第二話 流星、巨星を掴む
翌日。遅くまでヨーゼフと仕込みをしていたせいで、起きるのは随分と遅くなってしまった。
朝と言うよりは昼のような時間帯。外では今日も元気に蝉が夏を謳歌しているが、それよりも気になるものがある。俺は上体を起こして、目を擦りながら問いかけた。
「……お前ら何やってんの?」
「あ、おはよう兄ちゃん!」
「うん、おはよう。――で、何これ?」
奈苗がいるのはまだいい。よく部屋を片付けてくれるし、勝手に入って本を読むのも許そう。お前ごときには秘蔵のエロ本をどこに隠しているかなんて、決して見抜けない。
だが奈苗だけではなく、何故か茜と朝陽までいる。わけが分からないよ。
「おはよう、幹弘さん」
「お邪魔してまーす」
「うん。挨拶はいいから、誰か説明して?」
まあ状況は何となく分かってはいる。
部屋には折り畳みテーブルが持ち込まれており、その上にはノートや教科書が広げられている。きっと夏休みの宿題だろう。問題はどうしてそれを、俺の部屋でやっているのかだが。
困惑し続けている俺に、ようやく奈苗が説明を始める。
「一緒に宿題しよって話になって、それなら兄ちゃんも混ぜちゃえって。兄ちゃんなら一年前にやってるんだし、分からないところあったら聞けるもんね!」
いかにも名案でしょ、といった感じでご満悦な顔をする。そうか、そうか。お前ら学校違うだろって思ってたけど、困った時に俺を頼るという目論見なら些細なことだ。この際、俺に黙って実行したのも些細なことだと思ってやろう。
だが残念だったな、と。俺は笑みを浮かべて口を開いた。
「どうして俺が手伝ってやらなきゃいけないんだ?」
「いいじゃん。可愛い妹の頼みだよ」
「いねぇよ」
「ここにいる!」
「目を覚ませ」
大切な妹であるのは確かだが、可愛いかと言えば話が別だ。思い上がるな。
頬を膨らませて怒る奈苗を無視して、俺はベッドから下りて言う。
「とりあえずメシ食ってくる」
半端な時間だし、昼を食べられるように軽くしておこう。
その後は……まあ俺も宿題はやらなきゃいけないし、たまには真面目にお勉強するのも悪くない。頭を下げて頼むのなら、あいつらの勉強を見てやってもいいだろう。
決して情に絆されたとか、可愛い妹のためだとか、そういうのではない。俺も宿題をしようという気分になったから、そのついでに恩を売っておくだけなのだ。
――で、メシを食って戻り、仕方ないなぁと宿題を見てやっているわけだが。
高一の問題なら……と思った俺は愚かだった。特に数学は、むしろ俺が教わりたい。いや公式を使えばいいってのは分かるよ? 分かるけど、式を組み立てるセンスみたいなもの、あると思うんだよね。俺にはそれがない。これはそういう話だ。
英語は概ね大丈夫ではあるんだが、油断するとFワードが混ざるので駄目だ。洋ゲーというか、外国人とのマルチプレイで鍛えた実戦英会話が、確実に俺を蝕んでいる。
そんな有様なので、俺の担当は主に古文と漢文になる。これらは姐御の趣味の話に付き合わされた結果、無駄に詳しくなってるしな……テスト勉強しなくたって、それなりの点が取れるレベルだ。
で、そんな感じで勉強を見ていると、それぞれの得手不得手も見えてくる。
例えば奈苗は文章題に弱い。問題文が何を問うているのか、読み取るのが苦手なのだろう。逆に茜は読み取り過ぎと言うか、深読みし過ぎて脱線することがある。出題してる人、たぶんそこまで考えてないよ。
朝陽は文章題にこそ強いものの、計算が苦手なようだ。数学ではミスを連発して苦しんでいる。茜は数学なら迷うことがないからか得意らしく、よく朝陽のフォローをしていた。
あ、奈苗は暗記が得意と言い張ってました。ウケる。
そんなこんなで宿題を続けた後、そろそろ飯時だからと切り上げて休憩する。
母さんには奈苗がもう話を通してあるようで、茜達もうちで昼を食べるらしい。ああ、道理で母さんに挨拶した時、でかい鍋を出してたわけだ。素麺でも茹でるのだろう。
