表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
竜と信仰の奇譚  作者: 長月十九
第三章 サンクチュアリ・オブ・ウードン
47/134

第十二話 肩を並べる


 緑葉さんに正面から勝つ。

 それはこの戦争にも、皆を正気に戻すことにも必要ない、俺達の個人的な望みだ。

 ただ勝つだけでいいのなら、勝たせてもらえばいい。

 しかしそれは緑葉さんに、彼女が半端に正気だからこそ、傷を残してしまう。

 だから正面から勝つという方針に、誰も異を唱えなかった。

 無茶なのは承知の上だが、叶う限りの最善を掴み取ろうと思うぐらいには、俺達は欲張りなのだ。


「――っし、行くか」


 大雑把な作戦を立てて、俺は剣を片手に気合を入れるように言った。

 どうせ当たれば即死。なら少しでも軽い方がいいと、防具は外してある。同じ理由から、残り少ない回復薬も全てスピカに渡しておいた。

 隣のスピカも武器をインベントリに収納し、防御に専心するつもりでいる。正直な話、こいつがいなかったら本格的に打つ手がなかったので、すっかり頼もしくなったもんだと思う。

 ゲオルを始める前、俺の口車に乗せられて勇者になるとか言ってたが、今はその名に恥じない。他の誰が呼ばなくても、こいつが勇者と呼ばれるに相応しい戦士になったことを、俺だけは認めてやりたい。


「タイミング命ですから、慎重にお願いしますよー。

 失敗したら、たぶん二度と通じませんから」


 姐御は俺とスピカにプロテクションをかけて、念押しのように注意する。

 作戦の大筋を考えたのは姐御だが、半ば博打だと分かっているからか、その表情は険しい。しかし博打とはいえ、勝算があるだけでも僥倖。だから俺は安堵させるように、軽く笑った。


「姐御の作戦に間違いはねぇさ。

 失敗したら、俺やスピカが情けねぇってだけだよ」


「そうだよ、タル姉ちゃん。

 兄ちゃんだけだと心配だけど、私もいるんだから!」


 蹴り倒すぞテメェ。

 だが姐御はスピカの言葉を聞き、肩の力が抜けた笑みを浮かべた。


「そうですね。ガウス君のこと、頼みましたよー」


「うん!」


 ここで反論して空気をぶっ壊さない程度には、俺も空気が読めた。

 そして魔法組の二人、クラレットとツバメの準備はどうかと見れば、


「こっちも大丈夫。いつでも行ける」


「あたし達は楽な仕事だしね。二人とも、頑張って」


 励ましの言葉に頷きを返し、


「それじゃあクラレット、頼む」


 作戦の起点となる行動を起こすべく、クラレットは魔法の詠唱を始めた。

 何度も唱えてきただけあって、表示フレーム(カンペ)を投影する必要もなく、呪文が紡がれる。


「――地の底に眠る力よ、母なる大地を焦がす赤き炎よ!

 三軸の門より来たりて、我が手に集え!」


 クラレットの右手に赤々と燃える火球が輝く。

 彼女はいつものようにアンダースローの動作で、それを投じる。


「ファイアーボール!」


 廊下の曲がり角から手だけを出し、安全を確保してリリース。

 目視で狙いを付ける必要はない。角度を与えて投げられた火球は、廊下の途中で壁に炸裂した。

 炎と煙による即席の煙幕だ。

 元がノーコンの緑葉さんがこの状況で当てようとするなら、煙幕が晴れるか、俺達が突っ切るのを待った方が賢明だろう。しかし一秒も経たない内に、煙幕を突き抜けて矢が飛来した。

