6―2
太平洋の波が打ち寄せて、細かく砕ける、記憶のままの姿をしていた。伊豆の海岸。
潮風は血の臭いに似ている、と思う。鉄分を含んだ水がそうさせているのだろうか。コバルトの波が白く砕け、飛沫が舞い上がるのにフラッシュバックを覚える。
久々に――来たか。
錠剤はないからな、と奥歯で噛み殺す。胃の底で渦を巻き、内臓が揺さぶられる感覚がするのを岩の陰でうずくまって耐え忍ぶ。
ここは自分が生まれて――ここでわたしは、造られた……事実だ、それが。そんな事実が締め付けて、眩暈が襲う、呼吸が止まる。胸を突き上げ、肺が萎縮して声が洩れた。
「ちくしょ……」
岩に昇って、細かく弱く、息を吐く。喉が震えて、いた。
細胞という細胞が騒ぎ出して、互いの分子を引き剥がそうとしている感覚。息を全て吐き、静かに、ゆっくりと――丹田にまで息を吸い込む。腹式呼吸で気を鎮め、細胞間に酸素を満たしてゆく。
いまは……せめて、もう少し。
この戦いが終れば、わたしの体なんかどうなってもいい。けど今だけは、鈴の元に辿り付くまでは待って欲しい――己の体に、懇願するように言う。こんな体は、どうなってもいい。どうせ作り物の肉と骨、最初から最後まで、遺伝子を弄って造られて、金属錯体とバッキーボールで塗り固めた体なんて。いずれ朽ち果てて消えてしまうのだから。
けどあの子は違う、違うんだよ、と。指の先に血が走るのを感じつつ、思った。同じように造られた生命でも、あの子はまだ汚れてはいない。生体内金庫にウィルスを宿し、“特警”の本部コンピュータをハッキングしたとはいえ――実際にあの子が、手を下したことはまだ、無い。あの子は殺してはいけない。だけど、飛燕の下にいればいずれはそうなってしまう。クソッ垂れなサムライと同じくに、破壊しか知らない子供になってしまう。そうすれば、二度とまともには暮らせない。それだけは――あんたは手を汚しちゃいけない人間なんだ、鈴。
そう思いながら、ボートを乗り捨ててGPSを追う。この辺りは、政変より前は漁村だったところだ。施設から一歩も出たことが無かったから、伊豆半島がどういう歴史を歩んできたのかは知らない。ただ、列島の末端、田舎では急激に過疎化が進み、老人の孤独死が増えたとされる。そのためか、港に放置された漁船、民家、そこかしこから死の気配がする。
FNの騎兵銃は、すでに銃弾は尽きていた。ライフルを捨て、拳銃に持ち変える。
GPSの光点は、この先の建物を表している。早く、そこに――そう思って足を踏み出すが。
背後に気配。
振向く。耳元で、風が吹いた。
刹那――視界の端に、赤を生じる。瞬時に、解した。
「貴様!」
発砲するが、その赤の持ち主は跳躍し、銃弾を避け、加奈の背後に立った。
振向く。
斜めに走る閃光が、加奈の強化外骨格を切り裂いた。チタン殻のスーツが袈裟に斬れ、スーツの「筋肉」にあたる高分子アクチュエータが露出する。内殻と外殻の間を満たしていた白濁の循環水が、血飛沫のように飛び散った。
「ひっさしぶりー」
死んだ街にはおよそ似つかわしくない、明るい声が響いた。赤いドレスのその少女は、幼さの残るあどけない顔を歪めて言った。
「あんたが絶対に来るって聞いたから」
「へえ、水銀に犯されたかと思ったけど。意外に元気じゃない、ブラック・ウィドウ」
ウィドウは爪の間から伸びる、細い刃に口付けた。滴る循環水を舐めながら
「あたしが、あんなもんでヤられるとでも?」
「まあ、毒蜘蛛が毒に殺られていたら世話ないわな」
と加奈が笑った。嘲笑を含んで。
「そこをどきなよ、ウィドウ。病み上がりの体傷つけるほど、気が強くはないんだ」
「はっ、良く言う」
ウィドウは人差し指の刃で、自分の頬を撫でた。
