第一話 お散歩気分で往こう
見慣れた風景。小さな頃から何度も通った道。
よく見知ったそれに違和感を覚えないのは、果たして正しいのだろうか。
こんな時、守屋幹弘という生き物の粗雑さを恨む。もっと日頃からよく見ていれば――なんて、お門違いの恨み言か。誰だってそうだ。立ち寄りもしない、ただ流れていくだけの景色なんて、記憶に刻まない。あそこのスーパー、前は何が建っていたっけ、なんて問われてから、失われていたことに気付くのだ。
忘れてしまった何かは、そこで初めて失われる。
人間だって変わらない。人は誰かに忘れられた時に死ぬのだとかいう、どうでもいい言葉を耳にすることもあるが、忘れたことに気付かなければ問題ない。気付いたその時にこそ、人は思い出の中で誰かを殺すのだ――というのは、もっとどうでもいい言葉だろう。
何がおかしいのやら、口端を歪めて夜の街を往く。
見慣れた風景を無感動に、ただただ殺しながら歩いて往く。
ああ、おかしいと言えばこの散歩か。見慣れた場所を歩いている筈なのに、ここがどこなのか分からない。記憶の死骸は積み上がるばかりで、ランドマークにさえなっちゃくれない。
歩調に合わせて崩れていく世界。
振り返ってみれば、まあ、何だ。いつかどこかで見たらしい暗闇が、口を開けて待っている。
引き返すことはできないのだから、嫌でも前に進むしかない。
進めば進むほどに世界は崩れ、顔のない通行人達が暗闇に消えていく。
もう思い出せない誰か達は、一歩ごとに殺されて逝く。
捻りのない言い方をすれば、あの暗闇はでっかい胃袋だ。消化さえできればいいから、お上品に咀嚼なんてしない。毒か薬かも気にしないから、一切の区別なくぺろりと丸呑み。お残しをしないのが唯一の美点か。
早く行かなきゃ、俺まで追いつかれてしまう。
なのに走ろうとは思わず、怖いとも思わない。
やんちゃなペットでも引き連れているかのように、のんびりとお散歩を続行する。
それでも変化はあるもので、崩れる予定の世界は最初からどろどろに溶けている。チョコ細工の末路。もうそれが何かも分からない形になっているのに、何故か見覚えだけはあって、懐かしむ気持ちがある。
ま、郷愁もクソもなく、一秒後には胃袋に収まっているわけだけど。
通行人も似たようなもので、顔がなかっただけの連中は四肢が欠けたり、穴開きチーズのようになっていたり。内臓だけで這っている奴もいたが、それでも人のカタチだと分かるのは、不思議を通り越して滑稽ですらある。
やがて世界と通行人の区別もなくなり、果てしない汚泥だけが広がるようになった。
空を見上げれば寂しい星空。満天の星空を期待したのだが、そりゃあちょっと贅沢だったか。
うん、仕方ない。満天の星空を望むには、街の夜は明る過ぎた。
守屋幹弘の中にあるいつもの星空は、あの寂しい星空だけなのだ。
さて――これでも前に進んでいるつもりだが、汚泥は絡みついて離そうとしない。
だから進む。意識だけは前へ、前へと進んで往く。
その、いつ終わるとも知れぬ汚泥の地平で、顔のない誰かと会った。
「お前、なんでここにいるんだよ」
投げかけられた問いに、俺はまずため息を返した。
「見りゃ分かるだろ、お散歩だよ」
「分かってたまるか」
誰かは心底呆れたようにため息を洩らし、
「帰り道が分からないなら、そりゃ迷子って言うんだよ」
「む。いや、帰らずに先へ進むなら、迷子じゃないぜ」
「遭難者にランクアップだな」
手厳しいことを言う。まったくその通りだ。
「遭難者か……そうなんだな」
「………………」