 轟音を立てて壁に刺さる矢が示すのは、お構いなしに射つという意思。当たらなくてもいいと思っていなければ、全力の射撃をデタラメに射てるものではない。

 予想通り、これ幸いにと消耗しに来たのだ。


「行くぞ!」


 タイムリミットは短い。

 このまま射ち続けるのなら、緑葉さんのMPはすぐに尽きてしまう。それでは意味がないのだ。

 だから一射目を確認した直後、俺とスピカは弾かれたように飛び出していた。

 スピカが先を行き、その背を俺が肩で押しながら支える。

 防御系のスキルを重ねたスピカであっても、あの矢には吹き飛ばされる。それを俺一人が支えたところで焼け石に水だが、こんなのはただの保険だ。

 ――第二射が放たれる。

 狙いは甘いが、スピカは咄嗟の反応で盾をぶち当てた。

 だが吹き飛ばされない。衝撃は突き抜け、俺も歯を食い縛って支える。

 この不条理を成し得た理由は煙幕のこちら側、廊下を埋め尽くすように漂う鎖のエフェクトだ。

 煙幕はツバメのバインドを隠すことが狙い。

 動作を阻害する力場であるバインドは、矢の勢いを僅かに弱めるだけでなく、俺達が吹き飛ぶ運動エネルギーそのものを減衰させる。

 走る速度まで落ちてしまうのは必要経費。状況把握を矢の立てる音に頼るしかない緑葉さんでは、俺達が何をしているか分からない。一人吹き飛ばしたと、そう捉えるのが関の山だ。

 その齟齬へ付け込むように、俺達は煙幕を抜けた。


「――――――!」


 カラクリまで見抜けたかどうか。

 しかし俺達の姿を視認した緑葉さんは、一瞬、狼狽したように息を呑み、


「来たわね駄犬兄妹! いいわ、もっとがっつきなさい!」


 いつものように、眉を立てて力強く笑う。

 先の二射とは違って、狙いを定めるという言い訳でゆっくりと弓の弦を引き、


「腹ペコならうどんを茹でてあげる!

 お代は結構よ! 私って気前のいい女だもの!」


 ただし、と言葉を切って、


「ついでにこの矢も食らって行きなさい!」


 矢が放たれる。

 これまで同様、威力に関しては一切の容赦がない一撃。

 だがノーコンなりに精確な狙いを心がけた一撃は、隠そうともしない予備動作のせいで、避けようと思えば避けられるだろう。

 しかしその心意気を躱すなんて無粋、俺達が選ぶ筈もない。

 俺は左手をスピカの背に当て、


「ブレイク……!!」


 できるかどうかなんて迷わない。

 やれると信じて、()()()()()()()()()()()()()()()()使()()

 得られたのは撃ち出しの力。

 握っていない武器はすっぽ抜け、飛んで行くのが道理だ。

 その急加速を自らを支える力として、スピカの構える盾が正面から矢を受け止めた。

 威力が炸裂し、度重なる酷使もあって盾が爆ぜる。

 だが止まらない。腕は捻じくれ、折れてしまっているが、足は止まらない。

 この大戦果に、俺達は牙を剥くように笑って告げる。


「「おかわり!!」」


「……っ! ハ、いい空気吸ってるわねあんた達!」


 不敵な笑みを浮かべ、緑葉さんは次の矢を(つが)える。

 気配が変わったと感じたのは錯覚ではない。

 あえて正面から挑んだ意味を、彼女も悟ったからだろうか。

 視線に宿るのは心地いい殺気。矢を放つことを、彼女は最早躊躇わない。


「ならば私を超えて行きなさい!

 私がみっともなく足掻き続けたことは杞憂だったと、証明して!」


 意志へ呼応するかのごとく、彼女の弓が音を立てて変じる。

 弓を構成する木材が爆ぜて割れ、成長するかのように巨大化していく。

 ただでさえ大型だった弓は、今や巨人の弓へと成り果てた。

 その現象が何であるかを俺達は知らない。

 だが正真正銘、殺すつもりで全力を出してきたのは疑いようもない。

 超えて行けと望む彼女は、ようやく本当の意味で俺達と相対したのだ。


「――さあ、吼えなさいエウリュトス!」


 弓の名を叫び、矢が放たれる。

 それはあのバリスタと比較しても遜色ない、否、凌駕する一撃だった。

 音を置き去りにして大気が揺れる。

 巻き起こる衝撃波さえも貫いて、暴威が奔る。

 絶体絶命の一撃。しかし同時にスピカは踏み込んでいた。


「おお……!!」


 吼えたスピカは、その身を矢の射線へと投げ出した。

 盾を失った今、その行為は本来ならばただの無駄死にだ。

 だが激突音が響き、五体は衝撃波ごと威力を受け止める。

 当たれば貫くという確信を裏切られ、緑葉さんは驚愕を顔に浮かべていた。


「まさか――シールドバッシュ!?