しかしまあ、真面目に宿題やったから結構進んだよなぁ。俺はあんまり計画的にやる方じゃないから、毎年のように夏休み終盤に苦しんでいたのだが、今年は楽をできるかもしれない。
そんなことを考えていると、不意に朝陽が部屋の中を見回しながら言った。
「先輩さー。何度か上がらせてもらったけど、意外と部屋綺麗だよね」
「こう見えて整理整頓はちゃんとするからな」
「嘘ばっか。兄ちゃん服とか脱ぎっぱなしにするから、片付けてるの私じゃん」
見栄を張ろうとしたら即座にバラされた。悲しい。
とはいえ奈苗にヘソを曲げられても面倒なので、まあまあ、と宥めておく。
そこへ茜が口を開いて、
「奈苗ちゃんがやってあげてるんだ。偉いね」
「むふー。兄ちゃんにも茜さんを見習って欲しいですな」
その時、茜の視線が僅かに泳ぐのを見逃さなかったのは、俺ぐらいなものだろう。
ははーん……さてはこいつ、部屋はそんなに片付いていないな? 先日のゲーム世界で生活していた時もそうだ、決して汚いわけではないのだが、物が多くて雑然としていた覚えがある。
茜にも弱点があったのだなぁ、と温かく微笑んでいたら、
「でもさナナちゃん。エッチな本とか見つけたらどうしてるの?」
害鳥が好奇心だけでした発言により、場の空気が一変した。
い、いや、大丈夫だ。隠し場所は完璧な筈。奈苗ごときに見つけられるわけがない。それにもし見つけていたら奈苗のことだ、騒ぐなり母さんにチクるなりしていることだろう。
「見なかったフリしてあげてる」
俺はそっと奈苗様に土下座した。今までありがとうございました。
そう、愛と赦しだ。この世には様々な愛の形があり、例えば愛によって道を踏み外すこともあるだろう。しかしその愚かさを赦すのもまた愛であり、赦しによって愛は保たれ、育まれるのである。
奈苗を通して何かの真理に到達した時、けらけらと笑う声が聞こえた。
「妹に頭が上がらなくなっちまったなぁ?」
そう言ったのは勝手に出てきた夕陽だ。
彼女は朝陽にもたれかかる格好で立ちながら、
「で、どんなの読んでんだ? 面白そうだから見してくれよ」
「馬鹿言うんじゃないの」
朝陽が背筋を伸ばして夕陽を跳ね除け、
「あんたまだ子供なんだから。そういうのは大人になってからにしなさい!」
「ちぇっ、お固いこと言うなよ。お前だって――へぐっ」
何かを言いかけた夕陽の腹に、朝陽の肘が突き刺さった。
さらに崩れ落ちた夕陽の頭を叩くと、その姿が薄らいで消える。ばっちり手綱握ってんなぁ。それはそれとして追求してみたくはあるが、かつてない虎の尾を踏む気がしたのでやめておく。
「まあ兄ちゃんも男の子だし、仕方ないかなーって思うんだけど」
そして奈苗様は一連の出来事を無視して、俺の味方をしてくれた。
やはり最後に頼れるのは血の繋がりだ。血は水よりも濃いのだ。
「最近はほら、ハーレムも作り始めてるみたいだし」
いや味方じゃなかった。俺と同じ血が流れてるなら、本性はクズに決まっている。
まあ奈苗の場合は天然で言ってそうだし、そもそもハーレムが何かを理解しているのかも怪しい。つーか仕方ないで済ませて、特に糾弾する気もなさそうなのが怖い。なんか怖い。
だが俺は俺自身の名誉のために、ここは否定しなければならないと声を上げる。
「何を勘違いしてるか知らねぇけど、ハーレムとか騒いでんのはのーみんだからな。
俺は一途で純情な青少年様だよ」
言った瞬間、どうしてか誰もが失笑した。解せぬ。
まだ抗弁の必要がある。だが何をどう言ったものかと悩んでいる内に、茜が微笑んだ。
「大丈夫。幹弘さんが一人じゃ満足できないこと、もう分かってるから」
「徹頭徹尾に誤解だからな? お前はのーみんに毒されてるんだよ」
俺はため息を挟んで、
「第一、一人じゃ満足できないって何だよ。
――茜と姐御がいりゃあ、それだけで充分だろ。な?」
そうだろう飼い主様?
