黒猫だったんだ。それがある日、あいつに出会うとな、みるみると白猫に変身したんだよ」
「えっ?」
吉田は素直に驚いてみせる。その横から神崎が、深刻であるアパートの件について、のんびりと吉田に説明し始めた。
◇
(──雪っ、ナイっ)
祐也は無我夢中で走る。五日前に少女と出会った、あの田んぼへと。駐車場を通り抜けて、田んぼの間のあぜ道へと辿り着く。前へ進みながら左右に広がる田んぼを交互に必死に見渡す。
チリンッ
鈴の音と共に、田んぼの中から一匹の猫が現れた。黒く毛並みがボサボサに薄汚れている猫は祐也を見ると、「ニャー」と鳴いた。
「雪っ!」
祐也には見間違えるはずなどなかった。雪だ。生きていた。雪は生きていた。祐也は雪を抱き上げて、ぎゅっと力いっぱいに抱きしめる。
「……心配したぞぅ」
雪は「ニャウニャウ」と、それに応えるように鳴く。そして、祐也の腕をスルッとすり抜けて地面へ降ると、田んぼの中へと入っていく。稲穂をかき分けながら、祐也も雪の後へと続いて入っていく。目の前へと、その光景の姿を想像しながら──
風でなぎ倒れてしまった稲穂の真ん中──一匹の蛇の姿があった。
蛇は体中に深い傷を負っていて、うなだれるように体を丸めていた。目の色は赤く、その片側の目は痛々しく潰れている。
「白蛇……」
雪が白蛇に近寄り、蛇の体の傷口をペロペロと舐める。白蛇は猫である雪に怖がることもなくされるがままになっていた。
祐也の脳裏に、何か引っ掛かっていた昔の記憶がポロリとこぼれ落ちる。
子供の頃、庭で蛇を捕まえた時だった。それを見た祖母が、赤い目をした白蛇は神様の御使いだと。その家を御守りして下さっているのだと。だから決して捕まえたりしてはいけないと。そう言いつけられた。
祐也は、目の前にいる無惨なほど傷だらけで弱っている白蛇の姿を見て、ガクリと膝をつく。
「……ごめん。ナイ……っ」
思わず口について出た言葉だった。けれども、白蛇はそんな言葉など何も望んでなどいない。いつもの相変わらず無関心な顔で祐也をジッと見ている。
しばし呆然とするしかなかった祐也。恐る恐る白蛇に向かって手を差し出す。
すると、ぐてん。と、頭を図々しく乗っけてきた。祐也にはその態度が何だか懐かしく思えた。
「……雪が看病してやってるのか?」
雪は「アォ」と鳴きながら、一生懸命に白蛇を舐めて介抱している。
──やがて、白蛇が雪の背中によろよろと這い上がり巻きつくと、雪は無言でそっと立ち上がった。
そして、田んぼに挟まれた細い砂利道へ出ると、アパートとは逆方向へと向かってゆっくりと歩き出す。
「雪? どこへ行くんだ?」
呼び止めた祐也の声に、雪は首を後ろに回してこちらを向く。その顔は、いつもの雪のではない。まるで、野生のように鋭く険しい表情をしている。
「……まさか、行くのか? ……一緒に」
きっと白蛇は、取り壊されるこのアパートからは立ち去るつもりだ。
祐也の問いに雪は「ニャア!」と、強く鳴いて返事をした。
野良としての道は、飼い猫の雪にとっては想像以上に厳しく過酷だ。そう長くは生きていられない。──それは、深く傷を負った白蛇も一緒だろう。
だからこそだろう、雪は自ら決めた──白蛇と共にゆく事を。
「……そっか」
祐也は静かに黙ると、雪の首輪をそっと外してやった。もう、雪にとっては必要のないものだ。
「雪……」
祐也が最後に頬ずりをすると、「ニャウ」と、雪も最後に甘えた声で鳴いた。
そんな二人を白蛇は、丸くてつぶらな赤い片目をクリクリさせながら見つめた後、チロリ。と、二回。挨拶のつもりなのか舌を出した。
今度こそ、二匹は真っ直ぐとあぜ道を進んでゆく。もう二度と振り返ることはない。
二人が去りゆく姿を見守っていた祐也も、決して後ろを振り返らないと覚悟を決めて、背中を向けた。
「さぁて、……俺も」
次は、祐也が自らの進むべき新しい道を見つけて決める番だ。
向こうから「おーい!」と、河原たちの呼ぶ声がしている。祐也は空を仰いだ。
見上げると、台風の過ぎ去った後とは思えないほどの、清々しく青い空がどこまでも広がっていた。
〈了〉
ここまで読んで頂き本当にありがとうございました!




