7―3
加藤が用意してくれた、隠れ家に戻ると、加奈はバッグに衣類を詰め込んだ。自分の物ではなく、鈴のものだ。他に、最低限必要な物はなんだろうかと考えて、余り荷物は多くないほうがいい、と思いバッグを閉じる。銃器はベレッタ、短針銃。ブローニングをお供に加えることが出来ずに、残念だ。
ふと、ガラスの中の自分と目がある。右目に埋め込んだ義眼は、あの時の戦車と同じ赤い色をしている。左の眼球と比べると、明らかに大きさがアンバランスだった。あまり、人間の顔には見えない。どちらかと言うと、サムライの改造手術に失敗したような感じになっている。人間としては不完全、それでももう以前のような欠落感は襲ってこない。このプラスティックケースとも、完全におさらば出来そうだ、と加奈はケースを槽に投げ捨てた。ピンク色の塗料が液体の中で剥がれ、ケースに穴が開く。中身が零れて細菌に分解され、消滅した。
もう、フラッシュバックに悩まされることはない。今の加奈には、生きる意味がある。
「鈴」
と声をかける。ベッドの上が、もぞもぞと動いた。加奈は鈴の身を揺するが、鈴は寝返りを打っただけで起きる気配が無い。無理もないか、と加奈は鈴を担ぎ上げた。
加藤にメールを送り、家を出たと伝える。ドアをロックして、キーを操作して設定を切り変えた。これで、この家は加奈ではなく加藤の静脈照合によってのみ、開かれる。
いくよ、と眠る鈴に声をかけた。バッグを背負って、一言、呟いた。
「すまないな、ショウキ」
加奈は鈴を車に乗せ、街の外れ――“門”に急いだ。
目の前に聳える“門”は、改めて見るとかなり巨大な伽藍であった。天高く立つ鉄の壁は、30mは下らない。ここを越えるのは骨が折れるなと思った。普通の人間ならば。
“門”脇の、無人のビルに入る。ここは先日倒産したばかりのナノバイオ企業のオフィスが入っていた所だ。“セイラン・テクノロジー”が業務を停止して以来、バイオ関連企業の倒産が相次いで、ここもその1つだった。複雑な気分だ、少なくともここで働いていた社員は何も悪くはないのに。
屋上へ出ると、“門”の頂きを臨む。
直下には、鈴がいた“燕の家”があった。建物は修復され、明かりが灯っていることから、おそらく業務を再開しているのだろう。
「かな……さん?」
と鈴が目を覚ましたのに、加奈は鈴を下ろした。
「起きたか」
「あ、はい。おはようございます」
「ん、おはよう。すぐに、目を覚まさせてやるよ」
と言う。怪訝そうな顔をしてくるのに、加奈は鈴を抱え込んだ。
「あ、あれ、なんですか? ここどこですか?」
「ちと怖いかもしれないが、しっかりつかまってろよ」
「は、ええ?」
鈴が聞き返す暇も与えず、助走をつけて、“門”に向かって跳躍した。
風の塊が、顔を叩いた。鈴が小さく声を上げ、ぎゅっとしがみついてくる。ビルの高さもあって、案外スムーズに移動ができた。
「すまないね、もう目を開けていいよ」
鈴に言うと、加奈にしがみついたまま、恐る恐る目を開けた。
「わあ」
と鈴が、感嘆の声を洩らす。横浜の街が、“門”の上から一望できた。企業プラント、企業ビル、高速道路上を、テールランプが尾を引いて、広告塔の上には青白い虚像、ホログラムの周りをAIの飛行船が旋回していた。
これも見収めだ、と加奈は思った。ここから先は“中間街”、文明とテクノロジーの進歩からは見放された土地。でもいいんだ、と加奈は思う。この子がいれば、何だって出来る。そんな気がした。
行くか、と踵を返したとき。
《加奈!》
デバイスにショウキの声が響いた。心臓が、爆発しそうなほど早くなるのを感じる。下界を見下ろすと、加奈が乗り捨てた車の所に人影が。右の光学義眼で拡大すると、ショウキがバイクに跨ったままこちらを見上げてきていた。
