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都市外縁に日が落ちる。
黄昏色の騒音に包まれ、聳える鏡の壁面が橙を反射する。茜色に濃い群青が混じり始めると広告塔のネオンが灯り、車のテールランプがチューブ状の高速道路を走査線の如くに、横浜の街を駆け抜ける。それは血球の流動に似ている。レーザーが瞬いて、レインボーブリッジ上空に現れたのはホログラムの巨大な虚像だった。半透明な、幻影が折り重なって結合と分離を繰り返している。それが、夕闇をバックに青く薄く像を造る。
中心部から郊外へ伸びる道を走らせると、ビルの谷間から都市外縁を覆う黒々とした壁が見えた。この街で装飾のなされない建造物などないというのに、その壁は何も存在を主張するようなものはなく、ただ黒く聳えている。都市をぐるっと円形に囲むのは外界と内部を隔てる“門”だった。そこから一歩出ると“中間街”、血と臓物の臭いがするそこは都市の人間にとってはすでに滅んだ街だった。環境建築型都市が建設されると同時に、人々に棄てられた旧市街には秩序はすでになく。ただ、エントロピーの増大則のままに膨れ上がった混迷のスラム街が広がっているのみ。そこから新たな無秩序が持ち込まれぬよう、都市と“中間街”を隔てる“門”が存在している。
ゆえに、都市から出るものはいない。ここにいれば全て事足りる、出る必要がない。環境建築群は自己完結された都、生み出された資源は密集した人口をまかなう分だけ用意され、生産と消費、排出に至るまで全て“門”に隔てられた内側で行われる。都市間で流通はあるものの、殆ど全ての人間が都市の内部で生きる。この国にある都市、環境建築群は全ての消費と欲が凝縮された集合体である。こうした都市は、全国に12ヶ所存在している。
都市は発展しているというより、戻りつつあるのかもしれない。ギリシャのポリスに代表される都市国家に。環境建築の都市はそれ単独で、一つの国に匹敵する政体を持つのだから――電磁誘導の昇降機から臨む、ガラス越しに映される街の姿を目に焼き付けながら、そんなことを思う。
加奈は視神経に焼きつかれたデジタル表示を確認する。約束の時刻は10分ほど過ぎてしまっているが、まあその程度なら問題はないだろう。加奈が行くと言ったら1時間だって待っているような人だ、あの人は。“特警”本部、一階に広がる白く磨かれた大理石のフロアに降り立つと、果たして一人の初老の男がいるのを確認した。恰幅のいい身体をイタリア製のスーツに身を包んでいて
「加奈」
と大げさに手を広げて迎えた。
「遅くなってごめんなさい、お養父さん」
一応、謝罪の言葉を述べると
「なに、構わないさ。仕事急がしそうだしね、加奈が待てというなら1日だって待つさ」
やっぱりね、と加奈は苦笑する。養父、晴嵐幸雄は黒い髪に白いものが目立ち始めたとはいえ若々しい外見をしている。なぜか大げさに感情を表現することが好きらしく、お陰で加奈たちは注目の的となってしまった。とりあえず、行こうかと言って加奈と幸雄は駐車場へと向かった。
「一人で来たの? わざわざ静岡からここまで」
歩きながら加奈が問う。
「ああ、リニアで来た。横浜までなら、30分とかからない」
「そんな。危ないじゃない、護衛もつけないで。この間も主義者に襲われたんでしょう?」
1月ほど前のセイラン・テクノロジー本社襲撃事件を思い出して言った。ナノバイオテクノロジーが世界中で熱を帯びる一方、一つの事象に反駁する勢力というものは必ず現れる。一部環境保護団体や宗教団体は自然固有主義を掲げ、本来の人間にはない分子機械の体内埋め込みに反発している。反発するだけなら良いのだが、中には実力行使に出る連中もいる。過激な団体は主に企業を的にしている。都市内部にも、危険は存在するのだ。ゆえに、企業家は普通、民間警備会社から護衛を雇うのが常である。特に、ナノバイオ市場を独占する企業の頭ともなれば。
「セイラン・テクノロジーの社長が単身、しかも丸腰で出歩くなんて……」
車に乗り込みながら言うと、幸雄は笑いながら
「何、せっかくの親子の時間を邪魔されたくなかったからね。それに護衛だったら、世界一頼もしいボディーガードがいる」