同意を求めて微笑んでみたら、何故か朝陽がぼそりと言った。
「二人じゃん」
「兄ちゃん馬鹿だから本気だと思うよこれ」
どうして俺はこんなにも好き勝手に言われなくちゃいけないのか。ちゃんと否定しているのに、本気でハーレム目指してるようなクソ野郎扱いされるのは業腹である。
ぷんすかしていたら、不思議そうに朝陽が口を開いた。
「っていうかさ、先輩にとって飼い主ってどういう概念なの?」
「なんだ、そんなことか」
だが言われてみれば、誰かにちゃんと話したこともなかったように思う。
これもいい機会かと思って、俺はちゃんと説明することにした。
「まあ頭が上がらねぇっつーか、逆らっちゃいけない相手だな。
そんで甘えてもよくて、代わりに命を捧げてでも守るべき相手だ」
「――はい、集合」
朝陽はそう言って、茜と奈苗を集めて顔を寄せ合う。おいおい内緒話かよ、俺も入れてくれよ、と近付いたら「シャーッ」と威嚇されたので、部屋の隅で疎外感を味わっておくことにした。
三人娘の会話は意外と短く、すぐに結論が出たらしい。三人を代表する形で朝陽が言った。
「このハーレム野郎」
「よぉしそのケンカ買った!!」
リアルじゃなるべく女に手を上げない主義だが、関節技ならノーカンだ。
俺は素早いタックルで朝陽を倒すと、その左足を抱えてアキレス腱固めを極める。俺の場合、アキレス腱に骨を押し当てて激痛のみを与えるので、実に安全である。
悲鳴を上げた朝陽が即座にタップしたので解放してやる。朝陽は痛みのせいか息が荒く、薄っすらと涙を浮かべた目で睨みながら言った。
「あ、あたしは屈しない……!」
「降参してから言うなよ」
この変に意地を張るところ、夕陽にも悪影響出てると思うんだよなぁ。
朝陽には一度、しっかり教育する必要があるなと確信したところで、母さんに呼ばれたので昼飯を食べることになった。
○
ゲオルにログインした俺を待っていたのは、ツバメと夕陽のタッグだった。
昼以降も勉強会は続いたわけだが、朝陽が余計なことを言っては俺がシメるというパターンを何度か繰り返した結果、帰り際に首を洗って待っていろと、死の宣告をされてしまったのである。
今日はちょっとやり過ぎたかもしれない。
そう反省するものの、後悔はしていない。俺は拠点のリビングで、ソファーにふんぞり返って言った。
「ふん。一人じゃ勝てねぇからって、夕陽に頼ったか。情けないお姉ちゃんだな」
「なんとでも言いな! ガウス君は最近、調子に乗ってると思うので、立場を分からせてあげようっていう善意……善意だよ」
クソが、開き直りやがった。善意と口にした時、若干ながら言い淀んでいたのは、まだ良心の呵責があったからだろう。どう考えてもただの復讐なのに、善意と呼ぶのは抵抗があったのだ。まあそれでも言い切ったので、ツバメの邪悪化は順調に進行しているようだ。
一方、夕陽はうきうきとした様子で、
「あたしはどうでもいいんだけどな。ガウスとやれるってんなら、ツバメの味方だぜ」
このバトルジャンキーめ!
毎日のようにカルガモとケンカしてるせいで、夕陽はメキメキと腕を上げている。ぶっちゃけ俺の実力ではもう勝てない。耐久力なども含めた総合力で言えば、夕陽は既にカルガモ以上なのだ。
だが実力では勝てなくとも口では勝てる。俺はニヤリと野太い笑みを浮かべて、
「ツバメと一緒で楽しいのか? ツバメがデバフの使い手だってのは分かってるだろ。力を制限された俺じゃあ、いくら何でもお前を楽しませるのは無理だぜ」
「む」
「だからこうしよう。――俺に付け、夕陽。そしたら一対一で遊んでやるよ」
「悪ぃなツバメ! そういうことで!」
「あ、あんたねぇ!? あたしを助けようって気はないの!?」
「あんまり。だってガウスは敵じゃねぇだろ?」
あっけらかんと言うが、夕陽はわりと独特の価値観を持っているような気がする。
ま、ともあれ趨勢は決した。俺は夕陽に手招きして膝に座らせると、これ以上なく勝ち誇った顔で言ってやる。
「ヒャッヒャッヒャ! 残念だったなぁツバメ!
こいつは今日から俺の女だ、諦めるんだな!」
と、悪役ロールプレイをしたら、別方向からため息が聞こえた。
誰だと思って振り返れば、一連のやり取りを見守っていた姐御が腰を上げていた。
「ガウス君は新しい女がいいんですねー」
俺は夕陽を放り出して、膝をパンパンと叩いた。
ほらこっち! ここだよ姐御! ここ、姐御の指定席!
