第四話 愛を知らない
海の家でかき氷を食べたり、セクハラ始めたのーみんを埋めたり。
それからまた泳いだり、カルガモの作ってたトンネルがいつの間にか、凱旋門のようなサンドアートになっていてギャラリーが集まったりと、俺達は存分に海を満喫した。
夕食の支度もあるので、四時を過ぎたあたりでそろそろ帰ろうということになり、カルガモは自らの力作にドロップキックを叩き込んだ。
「うむ……この無常感。やはり芸術はいい」
というかこいつ、一度も海に入っていないのでは……?
まあ本人が満足しているならいいだろう。
俺達は無料のシャワー室で海水を洗い流すと、着替えて別荘へ戻った。
「はー。楽しかったけど疲れたねー」
別荘へ到着するなり、居間に寝転んで奈苗が言う。
その近くに腰を下ろしたりっちゃんは、早速クーラーをつけてすぐ横になった。ビール欲しいとかほざいておられるが、メシの前に酒はいかがなものか。
俺と茜、それからのーみんの三人は、庭に干しておいた布団を取り込み、和室に広げておく。大変ホカホカになっているので、冷ましておかないと夜がつらいのだ。
百合と朝陽は日焼けのケアとして、クリームを塗り合っている。怪我の治療にも使える、皮膚の再生を早めるタイプのものだ。市販品だから効果は高くないが、なんとか細胞配合だとかで、大抵の外傷は一晩もあれば治る。
「クリーム塗ってあげますから、茜さんとのーみんもこちらへー。
早くケアしておかないと、お風呂で地獄見ちゃいますからね」
そうして追加二名もクリームを塗られ、四人は寝転がる奈苗とりっちゃんを次なる標的に定めた。
ぼけーっと眺めていた俺だが、その二人なら別に眺めなくていいかと意識を切り替え、台所に足を向ける。わりと動いたことだし、水はしっかり飲んでおかなくちゃな。
「お」
「む」
台所ではコンロの前にカルガモが立っていた。ヤカンでお湯を沸かしているようだ。
「お茶でも淹れんの?」
「いや、白湯をな。あまり冷たいものばかり飲むと、腹を下すでな」
「おっさん臭いな……」
「暑い時には熱いものと、昔から言うじゃろうに」
そういうところがおっさん臭いんだけどなぁ。
俺はシンクの蛇口を捻って、コップに入れた水を一息に飲み干した。
運動の後と考えれば塩や砂糖も入れた方がいいのかもしれないが、嫌ってほどに海水を飲んだわけだし、わざわざ塩は入れなくていいだろう。
そうしていると、居間から悲鳴なんだか笑い声なんだか、よく分かんねぇ声が聞こえてくる。奈苗とりっちゃんが捕まって、クリームを塗りたくられているのだろう。
「………………」
喧騒に背中を向けて、俺は冷蔵庫を漁る。買ってきた食材があれこれと入っているが、こっそり混ぜておいたナスを四本と牛脂を取り出す。今がチャンスだ。
俺が何をするつもりか理解したカルガモは、しかし無言で見守る。心なしか期待しているようでもあった。
そうだよな。女性陣には文句を言われたが、やっぱ油は大切だよ。カロリー気にして、精進料理みたいなものを食べさせられちゃ、男の子の胃袋は満足してくれないのだ。
俺はナスを手早くスライスすると、フライパンを出してコンロで温める。クッキングヒーターだから火加減を間違えるってことはないだろう。
充分にフライパンが温まったら、換気扇を回しつつたっぷりの牛脂を投入。油が溶けて広がったところで残った牛脂を取り出し、ナスを入れる。牛脂はカリカリになっているので、塩胡椒をかければ大人組が酒のつまみにでもするだろう。
へっへっへ……それよりも見ろよ、ナスがスポンジみてぇに油を吸いやがる。油の美味さが今、余すところなく閉じ込められているのだ……!