「あの時、やり残したんだもんあたし。あんたを切り刻むってさ。タフだから、あんた――ずっとあんたの事考えてたんだよ、どうやって刻んでやろうかってねえ。あたしの毒受けても、なかなか死ななかったし」
思い出したくもないね、と加奈は
「どくつもりは無い、か。つまり」
やるしかない。腰のレバーを操作し、斬られた上半身のスーツを外した。強化外骨格は高分子アクチュエータの出力が物を言う、それが斬られたとなるとただの重い甲冑だ。それに、そもそも加奈にはこんなものは必要ない。
「いっくよお!」
ウィドウが突っ込んできた。正面突破か、わかりやすい、とベレッタを撃った。
轟音。
ウィドウの姿が消え、岩に当たって爆ぜる。白い炎、頭上には赤。
天頂に向けて撃った。ウィドウの肩を掠める。ウィドウが薄く、笑ったように見えた。
背後に着地、ウィドウが刃を水平に斬った。振向きながら加奈も発砲。
銃撃と剣閃交わり、焔立つ。
轟く、銃声が世界を制す。
舞い散る鮮血は2人分――赤と黒の、血飛沫が舞った。
「……く」
ウィドウが押し殺した声で言う。斬ったのは左の刃、右腕は加奈が撃ったばかりの対機甲弾で撃ち砕かれていた。
少女の細い肩から先が抉り取られ、骨と配線が剥き出しになっている。噴出す血は、ドレスの生地よりもやや黒みがかっていた。砂の上に落ちるのを、死に絶えた街の土壌が美味そうに、その血を啜っている。“中間街”は血の肥しの上に成り立っている。今まさに新たな肥料が、血の沃土に注がれた。
ウィドウは後退した。一旦、左の刃を納めて傷口を押さえた。指の間から滴り落ちている。加奈もまた、右胸の傷を押さえた。ウィドウが放った突きが、右の鎖骨を貫いていた。紙一重、腋窩動脈を避けた形となった。
すかさず加奈は2発撃つ。ウィドウが後退する隙を狙い、岩陰に隠れた。
「なんか、らしくないじゃあん」
苦痛を抑え込んだ声が、岩の向こうからした。
「攻撃の瞬間に隙が生じる。同時に撃ち出せば、自分もやられるけど相手を殺ることも出来る」
加奈は岩に背をつける。当たり一面、溶岩のようなごつごつした岩があちこちから突き出ている。隠れる場所には、困らない。
「肉を切らせて、って奴? なんかさぁ、そういうの究極にダッサいよね。“ゲノム・バレー”じゃもっとクールにアソんでくれたじゃない」
「そうね、わたしも好きじゃないよ。こういうのは。血球も補充できないし」
バックパックにあるのは、スーツの元々の持ち主の血球だから、と思って。
「あんたの毒、多量に浴びるのは危険だから。早めに結着つけさせてもらう」
拳銃がホールドオープンになっているのを、弾倉を交換する。バックパックを漁るが、出てきたのは底部に青いラインが引かれた弾倉だった。これは何だったかなと思って、しかしすぐに装填する。
「ふうん、考えてるんだ。でもそういうの、面白くない」
「面白み、求めてるの? 殺しあいに。すっかり“中間街”に染まっているね、あんた」
もっとも、都市がマシということではない――それは身をもって知った。“中間街”は政府の体質そのものだ。
飛び出すタイミングを、計る。傷口に集中した感覚を、体の末端にまで走らせる。ナノワイヤが鋭敏にする、神経と皮膚感覚を頼りにして岩の向こうのウィドウの、息遣いまで感じんと、息を潜めた。
近づいてくるのが判る。足を踏み入れるときの、水面の僅かな揺れすら感じ取る。あの女の武器は、これで一つに絞られた。もうひとつを破壊すれば、事足りる。この特殊弾頭――対機甲弾とは違う、もうひとつの対サムライ弾を食らわせれば。
加奈はナイフを抜き、左手に、逆手に構えた。呼吸が近づいてくるのに、ここから先は中距離戦に持ち込むほうがベターだろうと判断した。奴の間合いの外から銃撃を浴びせ、近づいてきたら左のナイフで防ぎつつ、銃口を押し付けて3連射。リーチだけなら勝っている。
