7―2
横浜市内に警報が響き渡るのを聞きながら、共同住宅と多層型建築物の間をすり抜け、加奈は走る。建物の隙間から広告塔の彩色が、格子状のネオンライト、紫水晶の粉をまぶしたような光となって煌く。青白いサーチライトが闇を切り、上空には都市警のヘリが飛び交っていた。
右目に埋め込んだ義眼が、闇を捉える。
視神経はついに修復出来ず、機械製の目を埋め込むことになった。光学レンズと網膜スクリーンと同様の機構を備えているものの、まだ違和感を拭えない。微細サイズではなく、5年前まで主流だった大型な機械の義眼、ショウキのことを古典的などと言えないな、と思った。
ベレッタ拳銃を構えて、壁に背をつける。巡回中のパトカーが沿道を埋めて、防護服姿の警官立ちが走り回っている。
ここもダメか、と加奈は住民たちが寝静まっている共同住宅の壁に足をかけ、一気に3階部分まで跳躍した。そのまま建物の裏手に着地し、身を潜め、パトカーが過ぎるのを待つ。
「よお」
と暗闇で声がして、加奈は銃を構えたが
「俺だよ」
という声に、胸を撫で下ろす。ショウキが、例のジャケット姿で立っていた。
「奴ら、行った?」
加奈が訊くのに、ショウキは
「しつこさは横浜市警の専売特許だもんなあ」
と、真面目に言ってるんだか冗談めかしてるんだか分からない科白を吐いた。
「鈴は?」
「加藤が預かってくれているけど……見つかるのは時間の問題ね」
と加奈が言った。
「納得いかねえな、どうして今回の事件、一番の功労者たるお前が追われるんだよ。しかも鈴まで」
そう言ってショウキは、加奈の右目に手を伸ばして言った。
「こんな目に、遭ってまで。お前が」
「あいつらにとって見れば、それは大して意味は無い。それに、クローンが人間だって、裁判所が認めたわけじゃないし」
加奈はそう言って、自嘲気味に笑って見せた。
「国にとっては、未だにわたしは反逆者、鈴はテロリスト、ってわけ。新しい総統からもお達しが出ているようね。捕まえるようにって」
「ふん、あいつらなら捕まえるどころか」
ショウキがいいぞ、と言うと加奈はようやく立ち上がった。
「この事件、政府の実験が明るみに出たはいいが、結局お前たち2人のことは有耶無耶なままだ。クローンは未だに物扱い、“中間街”に大衆の目が向けられたわけでもない。何のために、やったのやら」
「まあ、これで政府の体質が変わるというわけでもないしね。あの施設に関わっていたのは、前総統中森以外でも、与野党の議員が携わっている。養父以外でも」
と言いかけて、加奈は開きかけた唇を閉ざした。俯いて、ゆっくりと毒を吐くように
「……晴嵐幸雄以外にも、多くの企業人が関わっていた。経済へも打撃を与えるだろうから、しばらくは国内中混乱するわね。“特警”が無くならなかったのが、せめてもの救いだわ。ゲリラと共闘していたことも、お咎めなしで」
「でも、そこにお前の居場所は」
「仕方ないさ」
と加奈は言った。ショウキは金鵄を咥え込み、火をつけた。
「ショウキ、わたしにもいいかな」
加奈は、ショウキが握り締めた金鵄を示して言った。
「禁煙したんじゃないのか」
「今は、鈴がいないから」
そうか、とショウキが一本渡してくる。フィルターのない、復刻版の煙草は、ニコチンの香りがより強く、感じられた。ショウキから火を貰うと、およそ1ヶ月ぶりとなる煙を肺に落としこむ。
「ショウキ」
と加奈は、紫煙を吐きながら言った。
「寄りたい所がある」
港を一望できる、小高い丘にその墓地はある。
加奈は墓前に花を備えた。墓標には“阿宮涼子”とある。その名前に寄り添うように、“阿宮正治”の名が。涼子の死と、涼子に弟がいる、と聞いたのはつい最近のことだった。
「きっと、涼子は」