親子、か。そう、なんの違和感もなく言える幸雄が少しばかり羨ましい。
「そんな期待されても、わたしが手に負えない奴だっているわよ」
言うと、エンジンをかける。水素が燃焼しモーターが駆動する音が耳に貼り付いてくるのに、アクセルを踏み込んだ。一度走れば、あとはAIの仕事だ。自動運転に切り替わる。
「それで、どうなんだ最近は」
幸雄が言うと、対向車線を流れる極彩色が黄昏の空に溶けて行くのを眺めて加奈は答えた。
「まあ、楽じゃないわね。特に最近は、腐れヤクザが……」
「加奈」
幸雄が咎めるように遮る。
「お前もいい年なんだから、言葉遣いには気を付けなさい」
「軍にいた頃の癖が抜けなくて」
と微笑した。海軍の中でも特に荒っぽい陸戦隊にいたからだろうか。あそこでは、女だからといって舐められないよう肩肘を張って息をしていた。それは今でも変わらない。そんなものだから、サムライと対峙するときも気がつけば自然と牙をむいている。
立ち塞がる全てのものを切り裂く、抜き身の刀。
幸雄がふうっとため息をついた。
「確かに、お前の体に埋め込んだマシンは軍事用。民間のソフトな分子機械じゃない。あの当 時はまだ、民間人が気軽に生体分子機械を埋め込むような時代じゃなかった」
「でも今じゃ、一人に100種類以上の生体分子機械が当たり前の時代。体内の微細マシンによる医療行為はおろか身体のデザイン、肉体強化まで幅広く手がける――セイラン・テクノロジー社製分子機械のキャッチコピーだったわね」
「だが、その生体分子機械とて限界はある」
幸雄は加奈の腕を見つめた。
「この間、怪我したと聞いた」
「ああ、あれね」
蟹の足を生やしたサムライの、最期の瞬間を思い出して胸がむかついた。粘液が顔にかかり、口の中に返り血の生臭い味が一杯に広がった瞬間、反吐が出そうになった。生理的な嫌悪感というより、異質な物を排除しようとする身体の防衛本能だったのかもしれない。移植した臓器が異なる蛋白質を受け付けずに拒否反応を起こすのに似ている。サムライの血、肉の全てが加奈にとっては異物。
「どうなんだ、その後」
「別に。お養父さんの生体分子機械と科学班のDDSマシンですっかり元通りよ」
先日刃が食い込んだばかりの肩を撫でた。自己修復機能を与えられた高分子マシンは、痕も残さない。
「大した傷じゃないわよ」
「そうか、ならいいんだけどな……」
幸雄はしばらく、外の光景を眺めていた。夜の帳が降り始め、企業のビルに明かりが灯る。赤紫の格子状のネオンが構造物の隙間を縫うように浮かび上がり、濃淡の影が躍るのを見て、唐突に口を開いた。
「なあに?」
「こっちへ戻ってこないか? 静岡に」
丁度その時、広告塔の青い光彩が緑色に変わった。
「お前は“特警”にいること、その仕事が天職のように感じているのかもしれないが」
とサントリーのウィスキーを傾けて、幸雄が言う。クリスタルに彩られたバーカウンターに2人して並び、煌びやかな街の灯を眺めている。
「正直、私はあまりいて欲しくないんだ“特警”に」
サファイアブルーをしたカクテルを喉に流し込む、手が止まる。
最初幸雄が酔っているのかと思ったがそうでもないらしい。真剣な目で、遠くを見るように。
「お前を拾ってから、もう15年になるか……」
グラスを傾けると、氷が音を立てて崩れる。店内の、少し暗めに設定された証明が透明な六角形のグラスに乱反射して映える。横浜の中心部にある、60階層のうち59階の展望バーは夜景が綺麗に見えるとのことでメディアでも取り上げられたほどだ。眼下に横浜の街を見下ろすことが出来る。高速道路、ソーラーシステム、共同住宅、そしてそれらを囲う“門”
そこから一歩出ると、“中間街”が広がっている。荒れた大地、廃棄物とわずかな草の上に脆くも危うい、錆びた鉄骨の都市が縋り付くように立っている。乾いた土くれのと石綿の空気が、瞼の裏に蘇ってくる。フラッシュバックが、粘菌のように入り込んで身体の内部を侵していく。
「伊豆の“中間街”で拾ったときは、さすがにもうだめだと思ったよ。全身大火傷でね、でも運が良かった」
幸雄はウィスキーを一口、含む。グラスを握る手は、深い皺が刻まれていた。
