第九話 淡くも滲まず
俺にも生活というものがあり、ゲオルにばかり入れ込むわけにもいかない。
そんなわけで今日の午後は、クソ暑い体育館で剣道部の練習に参加していた。幽霊部員を自称しているのに参加率高い気がするが、まあ、男子が一人減っちまったしな。別に贖罪だなんて思っちゃいないが、あんまりサボるのも不義理ってものだろう。
そうした俺の考えを、意外と面倒臭いところがあるね、と脳内ノノカが笑う。いいだろ別に。言い訳の一つや二つはしておかないと、荷物が重いんだから。つーか真面目な話、俺含めて男子三人だぞ三人。テッシーの世話を一年の八木岡君だけに任せるのは、ちょっと酷じゃないか。俺はいい先輩だから、後輩に重荷を押し付けて知らん顔はできないのだ。
で、一時間ほど真面目にやったら疲れたし飽きたので、隣のコートを使っている卓球部に混ざる。道着姿だからって遠慮はいらねぇ、本気で来いよ安藤さん……! 級友でもあるその女子は、パワフルな表ソフト速攻型。隙あらば強烈なスマッシュで試合を決めようとするタイプだ。
対する俺は守備的なカット主戦型。球にかける回転の強弱を駆使して、相手のミスを誘う。もちろん付け焼き刃が通用するほど甘くはないが、勝負を成立させるにはこれしかない。攻めに出て高速ラリーにでも持ち込まれてしまえば、対処できなくなるのは俺の方だ。
相手の息遣いも分かるほどに小さな卓球台、その長さは僅か2.74メートル。トッププロのラリーは時速百キロを超える高速での応酬となり、スマッシュともなれば反射速度の限界すら超過する。卓球とはまさしく最速の球技に他ならない……!
――なのでまあ、素人が挑んだところでコテンパンにやられてしまうのがオチである。少しは食い下がれたものの、スマッシュがホントもう止まらない止められない。本気で来いとは言ったものの、マジで容赦ないな安藤さん!
勝負に勝った安藤さんは、汗を流しつつも小さくガッツポーズ。いい笑顔してるが、素人に勝ってそこまで喜べるものなのか。もっとこう、ね、経験者の余裕ってものを見せて欲しいわけですよ。
負け犬の遠吠えモードに入っていたら、爽やかに握手を求められた。
「やるじゃん守屋。卓球部にも入ってみる?」
「冗談。ただでさえ幽霊部員なのに、掛け持ちはできねぇよ」
握手に応じてそう答えれば、彼女は少しだけ残念そうに笑った。
そんなやり取りに、脳内ノノカが「意外と兄さんも隅に置けないねぇ」などと茶化してくるが、俺にだって分別というものがある。卓球部も剣道部と同じく、部員数の少なさに悩む部活だ。安藤さんは勧誘に失敗したことが残念なだけで、決して俺個人を求めているわけではないのだ。
ふふ……俺はただのモテない男じゃないんだぜ? ちょっと優しくされただけで好きになったり、逆に好かれていると勘違いしたり、そういうのはもう通過済み! 二度も過ちを繰り返さねぇのさ!
脳内ノノカが謎の思念を飛ばしてくる。やめろ、せめて言語化しろ。感情を未翻訳のまま伝えようとするな。霊長類などと名乗っているが、人間はまだその領域に達してねぇんだよ。
とりあえず面白がっていそうな思念だったので、機嫌を損ねたわけではないと判断する。それならいいやと、俺は安藤さんに付き合ってもらった礼を言って、卓球部から離れた。
「ふー。いい汗かいたぜ」
これ見よがしに大きな声で独り言を口にして、そのまま体育館を出ようとする。
「待て待てミッキー! 帰んなよ!」
そこへ防具フル装備のテッシーがダッシュして、俺の華麗なる逃走を食い止めた。
俺はただただ、不思議そうに小首を傾げて、
「ちゃんと部活はやっただろ?」
「うちは剣道部なんだよ」
「わお」
「何がわおだ!」
クソ暑いのに元気だなぁ。何食ってたらこんな元気を手に入れられるんだろう。まあテッシーはボンボンだから、俺よりいいもん食ってることだけは確定だけど。
それはともかく、これを振り切る元気もないので、仕方なく剣道部にも参加する。義理はもう果たしたと思うのだが、俺のルールを押し付けてはいけない。押し付けたところでキレるだけだし。
諦めた俺が防具を装着すると、待ってましたとばかりにテッシーが呼んでくる。その熱気にやっぱり帰りたくなるが、こうなれば毒を食らわば皿まで。いいぜ、相手になってやろうじゃねぇか……!
まあ疲れるから嫌ってだけで、テッシーと競うこと自体はどちらかと言えば楽しい。普通の剣道で、俺よりちょっとだけ上手いという、実に貴重な好敵手であるのは確かなのだ。
でも適度な休憩だけは挟んで欲しいかな……!
