第九話 この世界に備えて
「――そういや俺、暮井さん見かけたんだけど」
思い出した疑問を口にしたのは、朝食の席でのことだった。
この世界の仕組みがどうなっているかは分からないが、腹は減るんだから食べなきゃならない。記憶が戻ったことで無性に納豆ご飯を食べたい俺だが、米も納豆も店で売ってねぇんだよな。これだから西洋風の世界観は困る。何故か醤油だけはあるが、魚醤があるからオッケーって理屈なんだろうか。
ともあれパンを食べつつ話した言葉へ、最初に反応したのはのーみんだった。
「にゅー? グレさん、ゲオルやってたっけ」
「アカウント作るだけ作って放置してたって可能性もあるけど、聞いた限りじゃねぇな」
わりとフットワーク軽い人だし、もし始めてたら声をかけてくるだろう。こっそりレベルを上げて驚かそうってお茶目なことを考える島人もいるが、暮井さんはそういうタイプでもない。
俺はロンさんにそれとなく視線を向けながら、
「昨日さ、ロンさんが言ってたじゃん。この世界はシミュレートなんだー、って。
プレイヤーがそこへ放り込まれるのは何となく納得できるんだけど、プレイヤーじゃない一般人まで放り込んだりするもんかね?」
だからここは、やっぱりゲームのように改変されたリアルではないか。
そう主張する俺に対して、ロンさんは涼しい顔で言う。
「ガウス、あくまでもそれは状況から判断した仮説だ」
あ、これ自説が外れてた場合の予防線だ。
保険を用意したロンさんは、だからこそ自信満々な態度で続ける。
「それに考えてもみたまえ。中途半端にプレイヤーだけを取り込めば、リアルでは大騒ぎになるではないか。この異変を引き起こした者は、きっとそれを望まなかったのだろう。
魔術という無茶な手段で以て、プレイヤーではない一般人も取り込み、冒険者という立場を与えた。リアルのことを思い出せないのなら、これが最も簡単な隠蔽ではないかね?」
「もっともらしいコト言うのだけは上手ぇよな」
「ははは、私の知性に及ばんからといって、嫉妬は見苦しいぞ」
「その知性を普段、大部分は金勘定にしか使ってないのどうかと思うぞ」
「何を言う。金で買えないものはない。よって、金のことを考えるのがこの世の真理だ」
澄んだ瞳で言い切られてしまった。いや、言い切るなよ。
しかし言い返しても面倒臭いだけかと思い、ソウダネー、と適当に流しておいた。
「……でも、そういうことなら」
俺達の会話で何か思いついたのか、クラレットが言う。
「こっちにも家族や友達がいるかもしれない、ってことかな」
「いたとしても、出会えるかどうかですねー」
姐御は何故か俺に呆れの眼差しを向けて、
「ガウス君みたいに悪目立ちすれば、確率は上がると思いますけどー。
仮に日本国民全員がこちらにいたら、普通は出会えないんじゃないですかね」
「そっか……奇跡みたいな確率になるもんね」
「え? 俺、暮井さんごときにそんな奇跡起こしたの?」
「本当に無駄な幸運おめでとうございまーす。しばらくドロップ運も腐りそうですねー」
「そ、そこに関連性はないし……!」
でもそんな気がする。否定できない。おのれ暮井さん、許せないぜ。
やっぱね、初対面の相手の靴を舐めようだなんて変態は、許されちゃいけないわけだよ。あんなのと関わったせいで騒ぎが大きくなり、俺は衛兵に殺され、またしても悪名が上がったのだ。どう考えても暮井さんが悪いのは運命的に明らかであり、俺は哀れな犠牲者でしかないのである。
とりあえずまた出会えたら、その時は殺さないといけないなぁ、なんて考えていたら、カルガモが何やら腕組みして思案をしているのが目に入った。
一応、昨夜遅くに帰ってきたカルガモにも、事情は説明してある。酔って記憶が曖昧だったとかでなければ、説明に足りないところはなかったと思うのだが。
そしてカルガモは不意にぼそりと、
「反射的に斬ってしもうた……」
……あいつはあいつで、誰かと遭遇したんだろう。
誰なのかは知らないが、らしくないことに凶行を悔やんでいるような素振りからして、リアルでは手を上げちゃいけない立場の相手だったのかもしれない。あ、パンが美味い。
他人の不幸で蜜を味わっていると、姐御がカルガモを手招きした。どうやら懺悔を促しているようだ。カルガモは殊勝なことに、もっと違う手段があったのではないかと反省を口にし、それを聞いた姐御は現場の状況や、目撃者の有無を確認していた。これ懺悔じゃねぇわ。隠蔽工作の相談だわ。
食卓の片隅が邪悪さを増していく中、そんな光景にもすっかり慣れてしまったシャーロットさんが言う。
「そうだロンロン。聞こうと思っていたのだが、君の扱う商品にタバコはあるか」
「タバコかね? パイプならファッション用の小物としてあるが、葉はないな。……そうか。本来のゲームであれば規制対象だが、この状況では流通している方が自然か。記憶が戻ったところで、言われなければ気付かない見落としは多そうだね」