「やめろ、そんな目で見るな」
顔がなくても、どんな顔をしてるかなんてお見通しだ。
再びため息を洩らした顔のないそいつは、間を置いておかしそうに小さく笑った。
「ま、いい機会か。お前とは話してみたかったんだ」
「俺は別に話すことなんかないんだけどな」
「冷たいこと言うなよ。ほら、とりあえず座れって」
促されるままに座ってみると、ズブズブと汚泥にケツが沈んでいく。
「ばっ、お前、馬鹿! 何やってんだ!」
顔のない誰かさん、焦る焦る。俺、もっと焦る。さっきまで普通に立ってたのに、座ったらアウトって何事ですか。酷い詐欺もあったもんである。
誰かさんは慌てて手を伸ばした。
「おい、捕まれ!」
伸ばされたその手を、俺は――――
○
虚空を掴んで目を覚ます。
何か愉快な夢でも見ていたのだろうか。寝相は悪くない方だと信じているので、そういうことにしておこう。やけにスッキリしているのは、数日振りに自分のベッドで寝られて快眠だったからだろう。
上体を起こして軽く伸びをしてから、電脳で時刻を確認する。七時半過ぎ……この時間だと親父はもう家を出ているか。思い出したように欠伸をしつつ、部屋を出てリビングに顔を出すことにした。
「おはよーっす」
「あら早い。先に顔を洗ってらっしゃい」
母さんにそう言われたので、トイレを済ませつつ顔も洗う。今日も男前だ。
またリビングに戻ると納豆ご飯が用意されていたので、いただきますと告げて食べる。
母さんは電脳の表示フレームを投影し、近所の特売情報をチェック中。本人の弁によると節約目的ではなく、先着何名様と限定されているものを、開店と同時にダッシュで確保するのが熱いらしい。
まあ分からなくもない。くだらないことでも、競争となれば面白くなるだろう。
で、さっさと食べ終わって食器を片付けると、入れ替わりのようにリビングへ新しい人影。おずおずと入ってくるのは、借りてきた猫のようになっている朝陽だった。
「お、おはようございます」
「はい、おはよう朝陽ちゃん。よく眠れた?」
「はい。あ、お布団、ありがとうございました」
目上の人が相手だと緊張するタイプなのかねぇ。
母さんは視線を上――二階に向けて、
「奈苗はまだ寝てる、と。まったく、あの子は起こさないと起きないんだから。
先に朝陽ちゃんのご飯にしましょうか。ご飯とパン、どっちがいい?」
「あ、えーっと」
「遠慮しなくていいぞ。どっちもあるから」
食器を洗いつつ台所から声をかける。我が家の朝食は俺と親父がご飯派、母さんがパン派、奈苗がその日の気分派であるため、どちらでも対応可能なのだ。
朝陽は今更俺に気付いたのか、軽く頭を下げて笑った。
「おはよ、先輩。じゃあパンで」
「あいよ。ジャムとハムがあるけど」
「んー……ハムでお願い!」
頷き、食パンをトースターにセットして、冷蔵庫からハムを出しておく。
あとは母さんに任せてしまってもいいのだが、朝陽も母さんと二人っきりは緊張するだろうと思い、お茶を淹れてテーブルに戻る。
そのタイミングで母さんはしみじみと、
「あんたはズボラなのに、料理だけはするねぇ」
「だって楽しいじゃん」
手間のかかる料理は嫌だが、手軽で美味しい料理を作るのは楽しい。基本のレシピを覚えたらアレンジして工夫するのも楽しいし、母さんが作らないようなものでも挑戦できるのはいいことだ。
トーストを待つ朝陽はそんな母さんに、
「先輩の料理って、おばさんが教えたんですか?」
「最初の内はね。でもこの子、すぐにネットでレシピ探して、あれこれ勝手に作るようになったかな。