 ()()()()()()()()、私の矢を撃墜したってわけね!?」


 その通りだ。このアイデア自体、スピカが出したもの。

 なに、発想さえできればそう難しいもんじゃない。目的のために自分を道具として扱うことぐらい、誰にだってできる。

 誇るべきはその覚悟。

 矢は貫通こそしなかったが、スピカのHPは削り切られ、体は罅割れるように破砕されていく。

 死んでもいいから活路を繋ぐその覚悟こそが、何よりも誇らしい。


「後は任せな!」


 告げて、文字通りに崩れ落ちていくスピカの横を抜ける。

 成すべきを完遂したスピカは、満足そうに笑って俺を見送った。

 その頑張りの甲斐あって、俺と緑葉さん、彼我の距離はもう長くない。威力よりも速度を優先して矢を放とうとしても、迎撃は間に合わない。

 次の瞬間、二つの動きがあった。

 俺が足ブレイクで加速するのと同時に、緑葉さんは矢を番えることを放棄して、弓を振り被った。

 射撃が間に合わないのなら打撃で応じればいい。

 あまりにも割り切った思考は豪快なスイングを生み、俺はその一振りを腕で弾き、


「がっ……!?」


 弓を弾くどころか、膂力に体を浮かされ、横手の壁に打ち付けられる。

 弓に攻撃力があると言っても、それは矢を用いた射撃にのみ適応されるもの。ならばあの打撃は攻撃力ゼロの木材を振り回したようなものでしかないが、筋力の差が明暗を分けた。

 ダメージこそ微々たるものだが、弾いて距離を取るには充分過ぎる。


「いい感じにがっつくわね駄犬!

 でもね、強引な男って私、タイプじゃないの!」


 バックステップで距離を取りながら、素早く矢を番える緑葉さん。

 体勢は立て直せる。だが間に合わない。

 ならばと俺は僅かに腰を捻り、その回転の勢いを乗せて剣を投じる。柄の根本を指で挟み、鍔を押すようにした投剣だ。

 顔面狙いの一投に対し、緑葉さんは反射的にそれを弓で弾く。

 その隙に駆ける。体勢を立て直す時間も惜しみ、両手足を使った四足獣の疾走。地上で溺れるような不格好さで、最後にこれでもかと強く床を蹴った。

 散々駄犬と呼ばれたんだ。牙を突き立てろと、拳を固く握る。


「…………っ!」


 飛びかかる俺に緑葉さんが照準を合わせ――ない。

 あえて踏み込んで狙うのは、お世辞にも狙撃とは呼べない、まさかのゼロ距離射撃。

 じゃあ予定変更! 真下を蹴りつけて宙返りし、逆の足で弓を蹴っ飛ばす!


「こ、のぉ――!」


 体勢を崩した緑葉さんは射撃を諦め、弓を力任せに横薙ぎのフルスイング。

 俺は着地しようともせずに、そのまま五体投地。風切り音を立てて弓が頭上を通過する。

 弓を振り切ったところへ、全身のバネを使って飛び上がり、もう一度蹴っ飛ばす。

 弾かれてまた体勢を崩すのは不味いと思ったか、緑葉さんは弓を手放し、右の裏拳を俺の顔面に叩き付けた。


「っ、猟師が弓捨ててんじゃねぇよ!」


「お生憎様! 私のメインウェポンは筋肉よ!!」


 勢いでアホなことを言いつつ、緑葉さんは殴りかかって来る。

 普段なら素手なんて恐れる必要はないのだが、こっちも速度優先で防具を装備していないのが仇になる。つーか普通に拳が重いんだよ!

 動きは素人同然とはいえ、こっちもちゃんとした格闘技の心得があるわけでもない。どうにか捌きながら、隙を見て拳を当てて行くが、決定打には程遠い。

 泥沼の乱打戦。

 その最中(さなか)で緑葉さんは、吠えるように言う。


「私の苦労も知らないで! 馬鹿をして! いい空気キメて!

