第十話「けんびき風邪」
腕にずっしりとした重力。それでいて、鈍い痛みと痺れ。それらを夢うつつで感じていた祐也は、顔をしかめながら目を開く。
「……雪、おはよ」
雪はご主人様のお目覚めの挨拶に、「ミャウ」と、鳴く。人間の言葉に訳すと「早く朝ご飯!」である。
そして祐也は左側に頭を向くと、──ナイが腕枕をしていた。うつ伏せ体勢で顎を突き付けるように乗っけている。夢の中でも感じていた痛みと痺れの原因はこれかとすぐに納得する。これは腕枕などとは言えず、完全に枕にされていると言える。残念ながら甘えているようには見えない。
「……ナイ。ちょっ、どけてくれ」
と、頼んでも動かず微動だにしてくれないナイの頭から、腕をゆっくり引き抜く。
「イテ……」
圧迫されていた腕に血がじんわりと通って巡ってゆくのを感じる。徐々に痛みと痺れが消えていくのをゆっくりと待ちたいところだが「ニャー」と、雪はご主人様の身に起こっている状態など分かりっこもなく、朝ご飯を催促してくる。
「ん、ちょっと待ってろよ」
祐也は愛猫のため、腕の痛みも我慢して起き上がる。ナイは枕を失くしてもまだ眠そうにうつ伏せでだらりと伸びている。
(……イテェ)
本当に痛いのを徐々に気になり始める。何だか肩などの体の節々も痛い気がする。そこへ、くしゃん。とくしゃみが一つ。
(……けんびき風邪か?)
けんびき風邪がこの地域の方言だと祐也が知ったのは、ごく最近だった。教えてくれたのは隣人の浪人生の吉田だ。県外では通用しないのだと。では、標準語では何て言う? と問いを投げかけたところ、「ちょっと疲れが溜まってしまったのか、なんだか体のあちこちが堪えてて……そこから風邪気味を引き起こしたのかもしれない……?」と長々と大真面目に回答をしてくれた。
仕事で機械に乗っている祐也は眠気が出やすい風邪薬を飲むのは避けている。人一倍、薬の眠気が出やすい体質だからだ。そこでいつも葛根湯を飲んでいる。
葛根湯を飲もうと台所へ向かい、「ニャーニャー」と足元で急かして鳴く雪にまず朝食のキャットフードを与える。そしていつも置いてある台所の戸棚を開けると──出て来たのは葛根湯が入っていた空箱だった。
ハァ、と肩をガックリ落とす。祐也は仕事ではミスをしないものの、私生活では少し気が抜けている所がある。
「!」
振り向くと、ナイが後ろに立っていた。足音も気配も感じさせないのでドキッとする。ジーッと見つめてくるナイが少し心配している風に見えるのは、疲れによる目の錯覚か。
「……何でもない」
鼻をすすりながらごまかした祐也はナイが何かを手に持っているのを見て今度はギョッとする。
「ナイ、それは雪のおやつだ!」
ナイが手にしているのは、猫用のおやつのささみジャーキーだ。黙っていれば酒のつまみと勘違いして食べてしまいそうな見た目ではある。
「ダメだっ」
慌ててナイの手から取り上げようとしたものの、ナイはプイッと後ろを向いてタタタッと小走りに逃げてしまう。
「ダメダ、ダメダ」
「こらっ、ナイ!」
いつも寝そべっている姿ばかりなのに、なぜ今こんなにも動き回るのか。食事を終えた雪も、なになに? と、目を輝かせて楽しそうに参戦する。
窓際のカーテンの中へと雪と一緒に潜り込んで隠れてしまった。祐也はゼーハーと荒く息を吐く。と同時に、また一つくしゃみをした。
──ザァァァ
カーテン越しの窓の外から雨音が聞こえてくる。カーテンをシャッと開けると、隠れていたナイと雪の姿が現れ、仲良く二人でささみジャーキーを分け合って食べている。
「……うまいか?」
「ウマイ」
祐也が窓をガラリと開けると、フィーと音を立てて風と雨が混じり合って頬に当たる。畳が濡れると困るのですぐに窓を閉め、テレビのリモコンを手に取とる。
『──台風二十一号の影響により九州南部の広い範囲に渡って暴風を伴った激しい雨が振り続けて……』
ニュースでは台風の情報が流れている。いよいよ九州が暴風域に入った模様だ。午後には中国・四国地方へと接近する見込みのようだ。
各地では暴風が吹き荒れ、豪雨が降りかかるという、毎回同じ映像を録画再生でもしているのはないか? と、疑うような光景が映し出されている。
テレビ画面に表示された一時間に予想される降水雨量は五百ミリとなっていた。前回の台風でもかなりの量の雨が降り、河川氾濫や土砂災害の危険による避難勧告が祐也の住む地域にも発令されていた。今回も再び強い雨が振り続けるとなると……もしかしたら本当に危険が生じるかもしれない。
窓際で猫用のおやつを美味しそうにかじっているナイは、何の危険性も感じていないのかテレビには無関心だ。祐也一人ならば何が起きようとも身軽なのだが……最悪、ナイを連れての避難も頭に考慮しておかねばならない。