「あれ、いい匂い――幹弘さん?」
気付いた茜が台所に顔を出すが、心配はいらない。見た目はナスを焼いてるだけ。超ヘルシー。
俺は爽やかな笑みを浮かべて振り返った。
「おう。先に軽く一品作っておこうと思ってな。
りっちゃんがビール飲みたがってたけど、空きっ腹に酒はよくないし」
「ふーん」
納得した様子で頷きつつ、茜はフライパンを覗き込んだ。
匂いが気になるのか、彼女は小鼻をひくつかせて、
「ちょっと油多いんじゃない? 結構匂ってるし」
「いや、これはこのぐらいでいいんだよ。焼くって言うより素揚げだから」
まるっきり嘘というわけでもない。焼き色も付いたことだし、ナスを皿に取り出す。
残った油はキッチンペーパーで拭き取り、水、めんつゆ、砂糖を入れて煮立たせる。沸騰したら弱火にしてナスを入れ、数分煮れば完成だ。
「揚げナスのあんかけ?」
「惜しい。あんかけにはしないで、溶き卵につけて食べるんだ。
母さんに教わったナスのすき焼きだよ」
牛脂を使うのは俺のアレンジだけどな。
完成したものを器に移していると、カルガモは缶ビールを片手にスタンバイしていた。
「……お前」
「まあまあ。これだけいい匂いをさせておいて、お預けは殺生じゃろ」
気持ちは分かるけどさぁ。
こいつだけに食わせるつもりもないので、器は茜に渡しておく。
「これ、あっちに持ってって。カルガモは箸と小皿、あと卵な」
そうして二人を追いやり、俺は油を取るのに使ってカリカリの牛脂に塩胡椒をかける。いきなりこれを持って行ったら、ナスの正体――と言うか、カロリーがバレちまうからな。
それから人数分のコップを用意して、冷蔵庫からお茶とビールも出し、お盆に乗せてまとめて運ぶ。
居間では皆が長テーブルを囲んでおり、カルガモとりっちゃんは幸せそうに缶ビールを飲んでいる。
そして他の女性陣は形容し難い、厳しい顔をしていて、俺に気付いた百合がドンとテーブルを叩いた。
「幹弘君! このナス、駄目です。悪魔の食べ物です!」
「美味いだろ?」
ニヤリと笑って、コップをテーブルに並べていく。
百合は悔しそうに顔を歪ませて、
「とろっとろで、油の濃厚な甘みが広がるんですよぅ……!
でも溶き卵につけるから、口当たりマイルドで、いくらでも食べられそうなんですよぅ!」
「あははー。百合さん、諦めなよー。あたしはもう諦めた」
ナスが本体だとでも思っているのか、パクパクと食べる朝陽。
だがそこへ、茜が深刻そうに口を開いた。
「……幹弘さん。まさかそれ、牛脂?」
彼女が見ているのは、小鉢に入れたカリカリ牛脂だ。
俺は小鉢をりっちゃんに「おつまみです」と献上して、
「美味かっただろう?」
「ひっどい! そんなの使うだなんて!」
声を荒げる茜へ呼応し、そうだそうだと騒ぐ女性陣。
だが意外にも俺を庇ったのは、既に顔が赤くなりつつあるりっちゃんだった。
「騒ぐんじゃないわよ、小娘ども。一食や二食でデブったりしないわ。
あんまり節制すると体が省エネ化して、僅かなカロリーも吸収するようになるわよ」
確かにそれは一理ある。
食事制限だけで痩せようとして失敗するのは、体が慣れるからだと聞いたことがある。低カロリーな食生活が続くと、体が効率よく栄養を取り込もうとするのだ。
それを避けるためには、定期的にがっつり食べた方がいいのだ、とも。
「――ま、私はいくら食べても太らない体質だけど!
ふふふこんなに美味しいのに我慢しなきゃいけないなんて、哀れねあんた達!」
突然の暴言。立ち上がる女性陣。
のーみんと奈苗がりっちゃんを拘束し、りっちゃんは困惑を顔に浮かべた。
茜と朝陽はテキパキと、りっちゃんの正面のコップなどを片付け、そして百合が微笑んだ。
「――ヒール」
燐光が輝き、りっちゃんの下腹部に集まる。
「ぁふっ」
崩れ落ちそうになるりっちゃんだが、のーみんと奈苗がそれを許さない。
っていうか、今のってゲオルでたまにやってた、一点集中ヒールだよな?
「いつの間にそんなことできるように」
「ふふーん。スキル、いえ、魔術はこっそり練習してたんですよ。
もし何かあれば、今度こそ力になれるようにと。
幹弘君に任せるばかりでなく、傷を負えば癒せるようにと」
「百合……」
その尊い努力の結晶で、最初にやったのがりっちゃんの制裁ってどうなの?
らしいっちゃらしいんだけど、その人間性を疑わずにはいられない。
呆れ果てていると、りっちゃんの方に動きがあった。
「ちょ、あんた達! はな、離しなさい! 早く!!」
切羽詰まった声音に、おや、と首を傾げる。
確かに一点集中ヒールは筆舌に尽くし難い気持ち悪さがあるが、あの様子は解せない。のーみんと奈苗も、拘束から逃れるための方便と疑ったのか、手を緩めるようなことはなかった。
それを察したりっちゃんは薄暗い笑みを浮かべて、
「ふふふ漏れそうなの……! 離しなさい、お願い離して!