手がかからなくていいんだけど、奈苗の方は全然、料理に興味持たなくて。朝陽ちゃんは?」
「あ、あはは……あたしも食べるのが専門っていうか」
「そりゃいけない。お母さんの味は宝物なんだから、作り方ぐらい聞いておきなさい。
何も分からないと一人暮らしした時に、急に食べたくなって困るんだから」
やけに実感がこもっているのは、母さん自身にそういう体験があるからなのだろう。
たぶん母さん、一人暮らしするまでろくに包丁も触ったことがないんだよな。今じゃ料理が下手ってことはないけど、道具の扱いに後から覚えたぎこちなさのようなものがあるし。
「うん、でも母親としては、朝陽ちゃんみたいな娘も欲しかったね。
うちの奈苗はいっつも男の子みたいな服装して、全然お洒落に興味持たないんだから」
「あー。ナナちゃん、そういう女の子っぽいことに興味ないですもんね。
旅行中も虫取りしたいとか言ってました」
「……悪化してるぅ」
頭を抱える母さん。虫取りの何がいけないのか。
不思議に思って眺めていたら、母さんはじろりと俺を見た。
「幹弘。あんたも一緒になって虫取りしたんじゃないでしょうね」
「まさか。カブトもクワガタも期待できない時間帯だぜ?」
何を当たり前のことをと主張する俺。向けられた視線、険しくなる。
風向きの怪しさに内心で焦りつつ、
「結局、そん時は奈苗と茜……会ったことあるっけ? とにかく、その三人で磯遊びしたよ」
「そう。あんたが悪影響の塊だとはハッキリしたね」
解せぬ。だが母さんは抗弁を認めず、朝陽に向き直った。
「お願いね、朝陽ちゃん。奈苗をもうちょっと、本当に少しでいいから、女の子らしくしてあげて」
「いや、でも、ナナちゃんの気持ちもあるっていうか」
「そうだぞ。それにほら、女の子らしさって強要するもんじゃないだろ」
「そうだね。でも幹弘、それを投げ捨てていいのはもっと大人になってからです」
母さんは神妙な顔をして、
「結局、女の子らしい方がモテるんだよ」
「生々しい話すんなよ……!」
母さんはこういうところ、身も蓋もないからなぁ。
一方、朝陽は光の消えた目で、納得したような笑みを浮かべていた。こういう親がいたら、そりゃこうなるよなぁ、みたいな。失礼な納得の感情が見える。
まあ否定はしないけど。
それからも三人で雑談を続けていたが、今日は百合達に付き合うことになっているわけだし、頃合いを見て奈苗を叩き起こす。
もしも遅刻した場合、誰が貧乏クジを引くかって言ったら、どうせ俺なのだから。
○
「――さて、どこへ行きましょうか!」
駅前のロータリーに全員集合したところで、弾んだ声で百合が言う。わりと元気そうで、昨日の疲れはちゃんと抜けたようだ。
「どこでもいいから、涼しい場所がいいわね……」
対照的にもう体力がレッドゾーンくさいのはりっちゃん。暑さにやられているだけでなく、どうも寝不足っぽい。枕が変わると寝られないほど繊細な生き物でないことは、旅行中に証明済みである。となれば、普通に夜更ししただけなのだろう。
のーみんは最初からにこにこしている。りっちゃんが夜更ししたのであれば、おそらくこいつも付き合って夜更ししたと思うのだが、疲れた様子は微塵もない。うん、奈苗の同類だな。
さて。とりあえず大人組は完全にノープラン。
そうなると地元民である学生組がエスコートすべきなんだろうけど、
「この人数で遊べる場所……」
困ったように茜が呟く。そう、ただの地方都市であり、別に観光名所なんざないここには、遊べる場所という選択肢がそもそも非常に限られるのだ……!
