第十八話 平和な夜
暑さで昼間と勘違いしたのか、どこかで蝉が鳴いていた。
庭先に吹く潮風は慰めにもならない生温さで、今夜も冷房がなければとてもやってられないような熱帯夜なのだろう。つーか寝る前にわざわざ外に出たくはない。
それでも俺がここにいるのは、話があると呼び出されたからだ。
俺を呼び出した相手であるカルガモは、腰から蚊取り線香ホルダーをぶら下げている。レトロ趣味と言うよりは、超音波で追い払うような虫除けは信用していないのだろう。
そしてもう一人。俺と同じく呼び出された百合は、やや眠そうにしていた。昨日ほどではないが今夜も酒が入っていたし、時間的にも眠いのは当然だ。
百合は眠気のせいか、いつもより少し間延びした声で言う。
「それでー、お話って何ですかー?」
「まあ、俺の杞憂であればいいんじゃが」
そう前置きしたカルガモは、珍しく真面目な顔をして言った。
「シャーロットが言っておったじゃろう。ガウスの魔術は個人の枠に収まらん気がする、と。それについて、少し思いついた可能性があるんじゃよ」
「ん? そんなら古橋さんも一緒に聞いた方がいいんじゃねぇのか」
「気乗りはせんな。シャーロットは堅物ではないが、ちと根が真面目過ぎる。これからする話は、あやつには聞かせん方がいいじゃろう」
あー、確かに真面目な人だよな。こっちの事情や心情も汲み取ってくれる人ではあるが、物事の線引きはきっちりしている。場合によっては、衝突するかもしれないと思う程度には。
つまりカルガモの思いついた可能性ってのは、そうなる恐れがあるってことか。
それなりの深刻さを持った話だと理解したらしく、百合も頬を軽く叩いて気を引き締めている。その様子に頷いたカルガモは、ようやく本題を切り出した。
「まず単純な理屈として、俺はこう考えたんじゃよ。ガウスの魔術が個人の枠に収まらんのなら、誰かの力が上乗せされておるのではないか、と。
そう考えた時に思い出したのがあれじゃよ。顔剥ぎセーラー事件」
「――――――――」
はて。俺はとっくに片付いた事件だと思って、まったく気にしていなかったのだが。
百合が息を呑んだのは、何か心当たりがあるからなのだろうか。
「俺は直接見ておらんが、話を聞く限りではあの時、おぬしは顔を剥がされたんじゃろう?」
「あ、ああ、そうらしいな。そのあたりは俺も全然、覚えちゃいないんだけど」
「その後、おぬしはザルワーンに似た狼男になって、顔剥ぎセーラーを倒した。記憶こそ曖昧になったようじゃが、元に戻った時には傷もない。……そういう話じゃったよな?」
「おう」
それで合ってるよな、と百合にも確認するが、頷きは弱い。
様子のおかしさに何か声をかけるべきだろうかと思うが、その前にカルガモが言う。
「さて。そこで疑問なんじゃが――電脳まで元通りなのはどういうことじゃ?」
「……それって変なのか?」
「変じゃろ。傷が治るのはまだいい。おぬしの変化がどういうものかは分からんが、ゲオルギウス・オンラインのシステムが根底にあるのなら、HPが回復した結果と解釈できなくもない。
しかしおぬしの顔は、骨ごと剥がされたように見えたらしいからの。電脳は前頭葉――額のやや上に埋め込まれるものじゃから、破壊されたか、一緒に剥がされた筈じゃ。
HPの回復でそれまで復元されるというのは、現象として奇妙ではないかの?」
「いや、けどよ。だったら俺が使ってる電脳は何だって話にならねぇか」
壊れるか失われるかしてなきゃおかしいって言われても、俺はあれから今まで、別に不都合なく電脳を使えている。
その事実は曲げられないし、どんなに不自然でも、奇跡的に無事だったと考えるしかない。
だが俺の反論は想定済みだったらしく、カルガモはあっさりと答える。
「電脳があると思い込んでおるだけ、という可能性がある。失った電脳を、魔術で再現しておるという形じゃな。……と言っても、電脳ほど複雑なものを再現できるかは疑わしい。
そこで重要になってくるのが、姐御なんじゃが――」
「――ええ。たぶん、それで合ってます」
観念したように呟いて、百合は弱々しく微笑んだ。
「酷いですよカモさん。こんなの、ずっと内緒にしたかったのに」
「たわけ。おぬし一人で背負うものではなかろう」
カルガモが少し怒っているように見えたのは、百合が隠し事をしていたから、ではないだろう。