 全部台無しにして突っ走って、あんた何様のつもりよ!!」


「そりゃこっちのセリフだ!」


 叩き付けられる言葉に、言葉を叩き付ける。


「一人で抱えて悪足掻きして! 何様のつもりだバーカ!

 俺達は任せられないぐらい、信用ならないってか!?」


「違う!」


 拳は胸を叩き、


「信じてるわよ、嫌ってほどにね!

 でも……! 何もしなかったら、私はいらないじゃない!

 どんな顔をして、あんた達と肩を並べればいいのよ……!?」


 拳を押し当てたまま、緑葉さんは動きを止めた。

 吐露された本音は、必要とされたい――居場所を守りたいと願うもの。

 ――何を勘違いしてんだ馬鹿と、腹をぶん殴る。


「ぅぐっ……!?」


「あのな、言わなきゃ分からねぇなら言ってやる。

 必要だから助けに来てるんだよ。

 あんたやのーみんを取り戻すために、俺達は向かい合ってるんだ」


 言いながら思い返す。

 緑葉さんは自分が足掻き続けたことを、杞憂だったと証明してと望んだ。

 それを証明するのは今だ。

 この物分りが悪い強情っ張りには、今しか届かない。

 俺は緑葉さんの襟首を掴んで引き寄せ、


「この件が片付いた時、そこにあんたがいなきゃ嫌だ」


「……そう。顔が近いわよ、駄犬」


 緑葉さんは苦笑を浮かべて、


「あと顔が臭いわ」


 俺は渾身の力で緑葉さんをぶん投げた。

 あーあー! ちょっと優しくしたらこれだよ、この女は!

 床に二回バウンドした彼女は、上体だけを起こしてこちらを見る。


「私の負けね。いいわ、行きなさい。

 もう疲れたし、あとはどっかでうどん食べて見守っておくわ」


 俺は頷き、インベントリから愛用の斧を取り出した。


「……ねえ駄犬? な、何をする気かしら?」


「いや、回復してまた襲われても面倒だし、トドメは刺さねぇと」


「あんた頭おかしいんじゃないの!? ねえ!

 この流れで普通、そういうことする!?」


 敵意の増大を確認したので容赦なくトドメを刺した。

 なんか情緒不安定になってたし、決着したのにまた襲いかかる意思を示したあたり、やはり緑葉さんの行動にはかなり強い強制力が働いていたのだろう。

 許せない。認められない。

 彼女の心を踏み躙るような世界は、この手で壊さなくちゃならない。

 俺は斧をインベントリに収納し、投げた剣を回収すると後方の皆に呼びかけた。


「片付いたし次行こうぜ次!」


 三人は何故か俺に白い目を向けていた。

 うーん? あ、格闘戦で何度か緑葉さんの顔面殴ったからか?

