6―3
例えば潮風に吹かれて、お気に入りの麦藁帽子が飛ばされた時のような――ひらひらと舞うそれが、決して手の届かない岸壁の向こうに行ってしまったときのような虚無感、手を伸ばしても届かないと言う、無力感。胸に穴が開いてしまったような、そんな空虚な思いが、広がって――夢の中から引き上げる、意識の残滓は黄昏の色をしていた。
届くはずが無い、求めれば求めるほど。きっとそれは、永遠に手には入らない。鈴が感じたのは、喪失した空間に置き去りにされた、自分自身の姿。周りには誰も何も、無く。空を掴んだ手指は、千切れそうに冷え切って――それでも、この何も無い場所で自分は――
ふと、温もり感じた。
目が覚めると、肩にはジャケットがかけられていた。
「加奈さん?」
ジャケットを掴み、立ち上がる。辺りを見回して見ると、そこはどこかの廃墟の中だった。
辺りにはガラスやコンクリートの欠片が散乱している。長い夢を見ていた気がして、加奈の名を呼んでみる。自分の声が空間に溶けてしまうような、心地がした。一歩、足を踏み出す。ぱり、と乾いた音を立ててガラス片が砕けた。
どこにいるの、と懇願する声が、自分以外の何かが発しているように聞こえる。胸の中に空洞が広がっていって、虚しいとか哀しいとか、そんな感情でも説明のつかない――埋りきらない、欠如した空間が生み出されていくのが分かった。欠落した、思い。虚無が支配する。
「加奈……さん」
昏い目、きっとそんな顔しているのだろう、自分は。絶望に打ちひしがれるとか、涙を流すとか、そんなことすら忘れて――失ったものの大きさを計りかねて、立ちすくむばかり。そんな、どうしようもない空しさしか、響かない。
加奈がいない――その事実だけが、折り重なるように胸の内、積み重なって。それ以外には、何も無かった。そして思った。これはきっと、罰なんだ、と。求めたものは幻だった、それは自分が、加奈を騙していたから。嘘をついて、欺いて、そんなことして手に入れたものは、本物じゃない。だから、神様が怒って取り上げてしまったんだ。せっかく埋りかけた穴は、またぽっかりと口を開けてしまった。あまりに大きな存在が。はまりかけたピースが、再び欠けてしまった――手にした物が失われた、それはもともと無かったときと同じに戻っただけなのに。
どうして、こんな風に感じるのだろうか、欠落と――。
「起きたかい、桜花」
入り口で声がした。李飛燕が壁に寄りかかりながら、邪気の無い笑みを浮かべている。飛燕は鈴に歩み寄ってきた。
「ここは、どこですか?」
「僕らの始まりの場所さ。君が眠ってしまったから、ここに連れてきた。すまないね、桜花」
「あの、わたしはその名前……」
口を開きかけると、飛燕が人差し指を鈴の唇にあてがった。
「いいんだ、君は桜花なんだ。最初に、僕と出会ったほうの桜花は敵になってしまったから。今は君が、“桜花”だ」
言っている意味が分からなかった。自分が加奈と同じDNAを持っているから、そう呼ぶのだろうか。飛燕は夢見心地な視線で
「君だけは、僕の下を離れたりはしない。そうだよね? 君はいい子だもの。僕が言ったことを、全てやってくれた」
いい子、という響きが重苦しい。言われた通りにしなければ、だって……
「心配いらないよ。君の心配ごとは全て、僕が取り払って上げる。僕が全てを与えてあげる。だから、泣かないで。桜花」
そう言われて、初めて自分が泣いていることに気がついた。飛燕は鈴の涙を、そっと拭い、鈴の背中に手を回した。
「もうすぐ、終るよ。だから待っていてね」
優しい声、優しい抱擁。そんな全ても、空虚に写る。この人はいつだって、わたしのことを愛してくれる。けどそれは、愛玩する存在として――人形やペットに接するように、鈴に触れる。『桜花』と呼んで……鈴、というのは仮の名前だった。最初は名前のない存在として生み出され、鈴が8歳になったときに『桜花』と名づけられた。以来、それが自分の名前だと思っていたのに――“特警”にもぐりこませるとき、与えられたのが『鈴』と言う名前。『桜花』は、自分が張り付くべき女性の、昔の名だったのだ。それを知ってから、『桜花』と言う名ではなく、『鈴』として生きたいと思った。『桜花』はすでに、いるのだから――そして、加奈もまた『桜花』の名を捨てていた。
