第十三話 サボテン
浜辺でウダウダやっていると、妙なエンジン音らしきものの接近に気がついた。
普通の自動車やバイク――静かな電動式なので、安全のためにあえて音を鳴らしているものとは違う、高く唸るような音だ。
何だろうと目を向ければ、海沿いの道から浜辺へと進入するバイクが見えた。バイクと言ってもタイヤは前後に二本ずつで、今はそれが左右に開き、車輪をプロペラとして高速回転することで宙に浮いていた。
変形型のホバーバイクか。あまり高くは飛べないが、速度なら車にも負けはしない。
ホバーバイクには日焼けした青年が跨り、砂浜を突っ切って海に出る。ジェットスキーのように海を走るのが目的なのだろう。
何となくその姿を目で追っていると、隣に寝転がる朝陽が不快そうに眉を顰めていた。
「マナー悪いなー。最初から浮いてたじゃん」
ああ、そういや公道じゃ浮いたら駄目なんだったか。
普通の車やバイクと比較すると止まり難い上に、ホバーバイクとはまた別種だが、高く飛べるものは事故った時にどうするんだってことで、素直に地上を走れってのが今の法律だ。
なんでまあ、空飛ぶ車やバイクはレジャー用が一般的で、国内だと主に海を走ることになる。海外なら開けた平原もあるので、そういった場所で楽しむこともできるらしいが。
でも飛ぶのって楽しそうでいいよなー。俺も一度ぐらいは体験してみたい。
やっぱり男の子は誰しも、風になりたい願望があると思うんだ。
将来を見越してバイクの免許ぐらいは取っておきたいよなー、なんて思っていると、ホバーバイクの青年がスピードを落として旋回。おや、と思っている間に、海で遊んでいる皆――茜達の近くで停止した。
……声をかけているようだが、これはあれか。ナンパか。
まあ、のーみんだったらナンパされるのも珍しくは……いや待て、りっちゃんに声かけてねぇか? のーみんも茜も、ナンパされるのは分かる。奈苗はまあ、どうだろう。客観的な評価は難しいが、黙ってりゃ顔もスタイルも悪くはないし、可能性はあるだろう。
だけどりっちゃんだぜ? あの中でも圧倒的な貧弱ボディーを誇り、目付きだって悪いのに。
「ほほう。これはこれは、面白くなってきましたね」
野次馬根性丸出しで、見守る態勢に入る百合。
この人にはナンパされてる友人が心配とか、そういう人間性はない。
「この状況、解説の牧野さんはどう見ますか?
将を射んと欲すればまず馬を射よ、という言葉もありますが」
「確かにその可能性もありますが、たぶん違いますねー。見てくださいあれ、緑葉さんのことしか眼中になさそうですよ。物好きですね。
普段はセメント気味な緑葉さんですけど、不慣れだからか狼狽えてるっぽいのも笑いどころですね。圧倒的な経験値不足で、押せばイケるとか思われてますよあれ」
「意外と可愛いところがあるということですね。
おっと、動きがあったようです。のーみん選手がナンパ男に話しかけていますが……これは?」
「あの子はあの子で、モテるという自負がありますからねー。
別にナンパ男が気に入ったとかではなく、無視されてるのが気に食わないんでしょう。変なプライドでどうでもいい男にも声をかけるから、逆に彼氏できないいつものパターンに入りましたよ」
そうやって好き勝手に言っていると、朝陽が俺達にジト目を向けて言う。
「基本的に仲間見捨てるタイプだよね、二人とも」
「馬鹿言え、助けてって言われたら助けるぞ俺は。何も言われない内から助けるなんて余計なお世話だし、それまでは眺めて楽しまねぇと勿体ないだろ」
「私は幹弘君ほど心がないわけではないんですけどねー。
ナンパから始まる恋もあるかもしれませんし、まずは見守らないと。あと私、ナンパされたことないんで、これが旅の思い出に暗い影を落とせばいいなって思います」
うわぁ、と呻いた朝陽は、先輩や年長者に向けてはいけない目を向ける。もしもここが儒教の国であったならば、眼球を潰されたって文句は言えない視線だ。
しかし文句は言いつつも、朝陽も自分では助けに行こうとしない。やっぱりこっち側の住人だよお前、と俺は親愛の笑みを浮かべる。
それを何か、気持ち悪いものを見たような顔をした朝陽は、海に視線を戻して言う。
「まあ心配ないかなー。あんまりしつこかったら、カモっちが助けるでしょ」
「「…………」」
「ねえ、何で黙ったの? カモっちそこまで外道だった? ねえ?」
いや、あいつに人の心がないのは今更だけど、助けを求められたら助けはするだろう。
そのあたりの行動原理は俺に近いので確信を持って言えるのだが、しかしカルガモである。ちょっと助けを求めた程度なら面白がって放置すると思うので、切羽詰まるまでは頼れないのだ。