《加奈、どういうことだよ。勝手に行くなんて。俺も行く、っていったろう!》
唇の動きを、デバイスに響くショウキの声と重ねる。ショウキは珍しく、興奮していた。激昂とも、詰問とも、懇願ともとれる、それらが入り混じった感情を滲ませて。
「ショウキ、すまない」
と加奈は端末に向かって言った。
「わたしは、あんたは残るべきだと思うんだ。あんたを巻き込むことは」
《巻き込むじゃねえ! 俺が行くって、俺がお前を助けるって言ってんだ。誰でも無い、俺がそうしたいって!》
悲痛な叫びに、聞こえた。腕の中で、鈴が不思議そうな顔をしている。
「でも、わたしは……この子を」
《またそうやって一人で抱え込みやがって。俺を頼れと、言っただろう。お前の相棒は俺なんだ、俺を……少しは信頼してくれてもいいだろうがよ……》
また、込み上げるものを堪えて加奈は言った。
「あんたまでいなくなったら、“特警”はどうなるんだ? この街にも、街の外にも問題は山積みだ。あんたが、“特警”を、この街と、“中間街”を」
それに……と加奈は言いよどんだ。
それに、ショウキ。都市を出れば、あんたはきっと苦労する。都市の内部でも差別される移民のあんたが、外に出れば――わたしのために、ショウキが苦しむなんてことは、耐えられない。それを口に出せば、ショウキはきっと「余計な気遣いするな」と言う。その厚意に、甘えてしまう。それじゃダメなんだ。鈴を守るって、決めたからには。誰かに甘えては、あの気持ちが嘘になる。だから――
「ごめん、ショウキ」
《謝るな、謝るなよ加奈! 謝るくらいなら、戻って来い。俺を、頼れよ。俺はお前のためだったら――》
それ以上言わないでくれ、ショウキ、と鈴の手を握り締めた。そんなことされたら、あんたの手に縋り付きたくなる。今すぐここを降りて、その胸に飛び込んでしまいそうになる。
「ショウキ、あんたはわたしのために生きる必要は無い」
こみ上げてくるそれを、胸の奥へと押しこんで、言った。
「自分のために、生きてくれ。わたしも自分のために生きるから――この子とともに、生きてみせるから。だから」
元気で。そう言うと都市に背を向け、荒涼の“中間街”に対した。
たまらなく痛い衝動が、溢れてくる。左目が熱く燃えて、頬を流れる雫はただ一筋。片方だけでしか泣けない、というのは思いの他つらかった。
《加奈!》
と言う声がして、振り返りたいのをこらえた。大丈夫、1人じゃない。そう言い聞かせる。施設にいた頃は1人だった、でも今は違う。腕の中の、自分の分身をきっと守ると。
“中間街”に、身を投じた。
《加奈、聞いてくれ。俺は、俺は……お前を――》
それが、最後だった。電波障壁が通信を切り、もう二度と響くことはなかった。
その後、“中間街”ではある噂を聞く事になる。
旧式の義眼を埋め込んだ女が、妹だか娘だか分からない少女と共に、便利屋家業のようなことをやっている、と。その女は、依頼されればどんな汚れ仕事でも請け負うが、筋の通らない仕事はどんなに割りが良くても絶対に受けない、という“中間街”ではあまり聞かない話だった。
義眼の女と少女、それが誰なのか、都市の人間の殆どは知らない。だが、一部の人間にとっては、忘れ得ぬ者たちであった。
ショウキは天を仰ぎ見る。誰かが笑う、声がする。公園のブランコに、5歳くらいの男の子が乗っていて、母親がそれを押してやっていた。ショウキは微笑み、そして立ち上がって公園を後にした。
その後、ショウキの姿を見たものはいない。
fin
ここまでお付き合いいただき、ありがとうございました。