○
部活を終えた俺は、夕暮れの街を電動スケボーで走っていた。
適当なところで切り上げて抜け出すつもりだったのに、ついつい白熱してしまった。脳内ノノカは青春してるねぇ、なんてほざいてくるが、汗臭いだけの青春はお断りしたい。
そもそも部活を切り上げようとしたのだって、お前の要望だろうに。それなのに途中から急かすどころか、脳内ノノカ様は俺とテッシーの勝負をお楽しみになられる始末。そんなに見たいなら、暇な時に撃剣興行のプロリーグでも観戦してろってんだ。
あ、なんか段々と腹が立ってきた。つーか現状、洗脳じゃねぇのこれ? 何が脳内ノノカだ、ダイレクトに精神干渉しやがって。自分が安全なところにいると思って、滅茶苦茶好き勝手してやがる。確かにお前は万能だぜ、それは認めるよ。だけど万能であることは、決して負けないってことじゃあない。お前の万能は、お前の敗北をも可能としていることを、今から分からせてやるよ。
俺はノノカでエロい妄想をした。
イメージしろ……! あの小汚いローブの下に隠された肢体を……! 勢いで抱き着いた時の感触を思い出せ……! 限りなく真に迫った虚像を描き、思念の指先で触れる。へへっ、見た目通りに貧相なお子様体型だが、いい声で鳴く――あぎゃあッ!?
割れるような頭痛。津波さながらに押し寄せた怒りの思念が、俺のデリケートな脳味噌の許容量を超えて、頭の中で花火大会めいた幻痛が破裂した。
痛みのせいで制御が乱れたのもあって、無様にすっ転ぶ。本物の痛みよりも幻痛の方が厳しい。だがまだだ、俺はまだ負けちゃいねぇ……! 見せてやるよ、人間の可能性ってやつを!!
極限の集中。精神を入れ子構造にする。幾重もの箱庭を、内面に展開するイメージ。ノノカ相手には時間稼ぎになるかも怪しいが、一秒、いいや、刹那の時間で事足りる。
過負荷にどろりと鼻血が垂れる。知ったことか。刹那を永劫にまで引き伸ばし、無限の中で知る限りのエロ妄想を繰り広げる。ノノカを襲うのは、無限を刹那に凝縮した究極のエロス……!!
カッ、と目を見開いてキメたところで正気に戻った。
やれやれ。俺としたことが我が神に何たる不敬。垂れた鼻血を指で拭き取り、てへへと笑って立ち上がる。神にセクハラをするだなんて、我ながらとんでもないことをしたものだ。
猛省していると、我が神から新たな思念。呆れる一方で、無駄に人間の可能性を見せつけられたとお褒めの言葉をいただく。ははーっ、恐悦至極であります! 歯向かった愚か者をお許しいただけだけでなく、まさかお褒めになるとは! その度量、感服する他ありませんな!
とりあえずお世辞を言えるだけ言っておいたら、我が神は「それはいいけど……」と、端切れの悪い言葉を返す。どうした? 精神性よりも外見を褒めて欲しいお年頃か? 贅沢言うなよ。
俺の思考を無視して、我が神は仰る。自由意思を奪うほどガチガチに術をかけてはいないが、俺の力で解けるような術でもない。何か心当たりはないか、と。
知らんがな。可愛い下僕の何を疑ってるんだ。まったく、高次元に到達した魔術師だか何だか知らねぇけどよ、思い上がりがある証拠だぜ。何もかもを自由にできる力はあるのかもしれないが、お前はそうしていない。あえて不完全を貫くなら、不測の事態は起きて当然ぐらいの気構えでなくちゃ。
あ、偉そうなこと言いましたけどこれはただの一般論というか、我が神への批判ではなくて、その……上手い言い訳が思い浮かばなかったので、俺はあられもない姿の我が神をイメージした。
いぎっ!? ち、違いますぅ……! 反抗しようとしたわけじゃなくて信仰、そう、偶像崇拝の新たな形ですぅ~! 面倒臭い小娘だなぁ、なんてちょっとしか思ってません!
襲いかかる怒りの思念による頭痛に耐えつつ、宥めすかしておく。すぐに痛みが治まったので、またもや許されたようだ。へっ、甘ちゃんめ。代わりに深い呆れの思念を感じるが、気にせず行こう。
俺はまた電動スケボーに乗って走り出す。向かう先は家ではなく、我が神に命じられた場所だ。
昨夜、ゲオルで俺の記憶を無理に搾り取りやがった時、引っかかるものがあったらしい。何もない筈だと言ってるのに信じてくれない。我が神のためなのだから不満は一切ないし、忠義を果たす喜びも感じているのだが、面倒臭いもんは面倒臭い。俺は部活後で腹が減ってるんだ。
さっさと用事を済ませてしまおうと、裏道も駆使して電動スケボーをトバす。そうして辿り着いたのは、住宅街からも少し離れた場所。初夏には百合とも訪れた、俺の思い出の寂れた神社だった。
「……やっぱ何もないように思うんだけどなぁ」
ぼやきながら、電動スケボーから下りて鳥居をくぐる。
境内は相変わらずの荒れ模様。季節のせいもあってか、以前に訪れた時よりも雑草の背が高い。形だけを見れば確かに神社であり、機能だけを見れば廃墟でもある、そんな場所だ。
思い出こそ尽きないがそれだけ。特に変わったところもないし、俺にとってここはやっぱり終わってしまった場所だ。誰かに頼まれなければ、二度と足を向けることもないだろう。
「な? 言った通りだろ。気も済んだだろうし、もう帰ろうぜ」
声に出して我が神に伝えると、少しの間を置いて反応があった。
思念による曖昧なものではない。ちゃんとした声が、脳内に響く。
(やっぱりだ。無自覚なんだろうけど、兄さんはここを避けてるね)
む。そりゃあ違う。だって見ての通り、ここには何もない。
こんな終わってしまった場所に、何かがある筈もない。
それともお前には、何かがあるように見えるってのか?