「――あ、緑葉さんこっち見てますね」
というわけで、助けを求める時は近くのカルガモではなく、遠くの俺となる。
チラチラと視線を送ってくるが、りっちゃんもう限界っぽいなぁ。
仕方がない。立ち上がった俺は、見守りモードの奈苗に電脳で呼びかけた。
「奈苗」
『ん?』
そして奈苗がこっちを見たところで、首を掻っ切るジェスチャー。
「やれ」
そのゴーサインは、何かあれば俺が責任を持つという意思表示でもある。
こちらの意を汲んだ奈苗は、ホバーバイクの車体に手をかけると、弾くように突き飛ばした。
ホバーバイクの弱点は浮いているということであり、走行中でなければ軽く押すだけで容易に動かせる。奈苗が突き飛ばしたホバーバイクは、転覆こそしなかったものの、コマのように回転させられていた。
おおー、と声を上げる百合と朝陽。
――今がチャンスと思ったのか、浜に向かって全力で泳ぐりっちゃん。
他の皆もその後を追って浜に上がったところで、体勢を立て直したナンパ男もホバーバイクで浜に乗り付ける。日焼けのせいで分かり難いが、その顔は怒りで紅潮していた。
ケンカになったらまずいな、と俺は割って入ることにした。
「まあまあまあまあ、落ち着いて落ち着いて」
「ンだテメェ!? おぉう!?」
「まあまあまあ」
にこやかに近付いて、ナンパ男の肩に手を置き、顔を耳元へと寄せる。
「――誰狙い? 応援するよ?」
「おっ……おお? え、えー……そりゃオメー……なぁ?」
急にもじもじしながら、りっちゃんにちらちらと視線を送る。きもい。
だが丸く収めるためだ。実力行使に出るのはまだ早い。
「マジで? どこがいいの?」
「声かけたら罵られてさぁ……」
恍惚とした表情のナンパ男。もとい、ただの変態。
そっかぁ。そういうご趣味かぁ。
俺は頷きを一つ。彼から距離を取って、りっちゃんに笑いかけた。
「――じゃ、頑張ってな」
「ま、待ちなさい駄犬! 見捨てる気!?」
「野良犬拾ったと思えばいいじゃん」
「犬はあんただけで足りてるのよ!」
などと言い合っていると、変態がキリっとした顔でりっちゃんに言う。
「俺も犬って呼ばれたいです」
「嫌よ! 常識的に考えて、初対面でそんな要求通ると思うわけ!?」
常識、あるんだ。
「そういうプレイがしたいなら、ネットで相手を探しなさい! ネットで!」
その突き放すような言葉に、変態は捨てられた子犬のような目を俺に向けた。
無視してもいいのだが、ここは夢を見せてやった方が後腐れはないか。
「俺らもネットの付き合いだよ」
「ネットかぁ……夢いっぱいだなぁ……!」
何か勘違いしている気がするが、どうか俺の知らないところで夢を追いかけて欲しい。
……いや、というかアブノーマルなご趣味は、そういうところでしか理想の相手と出会えないと思うんですよ。お天道様の下で探さないでいただきたい。
ナンパ男は何かしらの納得を得て、爽やかな笑顔で別れようとする。
唸るホバーバイク。走り出すその寸前で彼は、
「――お、そうだ。あんま沖の方には行くんじゃねぇぞ。
昨夜、船幽霊が出たなんて話があったからよ」
その忠告に問い返す暇もなく、じゃあなー、と走り去るホバーバイク。
残された俺達は、狐につままれたような顔をした。
「……まさか昨日のイソギンチャクじゃねぇよな?」
「むー。あんなのは流石に、ゲームの中だけと思いたい」
触手に絡みつかれただけあって、嫌そうに述べるのーみん。
まあ確かに、あんなに巨大なイソギンチャクがリアルで存在できるとは思えない。
「それに……イソギンチャクなら、船幽霊とは呼ばれないと思う」
茜の言うことも一理ある。大昔ならともかく、今の技術なら正体がイソギンチャクならそうだと分かるだろうし、それなら船幽霊ではなく別の名で呼ばれるだろう。
となれば、船幽霊は文字通りの存在だってことになるが……。
「そういや古橋さんも、幽霊は実在するとか言ってたもんなぁ」
「あまり気にするものじゃないのかもしれないけど、気をつけた方がいいわね。
私達の多くは、その常識を持ち合わせていないのだから」
「だな。なるべく早く解決したいけど、まだ原因も分かってねぇし。
何かあった時のために、今の常識は調べておいた方がよさそうだ」
奈苗とのーみんには、結果としてその知識があるが、それが万全だとも確認できていない。
急ぐほどでもなさそうだが、調べておく必要はあるだろう。
俺達がそんな結論を出したところで、のーみんが口を開いた。
「ところでカモさんや。なんか大人しいけど、どうしたんだい」