シャーロットさんの慧眼を褒めるように言うが、
「違う。私が吸いたいんだ」
あー。そういや喫煙者だっけか、シャーロットさん。
彼女は苛立たしそうにテーブルを指先で叩き、
「記憶が戻ってからというもの、タバコを吸いたくて我慢がならん。この体は綺麗なものだが、習慣としてタバコを吸わんと落ち着かなくてな」
「そ、そうか。うむ。とりあえずパイプだけでも渡しておこう」
言って、インベントリから取り出したパイプを渡すロンさん。
満足そうに受け取るシャーロットさんだが、その光景を見てクラレットが口を挟んだ。
「あの、タバコ吸うのは止めませんけど。臭い付いちゃうから、外で吸ってくださいね」
「……そうだね」
悲しそうに微笑んで、シャーロットさんは頷いた。喫煙者の肩身は狭いのである。
リアルで主流の電子タバコだと、色々工夫して臭いや周囲への害も抑えられてるけど、ただのパイプだと厳しいよなぁ。絵面がいいから、ゲームではファッション用によく登場するけど。
そしてクラレットとしても、シャーロットさんが室内で喫煙するのは止めなければならない。そりゃ各自手伝ったりはしているものの、拠点の掃除や洗濯はクラレットの領分なのだ。
……こうして生活感が出ると、ゲーム世界ってのも不便だな。スキルや魔法を応用することもできるが、家電がないってのがつらい。特に風呂がないのは本当につらい。
世界の危機とかを意識しないわけじゃないんだが、生活面のクオリティーの方がよっぽど危機感を煽る。やっぱり俺は、どこまでも個人的な理由で動く人間なのだろう。
本当はもう少し、義務感とかも抱えるべきなのかもしれないけど。
それはそれで筋が違うよなぁ、なんて思うのだった。
○
朝食後、とりあえず皆でやるようなこともないので、夜までは自由行動ということになった。
俺は顔剥ぎセーラーに壊された武器の修理を、ウードンさんに頼んでおいた。こういう時、身内に鍛冶師がいると楽でいい。ウードンさんは装備を作る生産職としての鍛冶師ではなく、修理や戦闘用のスキルを重視した戦う鍛冶師なので、クランに一人は欲しい人材なのだ。
それから教会へ行き、日課となっている懺悔をしようかと思ったところ、クラレットとツバメの二人から買い物に誘われた。食材はまだ充分にあるし、回復薬などの消耗品も不足はない筈だと訝ったが、どうやらリアルの記憶が戻ったことで、日用品の不足を感じているらしかった。
言われてみれば、俺も気にならないわけではない。着替えはもう少し欲しいし、布を詰めたものでいいから柔らかい枕も欲しい。それと高望みはしないが、現代人としては石鹸も欲しいところだ。
そういったわけで、二人の買い物には俺も同行することになった。一応、他の連中はいいのかとそれとなく聞いてみたが、スピカは二人にお任せコースらしい。うちの妹がごめんね。掃除とかは自発的にするから、まだマシな方なんだけどさ。
姐御にのーみん、緑葉さんの三人は、そちらでまた別の買い物をするとのこと。シャーロットさんはタバコを求めて旅立ち、ロンさんは自分の商売を優先。そしてカルガモは、今ならモンスターを食べて味わうことができる筈だと気付き、未知の美食を堪能する旅に出やがった。
くそっ、先に聞いておくべきだった。超楽しそう。味がするなら食べてみたいモンスターとか、俺だっているんだぞ。仮に不味くても、それはそれでネタになるので美味しいぐらいだ。
だが仕方ない。買い物に付き合うと快諾してしまったのだから、筋を曲げるわけにはいかない。それにカルガモと二人旅をするよりは、こちらの方が華もあって楽しいというものだ。
そんなわけで俺達はラシアに行くと、まず俺の用事から済ませようと教会を訪ねた。いつものように懺悔して祈りを捧げる。完全にパターン化されており、俺も懺悔を聞く司祭様も一切の無駄なく、洗練された手際である。もしもこれがスポーツ化すれば、俺と司祭様は最強タッグだ。
ものの数分で教会を後にして、俺達は商店が軒を連ねる商業区へと足を伸ばす。日用品を買うとなれば、冒険者――プレイヤーが主体の露店では具合が悪い。もちろん普通の行商人も混ざってはいるのだが、わざわざそれを探すのも面倒だし、目当ての品があるとも限らないのだから、最初からちゃんとした商店を利用した方がいい。
そして雑貨屋で買い物を始めた時、俺はようやく自分が誘われた理由に気がついていた。
「なるほど、俺は荷物持ちか」
二人の買い込む品を、次から次へと俺のインベントリに放り込む。
インベントリの容量は筋力依存なので、最低限の武器しか持ち歩いていない今、俺のインベントリには結構な空きがある。二人はそれを目当てに俺を誘ったのだ。
「あたしも少しは筋力に振ってるけど、前衛ってわけじゃないしさー」
ちょっとは申し訳ないと思っているのか、苦笑しつつツバメが言う。でも石灰がたっぷり入った麻袋を渡してくるので、遠慮はしない方針のようだ。つーか何で石灰をこんなに?