(……特にこれといったものはないね。土地神を祀っていたようだけど、信仰が絶えて久しいのか、もう空っぽだ。確かに兄さんが言うように、ここは終わった場所だよ)
ほらな? お前が視てもそうなんだから、いくら粘っても収穫はゼロだ。
空振りに終わって悔しいのかもしんねぇけど、さっさと帰ろうぜ。
(違う。何かがないと駄目なんだよ)
……やけに真剣な声音だったが、だからどうした。ここにいても得るものはない。
俺は帰ってしまおうと足早に歩き出したが、その歩みを無視してノノカは言う。
(スピカさんのことだ。兄さんを通してとはいえ、私の魔術に抵抗できるのがおかしい。
その由来となるものが、ここにあると私は思った。格にもよるけど、神の加護を得ているなら抵抗できる可能性はある。逆に言えば、それぐらいしか可能性はないんだよ)
それに関しては、気にならないと言えば嘘になってしまうだろう。
だが許すのは調べることだけだ。手を出そうとするなら、相手が神でも俺の敵だ。
(今のところはただの好奇心さ、安心しなよ。
でもね兄さん。ここにはきっと、何かあったんだよ。兄さんの記憶を覗いた時だって、ここだけは覗けなかった。強引な真似をしたら、それこそ兄さんが死んでもおかしくないぐらい、がっちり記憶に蓋がしてあったんだよ)
そう言われても心当たりがないのだから、答えようがない。
特に害があるわけでもなし、分からないことはそっとしておくのも手だ。真相を掘り起こしたところで、愉快な話にならないことはいくらでもあるのだから。
(そうなんだけどねぇ……ま、いいか。どうもこの話題、兄さんの地雷みたいだし)
分かってるなら言わなくていい。
理由は分からないが、この件を追求されるのは気分が悪い。
すっきりしないのは確かだが、ここはもう終わった場所なんだ。
ここから何かに辿り着くようなことは、あってはならない。
俺は苛立ちを吐き出すように息を吐いて、今度こそ神社を後にした。
○
ゲオルにログインした俺は、柔らかな感触に包まれていた。
これまでなかった出来事に一瞬だけ混乱したが、すぐに原因が判明する。俺のログアウト位置を正確に覚えていたらしいのーみんが、ログインによって出現した俺をホールドしていたのだ。
場所はドヴァリの宿の一室。ベッドに腰掛けてログアウトしたので、俺は今、のーみんの膝に座り、後ろから抱き締められているという形だ。
…………現状把握に数秒を追加して、温もりと柔らかさをしっかりと堪能する。心が決意で満たされるようだ。それから深呼吸を挟んで、俺はようやく口を開いた。
「よう、のーみん。これは?」
「んー?」
耳元で甘い声。
「にひひ。こうしたらがっちゃん、独り占めできるかなって」
俺はのーみんを振り払って立ち上がり、逃げるように部屋を飛び出した。いや違う、逃げるように、ではない。文字通りに恥も外聞もなく逃げ出したのだ。
勝てない……! 別に勝負ではないんだけど、勝てないよあんなの……!
不覚にものーみんにときめいてしまった。あるまじきことだ。いくら不意打ちだったとはいえ、自分自身を許せないぜ。のーみんだけは、そういう枠じゃなかった筈なのに……!
だが今は敗北を認めよう。のーみん。今夜のお前、最高に可愛かったぜ。
敗北を受け入れたことで、俺はまた一歩成長できた。
(兄さんさぁ……)
黙らっしゃい!! いくら我が神でも、これだけは異論を挟ませない。
ゲームと同じだ。今夜ののーみんは、ラスボスみたいなもの。それがいきなり襲いかかってきた上に、対峙する俺は経験値が足りていない。勝てるわけがない戦いだったのだ。故に逃走は決して情けない選択ではなく、生きてこの経験を少しでも糧にしようとする、勇気ある撤退なのだ。
(いや、まあ。兄さんの言ってることは、一理あると思うけどさ。
今更抱き締められたぐらいで、その反応はどうなのさ?)
やめろ。俺を高く見積もれば見積もるほど、俺が惨めになるんだぞ。
こう見えて俺は純情ボーイだからな。女と手を繋ぐだけでもドキドキしちまうのさ。
何やら困惑の思念が伝わってきたが、ま、価値観の違いってやつだろう。
理解してもらうことは諦めて、俺はそそくさとドヴァリから撤退するのであった。