さもなくばここで漏らすわ! ええ漏らしてやるわよ!?」
のーみんと奈苗は即座にりっちゃんを解放した。
人としての尊厳は守られなければならない。
りっちゃんは慌ててトイレに向かい、自然、俺達の視線は百合へと集まった。
注目を浴びた百合は、ああ、と納得したように手を叩く。
「活性化と言いますか、部分的に元気になるイメージで使ってたんですよ。
――リアルでやると、トイレに行きたくなるみたいですねー」
邪悪過ぎる。神聖なイメージのあるヒールで、よりにもよってそんな結果を引き起こすのか。
推測を聞いた皆は百合から距離を取り、怪物を見るような目を向けた。
「え、何ですかその目。迫害するつもりですか。呪いますよ」
「いやぁー! 凄いよな百合は! 俺にはとても真似できないぜ!」
「凄いよね姉ちゃん! 人類滅ぼせそう!」
「あたい、百合は前から天才だと思ってた!」
高速でごまをする兄妹+ワン。この歳でお漏らしとか洒落にならんし。
それに対し、ほう、と頷いた百合は、浅く眉を立てて笑う。上機嫌だ。
「皆さんも魔術でお困りのことがあれば、私に頼ってくれてもいいですよー。
今なら心の広い私が、適切なアドバイスをしてあげましょう」
ホントすぐ調子に乗るよなこの人。
俺達は哀れみの混じった笑みを浮かべ、適当におだてておくことにした。
そんな光景を静かに眺めていたカルガモが、不意に口を開いた。
「ガウス。つまみがもうないんじゃが」
「あー!? カモさん、一人で全部食べちゃったの!?」
「いや、これは手が止まらん味じゃでな」
詰め寄るのーみんに言い訳して、悪びれずに笑うカルガモ。
つーかまだ晩飯前だってこと忘れてねぇか、こいつら。
「仕方ないですねー。放っておいたらお酒ばっかり飲んでそうですし。
ちょっと早いですけど茜さん、ご飯作りましょうか。
幹弘君は責任取って、おつまみ量産してください」
そういうことになった。
だが、おつまみなら邪悪な料理を作っていいと言われたのが解せない。
俺は単に美味さを追求した料理を、作っているだけなのにね?
ちなみに百合と茜は、新鮮な魚介類が手に入ったこともあり、それを中心に料理を作ってくれた。
アジの甘辛焼きに、タラとアサリのアクアパッツァ。サラダ代わりに、プチトマトのアヒージョ。
二人とも手際がよく、自炊していると話していた百合はともかく、茜も家で手伝いをしていたのだろう。つーか慣れてないと、アジを捌くだけでも大変そうだしな。
俺はアヒージョに使われたガーリックオイルを再利用して、コンビーフのアヒージョを作成。旨味の溶け出したオイルをさらに再利用して、チーズをぶち込んだ豆腐ステーキも作ってみる。
これで足りなけりゃ、適当にスナック菓子でも食わせておけばいいだろう。
そして俺のおつまみは、酒を飲む連中が口を揃えて邪悪な味と評することになった。
解せぬ。
○
夕食後はだらだらしつつ、順番に風呂へと入ることになった。
りっちゃんは酒に弱いとのことなので、夕食前と最中の缶ビール一本でストップをかけられ、やや拗ねながら一番風呂をゲット。なんか悲鳴が聞こえたのは、たぶん日焼けケアのクリームの塗りが甘かったせいだろう。
その後は学生組が続き、その間、カルガモとのーみんは延々と酒を飲んでいた。百合も飲んではいたが付き合い程度で、深酒はしていないようだった。
そして学生組ラストの俺は風呂から上がり、程々にしてシャワーだけでも浴びろよとカルガモ達に告げると、自分の和室に広げてある布団へ、うつ伏せになって寝転んだ。
同じように、隣の和室ではりっちゃんが寝転んでいる。起きてはいるが、酒が回っているのだろう。
そんな風にぼんやりと見ていたら、背中に衝撃があった。
「んぐっ」
「せんぱーい、まだ寝るのは早いよ!」
俺が寝るとでも思ったのか、朝陽が背中に飛び乗ったらしい。
呻いた俺は、体を捻って朝陽を振り落とすと、素早く身を起こして両の足首を掴んだ。入れ替わるようにうつ伏せになっていた朝陽は、その行為が何を意味するか悟り、待って、と懇願の声を上げた。
待たなかった。
「よいしょお――!!」
「あいたぁ――!?」
背中にこちらの足を乗せて固定し、足首を持ち上げる。エビ反りの形だ。
朝陽はバンバンと床を叩いて、
「誰かタスケテェー!!」
後半、裏返った声で助けを求めるものの、酒盛りしてる大人組からは楽しそうな笑い声しか聞こえない。
