6―12
炎が、いよいよ勢いを増す。
足の傷は思ったよりも深く、立ち上がることは困難であった。
天井が焼け落ちて、燃えた柱が行く手を阻む。視界に広がった紅蓮の炎、鈴がしがみついてくる。
ここから逃げなければ――自分はともかく、鈴が1人では。もうこの校舎は長くは持たない。いつ、崩落するか分からなかった。老朽化がもともと激しくて、普通に建っていたことも奇跡なのだから。
火の粉が頬に爆ぜるが、感覚が麻痺しているのか熱さは感じなかった。だが鈴の方は、熱気に当てられてぐったりとしている。体力も、相当使っただろう。このままでは危険だ。
「晴嵐さん!」
と呼ぶ声が、救いをもたらす声となった。
「秋水か?」
カーキ色の軍服が見えるのに、加奈はほっとする。炎の向こうに、秋水がいた。
「鈴」
としゃがみこんで言った。
「あそこまで、走るんだ。1人で。できるか?」
「1人で、ですか」
「1人だ」
もう一度、強調する。
「加奈さんはどうするんですか? こんな所に残ったら――」
「すぐに行くよ、大丈夫だ。足の止血をしたら、すぐに」
安心させるように、笑いかける。鈴は頷いた。目を伏せて、加奈の頬に口付けた。
炎が、爆ぜる、音がする。
「きっと、待っています」
照れたように笑って、言った。
きっと。もう一度言うと鈴は走った。遠くなる背中、秋水が鈴を抱きすくめ、その後、軽く会釈した。
「きっと、か」
加奈は苦々しく笑う。すまないね、嘘をついて――この足はもう、動くことはない。完全に粉砕された足を引きずって、飛燕の隣に腰掛けた。
「何か、こうなるといっそすがすがしいね、飛燕」
と話し掛けるが、うつぶせに倒れたままの飛燕が応えることはなかった。
構わず、話す。
「あんたさ、あの施設で野良猫、飼っていたじゃない? 皆に内緒でさ。猫なんかとじゃれて、最初は馬鹿じゃなかろうか、って思っていたんだよわたし」
天井が崩れて、足元に落ちてくる。炎が肌を焦がした。
「猫が死んで、あんたは涙流していたよね。涙、っていうのは目を洗浄するものだって教わっていたからさ。最初、目にゴミが入ったと本気で思っていたよ」
と言って、飛燕の頬を――すっかり冷たくなった頬に触れた。
「施設ではさ、皆そう。誰かに命令されて、機械みたいになっちまうんだ。でもあんたはそうじゃなかった。あの猫が死んだとき、あんた本気で泣いていたね」
炎の舌が脳裏に浮かび、それが現実の炎と重なる。フラッシュバックが駆け抜けて、そのどれもに飛燕の姿があった。
「あの後、わたしを探していた、ってあんた言ったよね。わたしも、ずっと探していたのかもしれない。軍から、“特警”に入って。あの時、野良猫が死んで哀しいと言っていた、あの子供を捜していたんだ。フラッシュバックに蝕まれながらも、“中間街”に降り立って。その少年は見つからなかったけど、あんたもわたしを見つけられなかったから、おあいこだね。ねえ飛燕」
と言って、飛燕の手を握り締めた。
生白い手は、以外にもゴツゴツして、無骨な手だった。もっと女みたいに、綺麗な手かと思ったが、年月を刻んだ手は大きく、固い。きっと飛燕、あんたはすごい苦しんだんだろうね。誰にも、何にも言えず。苦しいんだとも、言えない。それはきっと、想像以上につらいことだろう。自分はそれでも、傍には誰かがいた。その誰かに弱音を吐くことだって可能だった。でも、あんたは――死ぬときでさえ、ひとりぼっち。
「せめて、わたしが一緒にいて上げる。迷惑だって言っても、離してやらないよ」
この手を――炎が、包みこむのを感じた。
自分は眠っていたのだろうか、気がつくと加奈は誰かの背の上にいた。
「気づいたか、加奈」
と言う声が、聞こえてくる。
「ショウキ、あんたか」
「なんだよ、そのがっかりしたような言い草。もっと何かねえのか?」
「何か、って何よ」
「……まあいいや」
とショウキがため息をついた。顔を上げて見る。まだ、自分は校舎の中にいた。炎の中、教室と廊下は全て火の海と化している。その中を、ショウキが歩いている。加奈を、肩に担ぐようにして、残った腕で加奈をの腰を支えていた。
「って、あんた。どこ触ってんのよいやらしい」
「ん、ああ気にすんな。感覚のない、義手だから」
「そういう問題じゃあないでしょう、デリカシーってもんをね」
「お、おい暴れるな。これでも結構大変なんだぞ、支えるのが」