鈴と呼ばれるのが嬉しくて、こそばゆい。加奈が呼ぶたびに、感じていたのはそんな気持ちだった。初めて、自分自身を規定する名前。借り物ではない、本当の自分の名前。その名で呼んでくれる加奈を、一方で騙しているという罪悪感が、胸を締め付けていた。今も、変わらない。わたしは、裏切ってしまった。初めて、わたし自身を見てくれた人を、その信頼を。失ってしまったら、二度と戻らない。
「飛燕さん、わたし……」
と口を開きかけたが、飛燕は優しく微笑んだ。
「いいんだ。何も言わなくて」
そうして飛燕は、鈴の額に軽くキスをした。踵を返して、また、と言って入り口を後にする。
何も言わなくていい――そうじゃない、何も言わせてくれない。あの人は。意見をすることを許さない、そういう人だ。間違っている、と鈴が感じたことを伝えようとすると、きっとあの人は怒ることもしない。人形は人形、何かを語るわけなどないのだから、語ったとしてもそれは「意」を持つものではなく、戯言とも取られない。愛でるべきもののに「意志」など、魂など宿らない。そう、考えている。あの人は。
でも加奈は違う。頑固なところもあるけど、鈴の話を聞いてくれた唯一の人だった。初めて、鈴の「意志」を尊重してくれて――ここでの自分は一体なんなのだろうか。
帰りたい、と願った。ここは自分の居場所じゃない、あの人の下に帰りたい――わたしと向き直ってくれる、ただ1人のところに。そこにさえ、帰ることが出来たら何も望まない。
ここでは――
「よぉ、出戻り」
という声がして、鈴が体を強張らせる。肩に手が置かれて、その主が覗きこんだ。
「なんかよぉ、お前って気に入られてるな」
「あ……梟龍さん……」
声が勝手に震えた。梟龍は不機嫌そうに鼻を鳴らし
「お前はいいなー、大した能力もないのに飛燕さんの寵愛受けてさ。オレなんかどんだけ苦労しても、ご褒美の一つも貰えないんだもん。いいな、お気に入りはさぁ」
耳元で言うのに、鈴はますます硬直してしまう。背筋がささくれ立って、指先が冷たくなっていくのが分かった。
「飛燕から手ぇ出すな、って言われてるけどさ。オレ、姿形を変えられるのは知っているよね。細胞レベルでさ。夜道を歩いていて、知らない誰かに無理やり、何ってなったりしても証拠は残らないぜぇ、なあ?」
肺が勝手に収縮して、空気が喉から洩れる。梟龍の指が首筋に伸びる。その時、上からまた別の声がした。
「その辺にしとけ」
と疾人が、刀の柄を梟龍の頬につけた。
「疾人……」
「そのガキに手出したら、飛燕が黙っちゃいねえ。飛燕の命令があれば、お前を斬る。問答無用にな」
「ぐぅ……」
疾人の昏い目が見つめてくるのに、梟龍が言葉に詰まった。刀の柄に指を掛けて、鯉口を切る音がした。
「な、何だよ疾人。冗談だろうが」
「冗談だろうと、口を慎めよ。心配せずとも飛燕はお前の事も評価してる」
疾人が言うと、梟龍は苦虫を噛み潰した顔になった。忌々しげに舌打ちすると、梟龍は背を向けた。
「どこへ行く」
と疾人が問うのに
「便所だよ、便所!」
自棄気味にそう言って、部屋を出た。疾人は刀を下ろして
「あいつは飛燕に懐いているからな、飛燕に特別目をかけられているお前には厳しい」
疾人は鈴の肩に手を置いた。
「お前はどうも、気に食わない感じだな。飛燕が」
「……そんな事、ないです」
「ふん、そうかい。まあしかし、妙な真似したら流石に俺はお前を殺さなければならない。飛燕が何か言おうと、それが組織ってものだ」
疾人が言うと、鈴は黙って頷いた。
「悪く思うなよ、組織というものはそう言うものだ」
鈴はうなだれた。