「む? ああいや、幽霊なんぞがおったとして、斬れるかどうか考えておってな」
根っからだよこいつ。根っから。真性の辻斬りってこういうタイプ。
皆が呆れの視線を向けると、カルガモは取り繕うように笑って話を変えた。
「しかし驚いたのぅ。まさか緑葉がナンパされるとは」
「……不服だけれど、ええ。私も驚いたわね」
「よかったのか? あんな物好き、二度と現れんかもしれんぞ」
「余計なお世話よ!」
吐き捨てて、りっちゃんは何故か俺を見た。
思わず身構える俺。条件反射っつーか、背筋がゾクっとしたっつーか。
その睨むような眼光は、しかし俺自身を射抜くものではなかった。
「駄犬、あんたはこの怪鳥みたいになるんじゃないわよ。
真っ当な青春を楽しまなかった大人は、こういう捻くれた馬鹿になるから」
「む?」
俺を持ち出しての罵詈雑言に、カルガモは首を傾げて言った。
「結局のところ、それは全部おぬしにも言えるのでは?」
「………………」
りっちゃんは拳を握り締めて、ぷるぷると震えた。
カルガモの容赦ない言葉に、りっちゃんはどう出るのか。俺達は固唾を呑んで見守る。
やがてりっちゃんは絞り出すような声で、
「……何がぁ?」
「やめろみっちゃん! 勝負ついてるから!」
強がるりっちゃんを、ひっしと抱き締めるのーみん。
それを笑って見ていたカルガモだったが、そこへ奈苗が声をかけた。
「駄目だよカモさん。りっちゃん、気にしてるんだから」
「う、うむ……」
反論しないのは、奈苗に窘められるのが珍しいからだけでなく、意外とダメージ受けてるからでもあるのだろう。どうもカルガモは、学生組三人娘を子供にカテゴライズしているらしく、子供に叱られると落ち込みやすい。
ま、だからって反省しねぇからこそのカルガモなんだけど。
その後、適当にりっちゃんを励ましつつ、ちょうどいいので休憩しようということになった。
○
「――おや。先輩、クソ暑いのに何やってんの?」
海から別荘に帰った後。夕飯は残った食材をぶち込んだカレーライスだとのことで、台所から追い出されてしまった俺は庭で暇潰しに運動をしていた。
泳いだ後だし、ハードなトレーニングというわけではない。適当な長さの棒きれを握って、同じぐらいの背丈の人間をイメージして打ち込むだけの素振りだ。
そこへ話しかけてきたのは、同じくやることがなくて暇そうな朝陽さん。海で半ば死んでいたこともあって、筋肉痛はかなりマシになったようだが、まだ足元が危なっかしい。
俺は額の汗を拭いながら、
「ただの素振り。お前もやってみるか?」
「冗談。あたしは体育会系じゃないの」
言いつつ、朝陽は縁側に腰を下ろして、俺を見物する態勢に入った。
少し遠く、居間の方からは大人組の酒盛りする声。あのテンションに素面で混ざるのは、朝陽をしても厳しいものがあったのだろう。奈苗は平気で混ざってるっぽいけど。
まあ見られてたってやることは変わらない。俺は黙々と素振りを続けるだけだ。
それから数分。静かに眺めていた朝陽が、退屈したのか声をかけてきた。
「先輩ってさー、いつも素振りとかやってんの?」
「あぁ? いや、気が向けばって感じだな。
部に顔出さない日が続いても、ランニングで済ますことの方が多いか」
俺の場合、体力や筋肉を落とさないことが主目的なんだよな。
真面目にやるんだったら、こんな棒きれでの素振りなんてむしろ逆効果だ。
「俺はあんまり型ってもんがないから、そういうのも意識してないしな。
一応、基本が疎かにならないようにはしてるけど」
「ふーん」
曖昧な返事をして、しばらく間を置いた朝陽は、ごろん、と上体を横にした。
「茜が言ってたんだよね。先輩、撃剣興行で楽しそうにしてたって。
あたしは見に行けなかったけど、好きなんだなーって思ってさ」
撃剣興行そのものには、興味なさそうな口振りで。
意外なほどに優しい笑みを浮かべて、朝陽は言葉を続けた。
「できればさ、特別な理由なんかなしに、もっとあの子を連れ出してあげてよ。
出不精のあたしが言うのも説得力ないかもだけど、あの子、本当はアウトドア派だから」
「……お前じゃ駄目なのか?」
「んー。あたしがやると不自然っていうか、気遣ってるのがバレるっていうか。
先輩ぐらいの自己中心さがちょうどいいかなー、なんて思ったりするのデス」
「いやいや。こう見えて俺、気遣いの人よ?」
手を止めて抗弁してみたら、朝陽はゴミを見るような目を向けた。許せないぜ。
「本当に気遣いのできる人なら、お見舞いにサボテンなんか持ってこないでーす」
「? そんなことあったっけ?」
「うわ、マジで言ってるこの人……!