不思議そうにしているのを見られたのか、ツバメは照れ隠しのような、強めの口調で言う。
「それは掃除用と、消臭剤。分かれ」
「お、おう」
掃除にも使うんだろうけど、メインは消臭剤か。……拠点のログハウス、トイレがないんだよなぁ。別に手抜き工事ってわけではなく、中世ヨーロッパ風の世界観なもんだから、どこのご家庭にもトイレはないのだ。
じゃあどうするかってーと、おまるに用を足して、外に捨てる。それかもう、最初から外に出て済ませてしまう。この世界観においてはそれが当たり前のことで、リアルの記憶が戻るまでは、俺達も疑問を持たずにそうしていたのだ。
しかし記憶が戻るとそうはいかない。男連中はまだ気楽なもんだが、女性陣にとっては死活問題だったのだろう。拠点の裏手には昨夜の段階で穴が掘られ、余っていた木材で囲って簡易トイレが作られたのである。かなり深い穴を掘らされたがなるほど、石灰のような消臭剤をかける計画だったわけだ。
得心がいったと頷いていたら、今度はクラレットから紙束を渡された。
「これもお願い。結構高いから、濡らさないようにね」
「あいよ」
返事をしてインベントリに放り込む。あまり上質な紙ではないが、手触りとしては厚めの和紙といったところか。書き付けに使うのではなく、明らかに何かを拭く用途での大量購入だ。
ま、現代人としての感覚が戻ると、これも必要だよな。用を足した後、これまでどうしていたのかは、彼女らの名誉のためにも触れないでおきたい。実際、どうしてたか知らないし。
それからもあれこれと買い込んでいくが、この事態がいつまで続くか分からないし、長丁場になることも見越しているのだろう。時間が経つほどにリアルの記憶は実感を増していくから、生活への不満も強くなっていく。だったら先手を打って備えておくのは、悪くない判断だ。
「普段着も欲しいけど、それはまた今度でいいかな」
雑貨屋を出たところでクラレットが言う。女性陣はそれなりに服を持ってたし、緊急性は低いのだろう。野郎どもは全裸でさえなければどうでもいい。
ツバメも思案するように目線を上にやって、
「他に何がいるかなー。スコップも欲しいよね? 今、ガウス君とカモっちの私物しかないし」
「そうだね。小さいのもあるといいかも」
「それに二人のスコップ、なんか呪われてそうで触りたくないし」
「おいおい。どうせ死に戻りすんだから、死体埋めたってノーカンだぞ」
「そういうことに使ったっていう事実が嫌なの!」
「ははーん。あれだな? お父さんの洗濯物と一緒に洗わないで、ってやつ。洗うんだから関係ないのに、なんか汚い気がするってやつと同じだ」
どうしてツバメが嫌がるのかを理解して、俺は大仰に悲しんで言った。
「パパはお前をそんな子に育てた覚えはないぞ!」
「うちのパパは汚くないし!」
「口答えするんじゃあない……! ツバメ、何だその目は。それがパパに向ける目か。お前もあの女と同じなのか! あの女と同じ目でパパを見るのか!! ああ!?」
「ひっ……!? やめて、ぶたないで……」
唐突に小芝居を始めた俺達だったが、そこでクラレットが俺にチョップした。
「やり過ぎ。また通報されるよ、ガウス」
「ちっ、ママがそう言うなら仕方ねぇな」
チョップが乱れ飛んだ。俺達の間に言葉は不要なんだなぁ。
ツバメは他人事のようにけらけらと笑って、
「二人ともー、イチャついてないで買い物続けるよー」
「ツバメ……」
クラレットはジト目を向けるが、ツバメは気にせずに言う。
「それと思い出したんだけどさ、香水も買っとかない?」
「あ、そうだね。必要だと思う」
「虫除けにでも使うのか?」
問いかけた途端、二人は俺を何とも言えない顔で見て、揃ってため息を吐いた。
え、なに。発想がおかしかったのか? 予想していなかった反応に戸惑ってしまうが、仕方なさそうにツバメが口を開いた。
「ガウス君、鼻利くじゃん?」
「おう。つっても訓練とかしてるわけじゃねぇから、本職には敵わねぇぞ」
「どういう業界……?」
怪訝そうにするツバメだが、調香師とかプロのソムリエがそうだ。彼らは匂いを分析したり、組み立てたり、表現したりといったことができる、その道のプロである。単に鼻が利くだけの俺では、彼らの土俵では素人同然だろう。