奈苗はこっそりスタンバイしているが、下手すると朝陽にも追加ダメージ入りそうなのでまごまごとしている。となると、動けるのは茜だけだが。
「自業自得だから幹弘さんの好きにしていいよ」
だよな。別にドライってわけじゃないが、茜はこういう判断に友情を持ち込まない。
あとは奈苗を味方に引き込めば完璧。俺は体勢を少し入れ替えて、朝陽の足の裏が奈苗によく見えるようにした。
「――兄ちゃん」
「やっていいぞ」
自由を与えられた野獣がいたずら心を優先した。
すすっと近付いた奈苗は、朝陽の足裏につつーっと指を滑らせる。
「ぅひ!? ひ、ふひ、ぃ――ひゃははははは!?」
堪らえようとしたものの、そこから本格的にくすぐられて大笑いする朝陽。
あ、やべ、思ってたより我慢できてねぇなこいつ。そんなに暴れたら足が、――俺の顔面を蹴り飛ばした。
「づふ!?」
「あふぁ!? は、ハ――はぁ、あれ? 先輩、ダイジョブ?」
あんまり大丈夫じゃない。悶絶している。
そんな俺を、解放された朝陽が奈苗と一緒に覗き込んだ。
「や、ごめんね? わざとじゃないんだけど」
「兄ちゃん、血は出てない? 布団汚したら駄目だよ」
奈苗は布団よりも兄を心配したらどうか。
痛みが落ち着いたところで、俺はゆらりと立ち上がった。
「わざとじゃない! わざとじゃないから!?」
立ち上る殺気に怯えたか、弁明しながら朝陽が後退る。
いや、半ば俺の自爆のような気もしているが、それはそれというか。
八つ当たりは承知の上で、報復をしなければならない。
「こんの害鳥がァ――!!」
朝陽に飛びかかって押し倒す。こうなっては最早、手加減など無用。
倒れた朝陽の片足をこちらの両足で挟み、足首と膝を極めながら覆い被さると、両腕を顔に回してフェイスロック。これぞ対奈苗用最終奥義、ステップオーバー・トーホールド・ウィズ・フェイスロックだ!!
だが失念していた。ここはリングの上ではない。
これはルール無用の残虐ファイト。情け無用は俺だけに限らない。
朝陽は締め付ける痛みに抗い、あろうことか俺の腕に歯を立てたのだ……!
「痛ってぇ!?」
そりゃ反則だぜ。このまま噛まれては堪らないと、俺は技を解いて離れる。
痛みと息苦しさに顔を紅潮させていた朝陽は、しかし歯を剥いて不敵に笑った。
「あたしもやられてばかりじゃないんだよ、先輩……!」
「じゃあ選手交代な。行け、力の二号」
「オッケー!」
「あ、ちょ、ナナちゃんは無理ー!?」
その場の面白さを優先する奈苗は、ある意味で俺より容赦ねぇからなぁ。
再び押し倒された朝陽は、それでも必死に抗おうとするものの、力の二号はパワー特化。抵抗は強引に捩じ伏せられ、あー、ちょっと奈苗。朝陽も一応は女の子なんだから、その技はやめてあげなさい。
せめてもの情けを発揮して、俺は悲鳴を上げる朝陽から目を逸らし、茜の隣へ移動する。
やや深刻な声音で告げるのは、繰り広げられる惨状への警告だ。
「奈苗に襲われたら遠慮しなくていいからな。
あいつ、力加減は間違えないけど、尊厳に加減しないから」
「そうだね……うっわぁ、えぐい……」
奈苗と朝陽の攻防に目をやり、茜はドン引きの声を出した。
まあ兄妹喧嘩というか、お互い怪我させないようにやり合うと、打撃は牽制程度の軽いものになる。従って必殺技は痛みのみを与える関節技ばかりとなり、その練度は高い。
朝陽がギブアップしたら止めるべきかなぁ、などと悩んでいたら、りっちゃんが床を転がってこちらへやって来た。
酔いは落ち着いたのか、いくらかマシになった顔色で彼女は言う。
「これ動画にしたら売れると思わない?」
「兄として断固阻止するからな!?」
「はいはい。――雛鳥の方はどうでもいいわけね」
からかうように口端を曲げた彼女は、
「前から思ってたけど駄犬、あんたシスコンよね。
扱い結構雑なのは性格からでしょうけど、何かあれば絶対に守ろうとするもの」
「そうかぁ? どこのご家庭もこんなもんだと思うけど」
「のーみんに聞かせてやりなさい、感動するわよ。
あそこやたらお兄ちゃんいるのよね。四人だったかしら」
わあ大家族。いや、本題はそこじゃなくて。
シスコンかと言われたら、俺自身は違うと思う。勝手なイメージだけど、シスコンとかブラコンとかって、ちょっと異常な愛情を注ぐ人のことだと思うんだよな。
だからそうではないと結論を持った上で、
「なんつーか、下のもんを守るのって当たり前のことだろ?