ぶっちゃけこの人数だと、カラオケぐらいしかない。ちょっと足を伸ばせば動物園なんかもあるにはあるが、ちゃんと見て回ったら日が暮れてしまうので、今回は駄目だ。大人組は昼過ぎにはこっちを出たいって話だったし。
どうしたものかと俺も考えていたら、奈苗が自信満々にシュバっと挙手をした。
「フットサルコート行こう!」
ああ、あったなそんなの。皆が嫌そうな顔をしたのは言うまでもない。
フットサル自体は俺も嫌いではないし、体力的には茜とのーみんも大丈夫だろう。しかし朝陽、百合、りっちゃんが死ぬ。比喩抜きに死ぬ。あの三人は筋金入りのインドア派だ。
奈苗は不満そうに唇を尖らせて、
「むぅー。じゃあどこがいいのさ」
「見学だけならいいんですけどねー」
フォローしつつ、自分は巻き込まれないように保身を図る百合。
ここはインドア派としての意見を聞こうと、俺は朝陽を見る。釣られて集まる視線にたじろいだ朝陽は、数秒ほど考え込んでからこう答えた。
「か、カラオケ」
「普通ね」
バッサリと切り捨てるりっちゃん。
だがそこで、苦笑気味にのーみんがフォローへと回った。
「まあまあ、みっちゃんや。普通であることの何がいかんのかね。誰も彼もが尖っていたら、世の中は大変なことになっちまうのです。
大事よ? 社会の歯車って」
「庇う気ないでしょのーみん!?」
「にっひっひ。あたいは正直者だからにゃー」
…………。
ふと思ったので、俺は口を開いた。
「なあのーみん。カラオケ、嫌なのか?」
「んっ!? べ、別にそんなことはないのだぜ?」
おっと目が泳いでいらっしゃる。
さては音痴か。それともレパートリーが全然ないのか。いや、のーみんが乗り気だったら、朝陽をからかうにしてもカラオケには行こうって流れにするだろうし。
理由はともかく、わりと本気で嫌がっていそうなので、カラオケは避けよう。
「でも、カラオケも駄目だと、他に何があるかな」
「クーちゃん? あたい、カラオケ大丈夫よ? 平気よ?」
「大丈夫。心配しないで」
うん。俺にバレてるんだから、茜が見落とすわけがねぇよな。
弱点を庇われたことで、恥ずかしそうに笑うのーみん。こいつはストレートな善意に弱いのだ。
茜はこのままでは話がまとまりそうにないと見たか、こんな提案をする。
「人数も多いし、二手に分かれようか。屋内がいい人はカラオケで」
「はーい。でしたら、私はカラオケ行きますねー」
率先して意思を表明する百合。朝陽とりっちゃんも、それに続いてカラオケ側へ。
うん。りっちゃんはあくまでも普通だと切り捨てただけで、たぶん屋内っつーか冷房がある場所ならどこでもいいんだろう。
さらに奈苗も、カラオケ側へと参加を表明する。
「今日は兄ちゃんより姉ちゃんの気分」
「俺らは気分で選ばれる対象なのか……」
「ふふん。好感度レースは私が一歩先んじましたねー」
奈苗の好感度を競うことに何の意義も見出だせない。
まあ百合はご機嫌なので、はいはいよかったね、と雑に対応しておく。
その対応がご不満なのか、ぺしぺしと叩いてくるが無視して話を続ける。
「んで、残った三人は屋外組ってわけか。どっか行きたいトコある?」
茜とのーみんに問いかけてみるものの、
「あたいはお任せスタイル。強いて言うならスリルが欲しいぜ」
「スリル……ねえ幹弘さん。たしかボルダリングジムが」
「そういうスリルはちょっと違うんだけどにゃー!」
注文が細かい。茜は苦笑して、
「じゃあ撃剣興行。見てるだけでも楽しいよ」
「あー。小銭を賭けてりゃ、それなりにスリルもあるか」
「にゃるほど。ちょっとなら参加してみるのもありかしらん。
VRで鍛えたあたいの必殺剣が、どこまで通用するか試すのも一興よ」
小細工の余地はあるけど、基本的には純粋な剣の勝負なんだけどなぁ……。
そういう観点で見た場合、のーみんの腕はわりと平凡なのだが、女慣れしていない奴が相手なら、性別自体が威圧として作用する可能性はある。
ともあれ、撃剣興行を見に行くということで決まり、俺は家までウレタン刀を取りに行く。
「っと、茜はのーみんを案内しといてくれ。すぐに合流する」
「分かった。前に行ってた場所でいいんだよね?」
む。そうか、茜は高架下ホームしか知らないか。
時間帯的にあんまり人はいないかもしれないが、それならそれでのーみんものんびり遊べるだろう。
俺はあそこで大丈夫だと改めて告げ、家に戻る。
しかしなぁ、と。一人になったところで、首を捻る。
高架下ホームはこの時間、人が少ないと分かっているのに、そのことに違和感がある。
俺はまた何かを忘れてしまっているのだろうか?