と加奈が、手を合わせながら言った。
「誰かに相談したかったんだろうね。ずっと抱え込んで、でも誰にも言えなかった。わたしにも……わたしがもっと気づいていれば」
「この街は」
ショウキが言った。
「他人に対して、どうしても無関心になるように出来ている。その中で、お前さんは最後まで阿宮の親友でいたんだ。あいつも、感謝しているさ。きっと」
加奈は立ち上がった。涼子が言っていたこと、きっとあれは自分に言い聞かせていたことなんだろう。データではなく、人対人、涼子が人との関わりを大事にしていた理由が、いまさらながら分かる気がする。だれかと、面と向かって話せていたら――そういう相手が他にいたら、こんなことにならなくても済んだかもしれない。悔恨が胸を食むのに、目頭が熱くなる。右目はもう涙を流すことを忘れてしまった、左目だけで泣いた。
「あいつも、李飛燕も、その辺を理解していたんだろうな。この街の連中より。鈴のDNA、もう1つの方が分かったぜ」
ショウキが煙草に火をつけて、言った。
「もう1つって」
「あの子、キメラだろ? 2種類のDNA鎖を持っている。1つはお前の遺伝子で、もう1つは飛燕のものだった」
「飛燕の? じゃあ自分のDNAとわたしのDNAを混ぜて、あの子を生み出したっての?」
何のために、と加奈が言うと
「多分、子供が欲しかったんじゃねえかな。お前とのさ。あいつ、本当は鈴をお前の替わりとして、じゃなくてたった1人の人間として、生み出したかったのかもしれない。お前の遺伝子の方が優生だったから、お前に似てきた鈴を、かつての『桜花』に重ね合わせすぎたのかもしれん」
今となっては分からんがな。ショウキがそういうと、飛燕の今際の姿が思い出される。何かを言おうとした。あれは何だったのだろうか――きっとあの時、本当の気持ちを伝えようとしたのだ。人対人で、データの送信ではなく。
「皮肉なもんだ。人権を高らかに謳う人間より、テロリストの方がよっぽど人間らしかったってわけかね」
しばらく、涼子の墓を見つめていた加奈が唐突に切り出した。
「わたし、この街を出ようと思う。鈴と一緒に」
ショウキは、目を丸くして
「出てどうするんだよ」
と言って、煙草の灰を落とした。白くなった燃えカスが闇に溶けるように消える。
「ろくに設備もないところに行っても、お前の身が持たないぞ。鈴のためを思えば、この街じゃあの子は生き辛いだろうよ。でも、あの子が一人前になるより先に、お前が逝っちまったら」
ショウキは、煙草の煙が沁みたのか、目元を押さえた。
「外国に行けば、少しは設備が整ったところがある」
加奈は言って
「“中間街”も、国内全ての“中間街”って呼ばれる土地を見たわけじゃないしね。どうにか生き延びる、ことは出来るよ。保障はないけど、でもこの街にいるよりかは……」
「そうかい」
ショウキは言うと、煙草を投げ捨てた。
「なら、俺も行く」
「……えっ?」
加奈は驚いて、顔を上げた。
「言ったろう、お前を援護する、それが後衛の仕事だってさ。お前さんがついてりゃ、鈴も安心だろうけど。やはり、金属錯体や炭素同素体導入したその体じゃ、いつ血管が詰まるか分からないだろう。だから、俺もついていく」
そう言って右手を、加奈の手に置く。加奈を、抱き寄せるように。金属製のはずなのに、触れられたところが温かかった。機械の廃棄熱だろうが、ショウキの体温のように感じた。
加奈はその手に、自らの手を重ねた。
「あんたまで、巻き込むわけには」
「俺が好きでやるんだ。別に構わんさ」
「そう……」
加奈がショウキに寄り添うと、ショウキが包みこんでくる。ショウキの心臓の音が、聞こえた。
「すまない」
加奈は小さく、呟いた。