第十一話「嵐来る直前」
アパートに着いた頃には、雨は弱まっていた。風もさほど強くはないが、時々突風が吹きつけている。どす黒く気味の悪い雲が渦巻いている空を見上げながら、祐也は車から降りる。後部座席のドアを開けてスーパーのレジ袋を取って手に提げた。
生ぬるい湿った風が漂うように吹きつけてくる。この程度のままで済むはずがないのをよく知っている。嵐の前の嫌な静けさだ。
駐車場で神崎が傘を差して立っていた。辺りの様子を気にして窺っている。
「神崎さん? 危ないからもう中に入った方がいいよ」
台風の時に様子を見にわざわざ外へと出る老人ほど危険なものはない。祐也は注意を促す。
「田喜くん、お帰り。あれぇ、ようけ買い物したなぁ」
忠告は耳に入ったのか入っていないのか、祐也が手に提げているレジ袋に注意が向く。
「……なんか、今度の台風は気になってしゃあのうてなぁ。一昨日、神様の御使い見た言うたじゃろ? あれの姿を見るときはな、決まってなんかが起きるんじゃ」
また始まった。と、祐也は内心。
「その神様の御使いってのはどんな姿……」
祐也が最後まで言い終わらぬ内に神崎の話は入れ替わる。
「さっき、隣の奥さんと話とったんじゃけどね、避難するときは皆で乗り合わせて行った方がええなぁって」
避難所に指定されている近くの公民館はさほど大きくない。何台もの車で来られても停める場所がなくて困るだろう。
「あぁ、車なら俺が出します」
頭の中で人数を数える。雪は動物なので荷物扱いで数に含まれない。ナイは子供であることから、あと二人は収容できるだろう。
「ほな、すまんけど頼めるじゃろうか。避難になったら防災無線でも放送するやろけど、役場からも連絡くると思うけん」
「隣の吉田君には俺が声かけるから。神崎さん、家でじっとしててよ」
キッと睨むふりをして念を押す。
「あーぁ、わかっとるけん」
うんうんと神崎は頷きを繰り返したが、本当に分かっているのかと、祐也は疑りの目を向ける。
「それより、あんた濡れとるけん。はよぅ中入りや」
今の祐也の言葉はやはり聞いていなかったようで、自分の事は棚に上げて言う。
「神崎さんもっ」
「はいはい、分かりました。田喜くん、怒らすと怖いけんねぇ」
一度も怒った事はない祐也だが。返事良くそう言うと飄々と家へ向かって行く。神崎が玄関の中へと入ったのを確認してから、祐也もアパートの部屋へと向かった。
◇
(いい子にしてるか?)
今朝のささみジャーキーの件を思い出しながら、玄関のドアを開けると……まず、雪が「ニャー」と、出迎える。いつもよりも早いご主人様の帰宅でも、気配を察知して玄関で待っていたようだ。
「雪ー、ただいま」
すかざず、レジ袋を玄関の上がり口に置くと雪を抱き上げて頬ずりする。
きっとナイが白く無機質な目線を送っているだろう事を予想して目線を奥へと向ける。が、いなかった。
昨日のように警戒して隠れているのか、はたまた何かしでかしているのか、それとも……いなくなったのか? と、不安が頭をよぎり心臓が高鳴った祐也は、急いで玄関を上がりナイの姿を探す。
「ナイ?」
部屋を見渡すと、窓際のカーテンがもっこりと盛り上がっていて、揃った二つの足の裏がカーテンの裾からちょこんとはみ出て覗いている。祐也がカーテンを開くと、ナイが窓ガラスに両手と顔をぴったりくっつけてカエルか何かのように貼り付いていた。
「……あぁ」
祐也はすぐに合点がいく。窓から見える、揺れ動く木々や降り注ぐ雨の景色が気になり眺めていたのだろうと。祐也の部屋の隣にある大きなもみの木も、悠々とした態度でわさわさと揺れていた。
「……ナイ。台風が来る」
「クル」
理解をしているのかいないのか。祐也はカラカラと窓を開けると、フワァと風が入り込んでくる。雪が目を細めてたじろいだ。
「雪、今日は出たら飛ばされるから、お散歩中止な」
祐也は縁側へと出て、後ろを振り向く。窓ガラスに貼り付いたナイの姿は滑稽で不細工になっていた。