一人で背負うものではないという言葉は、他の誰かも背負わなきゃいけないと思うから出る言葉だ。
どんな考えがあったのだとしても、一人で重荷を背負うのは違うだろう、と。
おそらくは百合の、間違った優しさに怒っているのだ。
「……ここからは、私から話した方がよさそうですね」
そう言って、百合は今にも泣き出しそうな笑みを俺に向けた。
「幹弘君、覚えてますか? 顔剥ぎセーラーと戦うために、私と視界共有していたこと」
「あー……そういう作戦だったのは、覚えてる」
「実はあれからずっと、繋がったままなんですよ。視界共有はもう機能していないんですけど、私と幹弘君の電脳は、一つのネットワークになっちゃってるんだと思います。
ちゃんと調べたら分かるかもしれませんけど、たぶん幹弘君の電脳は、壊れた部分を魔術と私の電脳で補っているんじゃないですかねー」
いつものような声音で。
けれど、その声は懺悔にも似ていて。
「そうなった原因、きっと私なんです。……あの時は幹弘君が死んだら逃げるって、口ではそう言ってましたけど。本当は――もしものことがあれば、一緒に死んであげようって、そう思ってましたから。
勝手な押し付けですよ。それで責任を取った気になってる、押し付けなんです。
なのに……きっとそのせいで、私と幹弘君は命まで共有することになったんでしょう。あの時、幹弘君は一度死んで、でも私が生きていたから、死んだままでも魔術を使えたんだと思います」
……実際のところ、それがどんな作用をするかは、その時になるまで分からないだろう。
しかしあの時、俺の記憶には残っていないけれど、百合のおかげで命が繋がった。
だから、
「どうして黙ってたんだよ? それが本当なら、俺は感謝しなきゃいけない」
「だって、こんなの呪いじゃないですか」
涙を滲ませて、百合は笑った。
「一度限りの奇跡だったら、私だって自慢しましたよ。恩着せますよ。
でも、そうじゃない。ずっと続いてるんです。
ねえ、幹弘君――命を共有していると知って、死ぬ覚悟はできますか?」
「……できねぇな」
どうなるかは、その時にならないと分からなくても。
俺が死ねば百合も死ぬ。そうなるかもしれないなら、二度と無茶はできない。
「でしょう? だからこれは呪いで、できればずっと黙っていたかったんです。
私は幹弘君から、覚悟も自由も奪いたくはなかったんです」
「けど、助けてもらったことは変わらない。
呪いだって言われても、ありがとうって答えるさ」
そう告げてから、俺は冗談めかして言葉を続けた。
「元はと言えば死んだ俺が悪いんだ。そうだろ、カルガモ?」
「そうじゃな。腹を切って詫びろ」
「それすっと百合も死ぬんだけど!?」
「尊い犠牲じゃったな……」
「俺への殺意が高過ぎる……!」
「あ、あのー」
言い争う俺達に、おずおずと声をかける百合。
彼女の右手は頼りなく宙をさまよって、
「すっごく深刻な話のつもりだったんですけどー……?」
「でも、もう終わった話じゃろ?」
「だよな。百合が打ち明けて、俺が感謝して、それで終わり」
そりゃまあ、背負うものが増えたのは事実だけど。
言ってしまえばそれだけのこと。
俺達の関係性が変わるような、そんな話ではないのだ。
「あー、そっか。俺の魔術が云々ってのも、百合と繋がってるから二人分のパワーになってるわけか?」
「おう、それそれ。俺が言いたかったのはそういうことでな。
ちなみに命を共有しておるとまでは思っとらんかったので、ちとびっくり」
うん、流石にそこまでは想像できねぇよな。
驚いたよなー、なんて笑い合っていたら、百合が俺のケツを全力で引っ叩いた。
「痛ってぇな!?」
「わ、私がどれだけ悩んでたと思うんですかー!? それなのにさらっと流して、笑って……もう! もう!」
追撃が加速する。俺のケツは決して打楽器ではない。
荒ぶる百合をまあまあと宥めて、
「今更だけど、ありがとうな。百合のおかげで、俺はここにいられる」
「……ホントにもう。いいですか幹弘君、無茶したら怒りますからね」
「今までも怒られてたと思うけど」
「これからもです。あと、遠慮しても怒ります」
「どうしろってんだ」
「どうにかしてください」
そして最後にもう一発、俺のケツにまさかの蹴り。甘んじて受けるが爪先で蹴るのはやめろ。
百合は悶絶する俺に「ふんっ」と鼻を鳴らして、