「感謝していますよ、お養父さん」
と加奈は口を開いた。
「死にかけのわたしに、ナノバイオ治療を施してくれたこと。そのお陰で、こうして生きている」
「ああ、それはいいんだよ。私も、あのままお前に死なれたくなかったからな」
幸雄は照れくさそうに笑った。
「だからこそお前にはあんなところに――“中間街”へ赴くようなことはしてもらいたくない。こっち側の、安全な環境建築群で。“門”の内側で暮らすことは考えたことはないか」
サファイアブルーに、一瞬だけ朱が射す。窓の向こう、夜の都市を縫うように航行しているのは民間のヘリから伸びるLEDの光だ。ローター音が近づいて、また遠ざかってゆく。旅行会社のクルージングヘリだった。何度も贅沢は出来ないが、偶の記念日に奮発してチャーターする、そういう類の人間を客に取る会社だ。ヘリコプターなどは、“ハチドリ”に比べれば運動効率はすこぶる悪い。生物の体内で変換される運動エネルギーは、ほぼ100%の効率を以って伝導される。対してモーターやエンジンなどの回転駆動系の機器は、その運動力の20%しか伝えられない。生物機能工学は、今まで無駄にされてきたエネルギーを全て使うためにある。体内のマシンもそう。体内の廃棄物を除去し、微細な傷や病巣を治癒する分子機械は、生物の持つゲル運動素子を用いて運動している。結局の所、人間が何百年とかけて試行錯誤してきた運動機器も生物の仕組みの前には適わなかった。それに気がつくと、産業界は即座に生物エネルギーに着目した。だが生物機能、分子モーターや生体エンジンの実用化は乏しく、実際には軍や“特警”が所持する空艦艇や多脚戦車にしか応用されていない。だから民間の車両や航空機は、未だに古くさい油まみれの回転駆動エンジンを用いている。あのヘリはおそらく、軍の払い下げを改造したものだろう。元値があまりかからないから、今ナイトクルージングは人気が高いのだ。
そのヘリが郊外へと滑りこんでいくのを見ながら、酒精を帯びた吐息をこぼす。
「お養父さん、でもこの仕事は……」
「分かっている。軍事用生体分子機械を備えた、お前にはぴったりの仕事だろう。だから、軍に志願したときも私は止めなかった。しかし、“中間街”、あれはいけない。あんな所に何度もいったら、身も心もだめになってしまう。お前、あの錠剤まだ使っているのだろう」
幸雄が言うのに、はっとして懐に手をやる。今日も、涼子に指摘されたばかりだったっけ。
「都市というのは、生きているのだよ」
グラスに目を落として幸雄が目を細めた。
「一見バラバラに動いている粒子が、ある目的のために吸着と結合を繰り返す。分解と合成、元素と分子の循環。生物の身体は、一瞬一瞬の粒子の交換によって保たれている。動的平衡、流れの中で形づくられる器。都市も同じさ。人々は一見、無秩序に。好き勝手なことをしているように見える。しかし、それぞれが己の生活のため、家族や会社のために生産と消費を繰り返し、そのダイナミックな流れが“社会”というシステムを作っている。この環境建築群の内部をな」
「相変わらず小難しい例えね。確かに、爪や髪は生え変わるけど」
「それだけじゃなく、骨も内臓もさ。蛋白質の交換は、常にされている。だけど、それがされなくなった瞬間、人は死を迎える。まさに、“中間街”がそうだ。あそこにいる人間は、生産も消費もない。ただ無為に時間を過ごしているだけ。そんなもの、生きていると言えるだろうか」
加奈は無言で、しかし言葉の一つ一つがのしかかってくるような感覚を覚えた。それは棘のように突き刺さり、そして重たい。
「あそこには死の匂いしかしない」
それははっきりとした拒絶とある種の嫌悪感を含んでいた。都市の人間が“中間街”を語るとき、決まって態度と口調に断定と否定を含む。法の及ばない、化外の地。“門”の外に出ることの愚かしさを、都市の人間は身を以って知っている。環境建築の閉じたコミュニティに人々が住むようになったのは、そもそもヤクザたちの武装決起、それに伴う治安の悪化によるものだと聞く。その、かつて痛手をこうむった人間たちが口をそろえて言うのだ、“ロクでもない”と。
「分かる気がするよ」
カクテル越しに下界を見つめると、湛えた青がかすかに揺れた。