「……よし、朝飯」
偏食するため、こんな変な物を食べるのだと、冷蔵庫の中にあった卵とウィンナーをナイのために全部フライパンで焼く。ジュワーと大きく上がった音にピクリと反応したナイが目をクリクリさせた。
◇
昼前にもなると、雨が強まり風が出始めて来た。
荷物の積み下ろしを終えて祐也がフゥと一息をついていると、河原が事務所から外へ出て、雨風を避けるために小走りしながら倉庫までやって来て声をかけた。
「風邪薬、効いたか?」
朝、会社に着いた頃には鼻の症状に加えて熱が出てきて頭痛も伴っていた祐也だ。会社にあった市販の風邪薬をやむを得ず飲んだのだが、おかげで頭がぼんやりとしていた。
「……あぁ、眠い」
「おまえが飲むと、睡眠薬になんのな。しっかし、それ、完全に風邪だな。うつされたんじゃねーのかぁ? 西山さん、今日も休みだとよ。明日には出てこれそうって言ってたけどな」
鼻水と熱と頭痛は今は何とか落ち着いたものの、とりあえず眠気がひどい。今日はリフトには乗らず他の従業員に代わってもらっている。
「田口さん、リフト乗れるんだったっけな。操縦どうなの?」
リフトの免許は持っているものの操縦はやりたがらない田口だ。しかし、先々月に従業員が一人辞めたため、今日のような日は祐也と交代になれるのは田口だけだった。
「……苦手でもやってくれなきゃ、俺は会社辞める事もできねぇ」
「えっ、辞める気なのか?」
「……」
黙って庫内をスタスタ歩き出す祐也に、河原は聞き捨てならんとばかりに追いかける。
「今はやめてくれよっ、マジでやめろっ、なぜか俺に吐かれる社長の愚痴が長くなるっ、頼むぅー」
ずっと新入社員を募集しているものの、即戦力になる若者が入って来ない。現在の従業員達は定年退職が間際の者も多いため、会社としては困窮している。……こんな、中高年のおっさんばっかしかおらん所やから若者が嫌がるんじゃないか? とは、おっさん従業員達の意見だ。
「そりゃあ、お前の気持ちも分かるぞ。こんな安月給で、うぅっ」
と、河原が自身も含めて嘆く。けれど、いくら嘆いたところで、こんな田舎町では選べるほど仕事が豊富にある訳でもないのを知っている。夢のある仕事に就きたければ、市街地へと引っ越すか上京でもするしかない。ましてや、高卒で特に資格もない祐也にはそんなに選べれるほど仕事はない。
毎日、淡々と単調な作業をこなして家に帰る。それでも、雪が待っていて癒やしてくれる。それで良いと思っていた。けれど──……
「……で、トラックは?」
河原の嘆きを無視して、祐也は本題の説明を求める。
「あ、そうそう。瀬戸大橋が封鎖されて身動き取れましぇーんって運ちゃんが。もう今日は来ねぇな」
正しくは通行止めだ。小島ICから坂出IC間を結ぶ瀬戸中央自動車道は風速三十メートルを基準に通行止めになる。瀬戸大橋線の電車に至っては、風速二十五メートルで運行見合わせだ。しかし、まだ通行止めにはなっていないだろう事から、……ドライバーの都合の良い言い訳だろう、とした。
「分かった」
河原のおふざけにも取り合わず無視して、ぶっきらぼうに了解の意を伝えると、さっさと土嚢を運びだす。倉庫のシャッターを下ろして積み上げるためだ。会社は坂道の上にあるので浸水の恐れはないだろうが、雨漏りがしないよう対策には念を入れる。
「田喜、無理せず他の人に任せて今日はもう帰れよぅ」
「……無駄話するヒマあんなら、おまえが手伝え」
「いや、ヒマじゃねぇよ。心配して様子見に来てやったのに、かわいくねぇなーホントによぅ」
そう皮肉を残して、河原は雨が降りしきる中、駆け足で事務所へと戻って行った。「その風邪薬、一日三回だぞー」と振り返って説明を足しながら。
「……三回も飲んでられるか」
祐也は小さくぼやく。
「田喜君、風邪どうや? わしらも早めに切上げるし、あとはやっとくけん、帰りぃや」
リフトから降りて来た田口も心配をして声をかけてくれる。その言葉の裏は、早く風邪治してリフト頼むよ。である。そんな田口は腰椎椎間板ヘルニアを抱えている。なので座りっぱなしの作業はきつく、まだ立っている方が楽だと言う。加えて、近頃は呆けたのか運転中によく青信号で停まって赤信号で走ってしまう。と、軽く怖い事を言うのだった。
「……すんません。じゃあ後、頼みます」
祐也は、お言葉に甘えて早退させてもらう事にした。自宅の様子が気掛かりでもあったからだ。偏食家のナイ用に食料も調達して帰らなければいけない。
そろそろ風邪薬の効果が薄れてきたのか、頭痛を感じながら帰り支度をして駐車場へと向かった。
読んで頂きありがとうございました
何でもかんでも「けんびき」にすれば納得がいく。とっても便利な言葉なのです。