「じゃあ寝ます! おやすみなさい!」
怒ったまま、有無を言わせずに去ってしまった。
ただまあ。ちらっと見えた横顔は、決して不機嫌なものではなかったので。
これでよかったのだろうと、俺も勝手に納得しておくことにした。
「さてと。そんじゃ俺らも寝るかー」
「そうじゃな。……おっと、一つ言い忘れておった」
「百合にも聞かせたい系? 俺、呼びに行ったらまた蹴られそうで嫌だぞ」
「いや、おぬしだけで構わんよ」
だろうね。言い忘れてたってのが、実にわざとらしい。
カルガモは明後日の天気の話をするような、どうでもよさそうな調子で言う。
「全てが解決した時、それが魔術を手放すことでもあったのなら、そこがおぬしの寿命になるやもしれん」
「かもな。だけどそれ、俺が手を引く理由にゃならねぇだろ」
そもそもの始まりは、俺が顔剥ぎセーラー事件に首を突っ込んだことだ。
自分の意思で始めた以上、命惜しさに逃げるなんてのは筋が通らない。
俺の知らないところで、俺なんかのために命を張ってくれていた人だっているんだから。
「分かり切った話なんざしてないで、さっさと寝ようぜ」
「うむ。明日は帰る日じゃし、夜更しはいかんな」
こうして夜空の下での話は終わる。
どうということもない、平和な夜だった。
○
「にゃわ――――!?」
翌朝。俺が台所で納豆をねりねりしていると、朝陽のけたたましい絶叫が響いた。
何だ何だと声のした居間に顔を出すと、他の皆も集まっている。訂正、カルガモだけいない。あいつはまだ寝てやがる。
ともあれ何があったのかと、りっちゃんが朝陽に声をかけていた。
「うるさいわよ雛鳥。何を騒いでいるの?」
「こ、こ、こ、これぇ……!」
朝陽は手元に投影していた表示フレームを飛ばし、皆にも見えるように拡大する。
何かと思ったら、ゲオル関連のまとめサイトか。まず目に入ったのは、イグサ王国発見の速報。イエローブラッドが戦略として情報を流したか、それとも構成員が情報を洩らしたか。どっちにしろ、その情報が広まること自体は想定内だ。
これだけなら驚くようなことでは――とか思ってたら、別の記事が目に留まる。イエローブラッド、レベルキャップ開放に成功。へぇ、頑張ったなぁ。
………………。
「ちょっとログインしてナップ殺してくる」
「がっちゃん、ストップ!」
即行動しようとしたところに、待ったの声。
どうしてだよ、のーみん。どうして止める。抜け駆けされたような形ではあるが、ぶっちゃけそのあたりは交渉していなかったので、別にあいつら悪くないっていう客観的な事実に気付いたのか。
でもそれはそれとして、ナップは殺したい。殺すべきだ。そうだろう?
俺は真摯に殺意を全身から噴射してアピールするが、のーみんは動じることなく言った。
「思い出してごらん。あんにゃろうどもは、どっかのクランとの戦争間近なんだぜ」
「ほう、それで?」
「――殺るならその時である」
「オーケー、献策に感謝する」
三人寄れば文殊の知恵とはよく言ったものだ。俺一人ではただ殺して終わりだったが、のーみんのおかげで最高のタイミングで台無しにすることができる。
借金問題という懸念もあるが、そこはほら、俺とナップの個人的な争いという形にしておけば、追求の手も躱せるだろう。
不敵な笑みを交わし、俺達は機が熟すのを待つ。――などとやっていたら、二人してりっちゃんに睨まれてしまった。
「あんた達、短絡的な思考はやめなさい。レベルも人数もあっちが上がなんだから、先行されるのは当然よ。今はむしろ利用して、追いつくことを考えた方が建設的だわ」
「ほっほう。流石はみっちゃん、悪女だねぃ」
「惚れ惚れするほどのインテリヤクザだな」
「あら、気のせいかしら? いきなりケンカを売られた気がするのだけど?」
朗らかに笑い合う俺達。血を見るまでは止まれねぇ生き物なのだ。
誰でもいいから敗者を出そうと牽制し合っていると、呆れ顔の茜が食器を運びながら言う。
「それよりも、また何か影響がなかったか、心配するのが先」
ぐうの音も出ない正論であった。
ま、まあね? 確かにそれも心配だけど、腹が減っては何とやら。まずは朝食を済ませようじゃないの。ね? 三人揃って敗北者になりそうだったので、俺達は愛想笑いで誤魔化しながら、朝食の支度を手伝うことにした。