姐御は満足そうに頷くと、しかし座らずに視線を違うところへ向けた。
目の動きを追いかけると、そこにいたのはクラレットだ。姐御はどちらかと言えば優しい声で、クラレットに向かって問いかけた。
「どうです?」
何が。
そしてクラレットは首を横に振り、
「ちょっと駄目」
だから何が!
わけが分からず狼狽する俺だったが、そこで息を吹き返したようにツバメが笑った。
「あっはっはっは! 見捨てられたっぽいねガウス君!
女心を弄んだ報いを受ける時が来たんだよ、やっておしまい夕陽!」
よく分かっていない顔をした夕陽が、ノリに身を任せて飛びかかってきた。
流石にわけも分からないまま殺されてやるわけにはいかない。身を躱しながら夕陽の顔面を掴んで、力任せに横へ投げる。同時に立ち上がり、俺は地を蹴って走り出した。
「あ、こら! 逃げるな!」
ツバメが叫ぶものの、この状況ではとても戦えない。
飼い主二人までもが敵に回ったようなものだし、逆らえない俺としては逃げるのが正解だ。
だがこのまま終わる俺ではない。捲土重来を期して、次に打つ手を考えた。
○
「――けど、女心なんか分からねぇんだよぉ~」
事情を話して、俺はノノカにおいおいと泣きついた。
今日も露店を開いていたノノカは、泣き縋る俺を迷惑そうに引き離そうとするが、普通に力負けして諦める。そして本当にうんざりした様子でため息を吐いて、ようやく口を開いた。
「あのさぁ、兄さん。何で私なんだい」
どうして自分を頼るのか、疑問を呈して彼女は続ける。
「ま、頼られて悪い気はしないけどさ。残念ながら女心というか、若い子の心の機微は分からなくてね。こればっかりは私でも力にゃなれないよ」
「いっそ魔術で心を操ってくんね?」
「急に真顔で何言ってんだい」
ちっ、駄目か。もし可能なら楽勝モードだったのだが。
「まあいいや。そっちはほとぼりが冷めるまで、適当に逃げ回るから。
本当はさ、別の用件があって来たんだよ」
「あん……?」
話を変えた俺に、ノノカは胡乱な目を向けた。
構わず顔を寄せて、通行人にも聞こえないように声を落として続ける。
「お前、ゲーム自体は真面目にやってるよな」
「ああ、まあ。そりゃあね。普通に遊ぶ分には楽しいし、魔術で好き放題やったら興冷めだし。こういうのは他のプレイヤーと、同じ条件で遊ぶからいいんだよ」
「その言葉が聞けてよかった。――プレイヤーとしてのお前に頼みがあるんだ」
ヨーゼフとも話し合ったことだが、俺達のネックは商人への伝手がないことだった。
俺は基本的に客側だし、ヨーゼフも一個人としてではなく、クランの代理人として動くことが多い。何より少ない伝手を頼って動いた場合、行動が露見するリスクがあまりにも大きかった。
そこでノノカだ。クランに所属していないノノカは、決して顔が広いわけではないが、しがらみも少ない。さらにノノカというクッションを間に挟むことで、誰が仕掛けていることなのか隠蔽できるメリットまで得られる。
だからこそノノカを抱き込むのは、俺達の計画において最優先の目標だった。
そんなわけで何をするつもりなのかを打ち明けると、ノノカはまず呆れたように笑った。
「まるで保険金詐欺だ。兄さんらも悪どいことを考えるねぇ」
「嫌なら断っても構わないぜ。お前なら吹聴もしないだろ」
だけど、と俺はゲスい笑みを浮かべた。
「こんな面白いこと、お前なら見逃さねぇよなぁ」
「へっへっへ。兄さん、そりゃ言わぬが花よ」
ノノカもゲスく笑って手を差し出したので、がっちりと握り返す。
俺、ヨーゼフ、ノノカのドリームチームが、生まれた瞬間である。
だがまだだ。一歩前進だが、まだ計画を実行に移すにゃあ駒が足りてねぇ。
「じゃ、よろしく頼んだぜ。俺は次の仕込みに行くからよ」
ノノカにそう告げると、俺は露店を離れて臨時広場へと足を向けた。
あの時は嫌がらせで仕込んだものだが、こんなにも早く役立つ時がくるとはな。
――待ってろトーマ。次の獲物はお前だ。