あいつを泣かせないってのは、俺の存在意義の一つだ」
「……思ってた以上に重症ね。どうするの茜、思わぬ強敵だけど」
「そういうのじゃないから」
言って、茜はぺしぺしとりっちゃんの頭を叩いた。
よく分からないやり取りだが、重症と言われたのが一番引っかかる。当たり前のことをおかしいと言われても、おかしいのはそっちじゃないのか。
まあ兄弟がいないのなら想像するしかないわけだし、常識が違っても仕方ないとは思うんだけど。
……いや、それよりも。
「ひょっとしてりっちゃんは、愛をご存知でない?」
「よーしそのケンカ買ったぁ――!!」
がばっと飛び起きて、りっちゃんはチョークスリーパーなんぞをしようとする。
とりあえず腕を差し込んで無効化しつつ、俺は思案しながら言う。
「えっとさぁ。俺、あんま頭よくないから分かんねぇんだけどさぁ。
愛を理解できないのって、悲しい生き物だと思いまーす」
「こ、この駄犬……!!」
力を増す締め付け。でも腕を差し込んである以上、いくら力を強くしたって効果はないのだ。
そうしていると話が聞こえていたのか、居間からのーみんの声がする。
「みっちゃんは処女だぜー!」
「黙ってなさい外野! 後ろから刺すのは友情とは呼ばないのよ!!」
ははは、りっちゃんは大変だなぁ。
キレる勢いに任せて、りっちゃんはチョークスリーパーを解除して打撃を行う。だだっ子のように何度も何度も、こちらの背を叩くものだ。
ひとしきり殴って満足したところで、彼女は茜を見た。
睨むような、それでいて拗ねた感情を持つ目は、涙目と呼ぶべきものだろう。目元を擦った彼女は、身構えるように息を呑んだ茜に告げる。
「同情したら殺す」
強気を保つ努力は、時に物騒な結論に至るのだなぁ。
その心情を察したか、苦笑気味に微笑んだ茜は腕を広げた。
「……おいで?」
「ふんっ」
鼻を鳴らして、反論するかと思いきや、りっちゃんは茜の胸元に顔を埋めた。おいそこ替われ。
十秒ほどそうしていたりっちゃんは、首だけをこちらに回して、
「――ふふん」
「あっ、テメェ! 調子乗ったな!? いい気になったな!?
そっちからケンカ売ったと解釈するぜ!?」
立ち上がろうと腰を浮かしたところで、しかし茜が言う。
「私を戦場にするのはやめて」
「あ、はい」
斬新な表現だよな。私のために争わないで、とかじゃなくて、戦場にしないで、か。
感慨深く頷くと、挑発に失敗したりっちゃんが、つまらなさそうな顔をするのが見えた。
あの女はいつか絶対にしばく。
そんな決心をする俺を無視して、りっちゃんは居間の方へと声を飛ばした。
「あんたらいつまでも酒飲んでないで、さっさとお風呂入りなさい。
私が我慢してるのに好き放題飲まれたら、ムカつくのよ」
酷い理屈を聞いた気がする。
それに返す声は、仕方ないなぁ、と諦めを含んだ百合のものだ。
「そろそろ片付けて、お風呂もらいますねー。
全員上がったらゲオルにログインしましょうかー」
はーい、と返事をする皆。
……そういやゲオル、借りた金もそろそろ真面目に返さないとなぁ。
そんなことを考えながら、大人組の湯上がりを待つことにした。