そんなこんなで朝食を済ませた後、食後のお茶を飲みながら、世界に何か変化はなかったか軽くネットで調べておく。
微妙なところではあるが、たぶん変化はないんじゃないか、というのが推測。攻略の進行に合わせて変化が起きるのなら、レベルキャップの開放自体は元から知られていたシステムだ。これまでは条件が分からなかっただけで、達成することは前から可能だった筈。
で、条件が分かったから、これまで強さ的に手出しされていなかったボスに、イエローブラッドは総力戦を挑んで強引に突破したのだろう。そういうゴリ押しができるのは大手クランの強みだ。
……まあ、これまでにもゴリ押ししようとして、返り討ちにされた大手クランは山ほどいるんだけど。イエローブラッドが成功したのは、幹部陣――ダフニさん、ニャドスさん、デル2さんの三人だけは、ゲオルの魔術絡みの部分を理解しているのが、大きな要因だろう。
スキルエンハンスの扱いのコツを知っているようなものだから、上手く利用すれば構成員の戦力の底上げもできる。失敗してきた他のクランと違って、あそこはレベル以上の戦力を抱えているわけだ。
ナップは機を見て殺しておくべきだが、クランとしては今後も仲良くしておきたい。PT単位ではどう足掻いても勝てないようなボスがいた時、頼れるのは数の暴力だ。
と、本筋から脱線したことを考えていたら、朝陽が腰を上げた。
「ちょっとコンビニ行ってくるね」
じゃあ俺も私も、と同行するのではなく、飛び交うアイスやジュースの注文。
そりゃそうだ。誰だってこの炎天下に出歩きたくはない。
「多い多い! 買ってきてあげるから、電脳にメッセ送りな!」
そう言い残して、別荘から出ていく朝陽。
何を注文しようかなー、と皆で軽く雑談をする。外で食べるなら氷菓系がたまらなく美味いんだが、冷房の効いた室内だとコクも欲しい。ここは定番のバニラアイスあたりがベストチョイスか。
そんなこんなで注文のメッセを送り、アイスを待ち侘びながらだらだらとする。
一応、待っている間に情報交換というか、何か発見はなかったか確認しておくものの、やはり目立った変化は見られないとのことだった。
「鍵になってるのは、ストーリーに絡むクエストなんでしょうねー」
寝転ぶ俺の腹を枕にしている百合が言う。
「ちょっと迂遠ですけど、順番にクエストを達成していくことが、儀式みたいになってるんでしょうかね」
「ありえそうね。ある程度はコントロールしたいでしょうし、それなら自然だわ」
同意するりっちゃん。その後ろでは話に飽きたのか、奈苗とのーみんがりっちゃんの髪を編み込んでいる。どうでもいいのか、それとも抵抗しても無駄と悟っているのか、りっちゃんはされるがままだ。
俺は膝枕してくれている茜を見上げて、
「そういや茜もわりと髪長いけど、編んだりはしないよな」
「私、髪が細いから。すぐほどけるの」
ああ、だからゴムで束ねたりするぐらいなのか。
納得しつつ、俺は無造作に百合の髪へと触れた。
「じゃあこっちで団子を量産するか」
「させませんよ!?」
ガバっと跳ね起きて、ささやかな本気を察した百合は距離を取った。
「っていうか幹弘君、何でお団子作れるんですか」
「そりゃ、まあ」
視線をちらっと奈苗に向けると、
「兄ちゃん手先器用だから、たまに頼んでたよ」
「なるほど……麗しい兄妹愛ですが、そこで培った技術を悪用しないように」
「仕方ねぇな。じゃあ茜にとっておきのアレンジを」
「わ、私はいいよ。あ、そうだ。幹弘さんにやってあげる」
むぅ。ちょっとやる気になっていただけに、断られると寂しいものがある。
茜は俺の前髪を弄り出したが、おう待て、普通そこから編むか? 何やら笑いを堪えているあたり、珍妙なヘアアレンジが着々と完成しているのだろう。
ふっ、いいぜ。こうなったら俺はひたすら真顔で耐えて、笑いを取りにいってやる……!
そうして静かに決戦の火蓋が切って落とされた時、ふとカルガモが口を開いた。
「それにしてもツバメ、遅くないかのぅ?」
言われてみれば、別荘を出てから小半時。流石に遅いか。
「寄り道でもして、アイスを溶かされても困るしの。ちと通話をかけるか」
そう言った数秒後には通話が繋がったのだろう、カルガモは文句を言おうとしたが、すぐにその表情が困惑したものへと変化した。
「……どこにいるか分からん、じゃと?」
旅行の最終日。
予想外の事件は、こうして幕を開けた。