あたしの部屋の窓辺で、すくすく育ってるのに!」
「そんなこと言われてもなぁ。だって常識的に考えろよ。
お見舞いに鉢植えなんて、ただの嫌がらせだろう?」
「先輩はその嫌がらせを実行したの! 思い出しな!」
「いいよ別に。事実でも心は痛まないし」
たぶんそういうのが面白いお年頃だったのだろう。
気遣いマスターの俺にだって、そういう若さはあったのだ。
「それよりも茜のことだろ?
別に連れ出すのは構わねぇけど、何か理由あんのか」
「んー……あたしが言うのは、ちょっと卑怯かと言いますか。
今はまだそれを語る時ではないのだ、みたいな?」
おどけた様子で言うものの、何か事情があると言ったも同然だった。
まあ。初めて会った頃と違って、打ち解けたというのもあるんだろうけど。茜は物静かな方ではあるが、それは性格的に大人しいのではなく、過剰に自分を律しているからなのだろう、と思う。
彼女がそうするようになった理由を、朝陽は知っているのだろう。
知っているからこそ、自分では気遣いがバレるとも理解している。
だから何も知らない俺に、ささやかでもいいから救いになれと願うのだ。
……ホントこいつは。
「お前はお前で、もうちょっと自分勝手になってもいいんじゃねぇか」
「ほえ?」
「どんな負い目があるのか知らねぇし、興味もねぇけどさ。
茜は気遣われたからって、邪険にしたりはしねぇだろ」
言われて、しかし朝陽は笑みを――寂しげな苦笑を浮かべた。
「それが難しいんだよねー。
気遣ってるってバレちゃったら、対等じゃなくなる気がするから」
ああ、それは分かりやすい理由だ。
そんな気はなくとも、例えば同情は相手を見下すことに繋がりやすい。
朝陽は茜と対等でいることを望み、自分では動けないと理解しているのだろう。
そういうところまで気を回すから、こいつはどうしようもなく善性なのだ。
「ま、とにかく先輩、よろしくってことで!」
有無を言わさぬ強さで言い切って、朝陽は体を起こした。
「難しく考えないで、遊びに誘ったりしな!」
「でもなぁ」
俺はバツの悪さを誤魔化すように頭をかいた。
「茜と遊んだことってないからなぁ。どこに誘えばいいのやら」
「え? ああ、二人だけでってこと?」
「うん?」
あれ。何かおかしいな。
この話だけじゃなくって、無視できないレベルで食い違いがあるような。
違和感に対し、ある閃きが浮かんだのはほぼ同時だった。
――まさか、と俺達は目を合わせて息を呑む。
「ちょっと待って先輩。
あたし達が一緒に遊んだこと、覚えてないの?」
「俺からも確認するけど、俺は本当に見舞いにサボテンなんて持っていったのか?」
互いに問いかけて、それだけで証明されてしまった。
誰がおかしくなっているのかは分からない。
しかしこれまで大丈夫だと思っていた俺達も、そんなことはなかった。
知らず知らずの内に、日常の思い出さえもが壊されてしまっている。
「……どうしよっか?」
問いかける朝陽に、首を横に振る。
「皆にはまだ黙っておこう。不安にさせるだけだ」
たまたま、俺と朝陽のどちらかだけに影響があったのかもしれない。
それも分からないまま話したって、何もいいことはないだろう。
だけど――――。
そう考えている俺は、本当に俺なのか。
そんなことも言い切れないほどに、この世界はおかしくなっていたのだ。