まあ説明しようかどうか考えている内に、ツバメはさっさと本題を進めていた。
「とにかく。お風呂もないんだし、乙女心としては香水とかつけておきたいの」
「あー。別に俺、あんま気にしねぇけど」
「あたしらが気になるの!」
そんなもんかねぇ。俺は首を捻りつつ、
「体臭なんかより、香水の方が俺は苦手なんだけどなぁ……」
むせ返るっつーか、胸焼けするっつーか。鼻の奥にべったり残る感じがして、香水はあまり好きではない。体臭を隠すのが目的なら、それはしっかり果たせるってことでもあるけど。
「ま、理由は分かった。けど香水なんてどこで買えるんだ?」
「化粧品とか売ってる店ならあるんじゃない? ちょっとイメージ的にお高そうだけど」
あー。リアルでもそれなりのお値段するもんなぁ。
あれは原料が高いとかじゃなくて、大部分はブランド料なんだろうけど、こっちだと手作業で作ることになるわけだから、普通にいいお値段がしそうなものである。
「……ひょっとしたら、安く買えるかも」
と、何か名案でもあるのか、クラレットが言い出した。
「錬金術師だったら、ポーションみたいに作れるかもしれないから。お店を探すよりも、生産系のプレイヤーに聞いてみた方がいいかも」
「なるほど。香水も昔は薬だったもんな」
姐御だったかカルガモだったか。どっちか忘れたが、そんな話を聞いた覚えがある。
歴史系のゲームで香水のアイテム分類が薬品になってて、疑問を話したのがきっかけだったか。アルコールに溶かす香水は、初期は薬用酒のような扱いだったという話だ。
「そんならノノカ屋に行こうぜ。あいつなら現物がなくても、作れるなら作ってくれるだろ」
「うん、そうしよっか」
というわけで、俺達は香水を求めてノノカ屋に足を向けた。
大体決まった位置に店を出しているので、迷うことはない。ゲームの記憶と比較して混雑している大通りを進み、いつもの場所にいつも通りの小汚いローブ姿を見つけた。
……ノノカのローブってゲームの時はそういうファッションだと思ってたけど、今の世界でもそのスタイルを貫いているのは拘りがあるのか、それとも無頓着なだけなのか。妙な匂いはしないので、意外と清潔にはしているようだけど。
声をかけようとしたところで、先に気付いたノノカが顔を上げた。
「おや、いらっしゃい。今日も消耗品の補充かい?」
「こんにちはノノカさん。今日はそうじゃなくて、相談があるんだけど――」
挨拶を交わし、クラレットが香水を扱っていないかと尋ねる。
ノノカはふんふんと頷いて、
「薬の材料に使うから香油ならあるけど、香水は作ってないね。冒険者相手に売れるとも思ってなかったし」
「そうですか……」
「ま、クラさんの頼みだ。作っておくから、また明日来ておくれよ。できる範囲でだけど、好きな香りを用意させてもらうよ」
その言葉に、クラレットとツバメの顔がぱっと明るくなった。
二人はあれやこれやと質問しつつ、少しでも好みの香りにしてもらおうと相談を始める。そんな二人の相手をするノノカの顔は穏やかで、やはり見た目の年齢とは不釣り合いな老練さを感じさせた。
やがて二人が他の女性陣の分をどうしようかと相談を始めると、蚊帳の外になっていた俺にノノカが目を向けた。何か話でもあるのかと近寄れば、俺にだけ聞こえるように、小さな声で彼女は囁いた。
「兄さん、これだけは言っておくけどね」
そう前置きして、
「どんな香りになっても、ちゃんと褒めてあげるんだよ」
「お、おう」
そっかぁ~。何かと思ったら保身かぁ~。
ちょっとノノカのキャラじゃない気もするが、たぶん香水には初挑戦なんだろう。クレームを避けるために根回しをしているのだとしたら、苦労をかけて申し訳ないと思ってしまう。
「分かったよ、任せとけ」
「……ホントに大丈夫かい?」
何故か不安そうだが、俺だって機転を利かすことはできる。酷い匂いに仕上がったとしても、不慣れな注文をしたのはこっちなんだから、フォローぐらいはしてみせよう。
心配する必要はないと、ノノカを安堵させるように俺は力強く微笑んだ。