 仕方ないことではあるが、やっぱ女の顔を殴るってのは心証がよろしくない。

 もし次があればボディー中心にしようと、俺は心に深く刻み込んだ。


     ○


 俺達は走っていた。

 緑葉さんを突破したことは、俺達が二階に上がっていることで知れ渡る。

 戦力的に見て彼女が重要な防衛役だったのは間違いなく、時間が経てば経つほど、二階には帝国軍が集まって来るだろう。

 だから走る。数に押し潰される前に、最悪でもホーリーグレイルの位置だけは掴んでおきたい。

 幸い、二階には敵の姿がほとんどなかった。

 それだけ緑葉さんが信頼されていたのか、砦内の戦力は大半を一階に集中させていたのだろう。

 反面、戦力配置からホーリーグレイルの位置を推測するのは難しくなっているが、些末なことだ。一階と違って階段を探す必要もないのだから、条件は絞られる。

 まず小部屋はない。充分に立ち回れるだけの広さがなければ、押し込まれた時に事故のように破壊される恐れがある。

 次に階段のすぐ近くの部屋もない。多人数が勢いで突っ込める場所は避けたがるだろう。

 だから俺達が探しているのは、階段からは離れた位置にある会議室のような広い部屋だ。


「あの部屋は!?」


 散発的な遭遇戦を何度かした頃、ツバメが指差した。

 そこには両開きのドアがあり、周辺には他のドアもない。ホーリーグレイルを設置して守る場所としては、理想的な部屋だろう。

 俺達は頷きを交わすと、不意打ちに備えてHPを回復してから、勢いよく扉を開いた。

 視界に広がるのは何もない広間だった。

 本来は宴会場にでも使うのかもしれないが、殺風景さは廃墟を思わせる。

 広間の奥には小さな机があり、その上には黄金の杯が輝いていた。

 ホーリーグレイルだ。

 あれさえ破壊すれば――そう考えるが、同時に厳しいな、と思う。

 何故ならこの広間には、最後の障害が立ち塞がっている。

 ――長い黒髪を束ねた壮年の男がいた。

 襟付きの着物にズボンを合わせた、和洋折衷スタイルの剣士。

 最後にして最強の守り手、カルガモが君臨していた。


「よく辿り着いたのぅ。まさか緑葉が倒されるとは思っておらんかったよ」


 歓迎するかのように、微笑すら浮かべてカルガモは言う。

 ……ちょっと気になることがあったので、俺は口を開いた。


「なあ、お前だけ? ウードンさんは?」


 てっきりあの人はホーリーグレイルを守っていると思っていたのだが。

 いや、そうしなきゃいけないわけじゃないけど、そうするもんだよな。


「会わんかったのか? 下の食堂でうどん食っておるが」


「うどん食ってんじゃねぇよカイザー!!」


 やり場のない怒りが込み上げる。

 いや、分かるけど。言われたら超納得だけど!

 元からうどん星人だったあの人は、この鉄火場でもうどんキメるレベルのうどん星人……否、うどん聖人に成り果てていたのだ。

 道理で防衛体制が無難な筈だわ! トップが仕事してねぇんだもん!


「ま、ここは俺だけじゃが問題なかろう」


 言いながら、カルガモは剣を抜いた。

 反りのある片手剣。柄がやや長いのは、両手持ちでも扱うためか。

 特に構えるわけでもなく、しかし一切の隙がない佇まいで彼は言う。


「剣士として、一度は千人斬りぐらいやってみたくての」


 それがハッタリでも何でもないのは、俺が誰よりも知っている。

 目の前にいる男は仙人の境地を目指し、その域へ踏み込めるだけの才能があった剣士だ。現代――もしかしたら、人類史においても最高峰の実力かもしれない。

 だが疑惑はある。

 思想を塗り潰された影響が、奴の実力にも及んでいるのではないか。

 その精神性に何らかの変化があったとすれば、絶対に勝てない相手ではない。

 ほんの僅かでも技に(かげ)りがあれば、あるいは。

 それを確かめるために仕掛けようと、俺は無意識に剣を握る指の力を増した。


 ――それが致命的な隙となった。

 

 意識からカルガモが消える。

 動作の起こりによって生まれた意識の間隙へ、仙境の剣士が滑り込む。

 気付いた時、既にカルガモは踏み込んでいた。

 膝を抜き、自重による前方落下を利用した加速。剣術や武術の流派によっては縮地と呼ぶ、それ自体が極意とされるほどの歩法だ。

 予備動作を必要としない歩法は、見えていても意識できない。結果は真正面からの不意打ちとなり、向かい合う者の対応は一拍の遅れを生む。

 遅れは焦りとなり、俺は反射的に身の前で剣を構えた。

 初太刀を防ごうとしたその構えに対し、カルガモは逆袈裟斬りを放つ。

 こちらの右脇腹から左肩へと斬り払う、防ぎようのない太刀筋。

 刃が通る確信。

 斬られたと思った瞬間、俺は横手からの衝撃に押されていた。

 俺と剣の間に姐御が割り込み、背に朱色の一文字が刻まれる。


「あ、姐御……!」


 呼ぶが、しかし返事はない。

 その命は刈り取られ、ここにあるのは物言わぬ亡骸になっていた。

 カルガモは油断なく後方に跳んで距離を開け、


「やれやれ、あれが見えておったか。

 付き合いの長い相手は、こうしたことがあるから侮れん」


 自嘲するように言う。

 あるいはこれでも、好機だったのかもしれない。この天才にも、僅かな慢心があったという。

 だが自嘲し、カルガモは気を引き締めた。

 その眼差しに油断はなく、全身には剣気が充溢している。

 古今無双の剣士が、そこに立っていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