ただし、その間合いを感じさせないのがあの女の跳躍力。空間を広く使うあの戦法は、こちらの、銃を使う優位性を消し去ってしまう。
だからこその、この岩の群だ。一番高い岩は、ウィドウの身長の倍はある。密集する岩石は、“蟻塚”がひしめきあう、あの新宿と同じくに、狭い。ここなら、好き勝手跳べない。あの女も。
岩陰から忍びより、背後に回る。次に出会ったときが、勝負。
出てきなよ、と加奈は銃の底を、思い切り岩にぶつけた。
「そこか!」
と少女が走る、音がする。水が跳ねるのを、8時方向から聞く。加奈は岩の裏側に回りこんだ。
浅はかだな、と岩の反対側に背をつけてナイフの刃を鏡にする。きょろきょろと辺りを伺っているウィドウの姿が目に写る。好機だ。今の奴は、警戒を解いている状態にある。
銃を差し出し、岩陰から飛び出した。照準をつける。終わりだ。
発砲。
ウィドウの右肩が、弾け飛んだ。対機甲弾ではないから、破裂はしない。だがそれでいい、この弾は当たるだけで致命傷を――
「嘗めんな!」
とウィドウが言った。体勢を崩した状態で、叫び、左手の刃についた己の血を飛ばしてきた。咄嗟にそれを庇うが右目にかかってしまう。目潰しか、姑息な手を、と思ってもう一度、今度は二連発、撃った。
一発目は腹を穿つ。ウィドウの体がくの字に折れ曲がった。
二発目は脇腹。痙攣したように、仰け反った。天を仰いで、海面に膝をつく。それでも、残った手で岩を掴み、立ち上がろうとした。
その足に、もう一発。完全に斃れこむ。モスグリーンの海水に、紅が混ざってゆく。
「あんたあ、ふざけんな」
ウィドウが尚も立ち上がろうとするが、生まれたての小鹿みたいにおぼつかない足取りであった。
「それを受けたら、あんたの負けだ」
と告げる。どういうことかと問うウィドウに対し、加奈は今しがた撃った銃創を示して
「良く見な」
と言う。ウィドウの目が、途端に見開かれた。
加奈が撃った銃弾から、黒い液体が染み出してウィドウの白い太股を染めてゆく。じんわりと滲むそれは、墨汁を垂らしたよりも早くに広がりを見せた。動揺に、腹の傷からも。黒い液はウィドウの首と二の腕にも伝播する。
「な、何よこれ」
「水銀弾だ」
加奈は冷たく言った。
「涼子の水銀針を受けた体で、さすがにこれはきついだろう? 軍が水銀弾なんて装備しているとは思っていなかったが。毒を撒いて毒にやられるがいいさ、毒蜘蛛女」
「い、いや……」
初めて、ウィドウの恐怖に怯えた声を聞いた。力無く跪いて、海面の中に倒れこむ。白い肌を、黒が侵食してゆくのを、無感動に見つめた。少女に冠せられた黒後家蜘蛛、その名前の通りに黒く塗りつぶされる。
「わたしも同じさ、ブラック・ウィドウ。あんたに会いたくて仕方なかったさ。何度も、頭の中でシミュレートした。あんたを、殺すところを」
水銀が満ちたりて、ウィドウの体が銅像のように硬直してゆく。やがて汚染が止まり、水銀の膜はウィドウの顔の手前で、止まった。幼い顔は、どうにか皮膚を残したままに……しかし体は、重金属に侵され、内臓を死に至らしめる。ウィドウはついに、沈んだ。
悪く思うなよ、と加奈は言う。わたしも、必死なんだ。
毒物の分解を、生体分子機械が行っているのに、加奈は血をかけられた右目をこすった。しかし、目を開ける事が出来ない。網膜スクリーンは沈黙したままだった。
どういうだろうかと、右目に手をやる。瞼の上が、異様に熱かった。そうか、と思う。
あいつは、あの女は――全身の血が毒なのだ。毒そのものを投げつけて、比較的、生体分子機械の割合が低い目を潰しにかかったのだ。アフリカの毒蛇が毒液を吹きかけ、天敵の目を潰すのと同じ要領だ。つまり――
バイオチップが、視神経の死亡を伝える。この目はもう開かれることは無い。