加奈が足をばたばたさせるのに、ショウキが抗議する。しばらくして、加奈はようはく落ち着くと、ぼそりと呟いた。
「……助けなくても良かったのに」
「どうして」
「だって、あんたまで危険な目に」
「危険もなにもねえよ、これくらい」
そう言って笑う。太い首に、生々しい火傷が刻まれていた。嘘つき、と呟くがショウキには聞こえなかったようだ。
「加奈よ、もうちっと自分のために生きても、いいんじゃねえか」
ショウキが言うのに、顔をもたげて
「何が」
「鈴のため、って言ってお前が頑張るのはいいよ。でもよ、どうしたって人間、自分のこと考えなきゃやってけねえさ。誰かのためもいいけど、そればっかじゃなあ」
「そう……」
「バランスだよ、加奈。バランスが大事だ」
ショウキが、ずり落ちそうになった加奈の体を持ち上げた。
「わたしは不完全だから」
と言う。
「何が不完全?」
「でき損ない、なんだよ。わたし。欠如、施設ではそう呼ばれていた」
「なんだまた施設かよ」
「まあ聞きなって。ノックアウトマウス、っているでしょ? 実験用に遺伝子の一部を壊すマウス。施設から生まれる子供って、遺伝子を導入するだけじゃない。破壊して生まれる子供もいた。わたしは、生殖機能と感情因子の一部を欠如させられたんだ」
天井が崩れてくるのに、ショウキが慌てて飛びのいた。火の粉がかかる。
「で?」
「生殖機能がない、つまり犯りたい放題。感情が欠落しているから、哀しいとか悔しいとかない。わたしは、不完全な器だったんだよ」
「そうか」
とショウキが、沈鬱な声で言った。
「生殖機能がないから、わたしは生物として失格だって言われた。だから、せめて戦闘訓練で抜きん出てやろうって思った。でも、完全にゼロにはなれない、どこかブレる。ずっとそんな感じ、ピースが嵌らない、欠落」
ショウキは何も言わなかった。激昂したり、慰めたりもない。それで良かった。
「施設が無くなって、随分経つのに。未だにそんな気分なんだ。ヒトとしても不完全、かといって完璧な機械にもなれず。中途半端だよ、不完全な器。でき損ない」
「お前さんが、施設でどんな目に遭わされたか知らないし、分かるとも言わない。だが、それは違うだろう。不完全たって、皆そんなもんだ。人はさ。完璧な奴、見た事ねえよ」
炎が燃え上がるのを受けて、ショウキの足が速まった。
「今の社会、完璧を求めている感はあるよな。完璧な美、完璧な知、それらを満たすため、ナノバイオテクノロジーは医療以外でも応用されて。それでもどこか、取りこぼしはある。補い合って、生きているんだ、俺ら」
内側に何かが溜まってくるのを感じた。温かく、寂しさとも哀しさとも違う。今まで心に溜まるものなんて、不愉快な膿しかなかったはずなのに。
込み上げてくる、それが。
「感情因子が抜かれたとか、子を生め無いとか言うけど。でも知っているか? ノックアウトマウスってのは、遺伝子を破壊されても、別の因子でその破壊された遺伝子を補うんだ。生物ってのは上手く出来ている。あの時、俺に銃向けたお前の顔――覚悟決めた、って面だった。あの子の母親、やるんだって」
目頭が熱くなって、視界がぼやけてくる。やめろよ、馬鹿。わたしはもう片目しかないんだから、見えなくなったらどうするんだよ……
「お前はでき損ないじゃないさ。それは俺が、良く知っている。それでも足りないところが出て来れば、俺が補ってやるよ」
頬を流れるものが、涙だと気づくのには大分かかった。それほどまでに、ショウキの言葉が胸の奥底にまで浸透して――細胞間が満ちたりて、ゆく。
「そのために、俺がいるんだから」
「……馬鹿」
泣いていることを、悟られないよう。ショウキの背中に顔を押し付けた。
でき損ないじゃない、その言葉をずっと待っていたのかもしれない。誰かに、認めてもらいたかったのかもしれない。
ずっと見ていて、欲しかった。「加奈」として、受け入れて欲しかった。傷ついて、戦って、そんな加奈を「頑張ったね」と言ってくれる人が――そんな風に、言ってもらいたかった。
いつか見た少女が、泣いていた。堪えていた涙を押し流し、声を上げて泣いていた。その少女を抱きとめて、受けいれてくれる、何かがあって――その中に、加奈がいた。加奈を認めてくれる人の背で、嗚咽が洩れるのも構わず泣いた。
ヘリのローター音が、近づいてきた。