リリリリンッと隣の風鈴の音が連打されて鳴り、短冊がパタターと風に吹かれている。よく見ると、風鈴は二つ吊らされていた。
(……飛ばされんぞ)
またも風鈴を危惧する。すると、隣の窓がガラリと開き、中から例の浪人生の吉田が出て来た。
「あっ、こんちわ。すんません、風鈴うるさかったですよね」
吉田は慌てて風鈴を外している。祐也が窓を開けた音に気付いて、急いで出て来たのだろう。ずれた眼鏡をかけ直している。本人も風鈴は気にしていたようで、これで祐也の風鈴への執拗なまでの危惧は解消された。
「……いや」
うるさく思っていた訳ではないという意味で一言だけ短く否定の言葉を口にする。いつも無愛想な祐也の挨拶に、少し苦手意識のある吉田だ。怖くない人とは知りつつも、少々焦り気味に風鈴を外す。それを真顔で祐也がジッと見る。その態度はどこかナイに似ている。
「……吉田君、原付だったな?」
「え? あ、ハイ」
「さっき大家さんと話したけど、避難の時は一応声かけるから」
「え、あ……ハイッ」
主語が抜けたまま唐突に言い渡された吉田は一瞬何の事か分からなかったが、持ち前の頭脳をフル回転させて、原付で避難は危険かもしれない! という答えを導き出した。
「じゃ、濡れっから閉めるぞ」
祐也は、ピシャンと窓を閉めたが、すぐにまたガランと窓を開けて顔だけ出し、
「風鈴、好きなのか?」
「えっ、いや。フツー……」
「そうか」
再びピシャンと祐也は窓を閉めた。吉田は両手に好きでも嫌いでもない風鈴を二つ持ったまま立ち尽くしていた。
ちょうど良いタイミングで用件を伝える事ができた祐也は、気づけばナイが吉田に驚いてテーブルの下へと頭だけ入れ、お尻は出したまま隠れたつもりでいるのに思わず苦笑する。
シャッとカーテンを防御としてきっちりと閉める。遮音ではないカーテンの向こうは雨風の音がしっかりと聞こえている。もうすぐその音も激しさを増す事だろう。
足元で雪が、「ニャーニャー」とエサを催促する。
「雪、まだ少し早いぞ?」
玄関に置きっぱなしのレジ袋を取りに向かう間にも、雪は祐也の足元にぴったりとくっつきすり寄って歩く。ナイは知らん顔で一向に懐く気配はないが、ずいぶんと我が物顔をして部屋で寝転がりくつろぐようになった。「ニャウー」と、しきりに雪が鳴く。
「……仕方ないなぁ。今日はササミとまぐろの、どっちだ?」
そんな人間とネコとの種別の違う生き物の会話にも、ナイは見慣れて飽きたのか見向きもしない。雪が「ニャウ」と鳴き、「じゃあこっちな」と、祐也はまぐろを選択する。言葉が通じると半ば本気で思っている飼い主のパターンだ。
くしゃん。
祐也はくしゃみを合図に、思い出したかのように一気に頭痛と熱を感じた。ここまで症状が強くなれば、もう葛根湯では効かない。やむを得ず、会社で河原から無理矢理に渡された風邪薬をポケットから取り出して飲む覚悟を決めた。
(なんでこんなときに……)
まるで恨むように小瓶に入った風邪薬を睨み付けてから、コップに水を汲んで飲む。
スーパーでナイ用に大量の鶏肉やら卵などの食材を冷蔵庫にしまい終えると、風邪薬を飲んでからまだ五分しか経っていないが、早くも眠気が条件反射の如く襲ってきた。疲れて弱った体にどっと鉛のような重さまでもがのしかかってくる。
「……雪、ナイ。晩飯まで少し横にならさせてくれ」
居間の隣の寝室へとよろめきながら歩く。 食事を終えた雪は「ナァ」と鳴いて返事をする。ナイはイエスともノーとも答えず、首だけ回して動かすと、布団に倒れ込むように突っ伏した祐也を見る。さすがに何か異変を察知したのか、ゴロゴロと転がりながら側に寄って祐也の顔を覗き込む。すでにその顔は眠りに入ろうとしていた。雪も近づきナイと一緒に覗き込む。
二人にジッと覗き込まれながら、祐也は沈むように深い眠りの淵へとついた。
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