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白一色に統一された、吹き抜けのラウンジ。
クリスタルのテーブルが並び、注意深く成型されたその上には各々黒のトレーに乗っている、培養食品のメニューがある。職員たちの食堂兼休憩所として機能しているこの場所は、環境に配慮した造りとなっている。ガラスの壁面の向こうにはビオトープ、さらに壁際には観葉植物が配列されている。天然ものではない、クローン植物が埋った鉢植えが邪魔にならない程度に置かれていた。 中央のテーブルに目を移すと、白衣を着た女が手を振っているのが見えた。
「涼子」
と呼ぶ。阿宮涼子は紅茶を飲む手を止めて微笑みながら
「時間ぴったりね、まるで計っていたみたいに。正確なのはいいことだけど、自分のペースというもの大事よ。世間に合わせるだけじゃなくてね」
「自分のペースが、こうなんだよ。特に気にかけることじゃないって」
涼子の正面に座ると、甘い香りが漂ってくる。香水変えたのかと訊くと涼子はああこれ、と言って
「白梅香よ。ちょっと変えてみたんだけど……どう?」
どうと言われても、香水のことは加奈には分からないが、匂いは悪くはない。
「いいんじゃないの? わたしは好きよ、この香り」
そう言うと、よかったと顔を綻ばせる。はにかんだように笑って、安堵したように息を洩らした。
「何だ、彼氏から?」
そう訊くと、涼子は慌てつつ手を振った。顔を少し赤らめ、
「あ、そんなんじゃないわよ? ちょっと気分を変えたいと思っただけ。本当よ?」
わかりやすいな。そんなに必死に否定しなくてもいいのに、と加奈は笑った。
科学班の連中というのは、いつも白衣を着ている。服装がそんなだから、涼子は少しでも外見に気を使っている。さりげなく、素肌をぼかすような薄い化粧、爪はいつも磨かれている。激務の中でも「女」であることを忘れない、この辺が加奈とは違う。流行も知らなければ、まるで外面を取り繕うこともしない。地味な紺のスーツに身を固め、髪は手入れするのも面倒で後ろで束ねてあるだけ。流行り廃りが早い昨今、いちいちそんなものに気を配ってられない。そう考えると、やはり自分のペースだなとも思う。
銀色の立方体が近づいてきて、ご注文はと無味乾燥な声で言ってくるのに加奈はコーヒー、と一言呟いた。グリーンのランプが点灯し、かしこまりましたと型どおりにテキストを読み上げて自走ロボットが遠ざかっていく。背中の部分に日立製であることを示すロゴマークが記されていた。底部に2千個以上備わったベアリングが床を傷つけずに走行するというのが売りだという。
「イライラしないの」
涼子が言った。
「別にしてないけど」
「してるわよ。そんなにロボットが嫌い?」
「いや……」
運ばれてきたコーヒーに口をつけるが
「ロボットとかいうより、機械ってのがね。好かない」
「あらそう? でも機械なしじゃ生きていけないわよ。わたしたちは」
涼子はカップを置いた。口紅のついたカップのふちをなぞり
「ロボットもそうだけど、あなたの体に入っている生体分子機械だってそうよ。もちろん、それがなくても生きてはいけるけど、でも今は都市の人間の3人に1人が分子機械を入れてる計算になるわね。医療、または強化目的に。機械を嫌うってことは、自分も嫌いってことになるわよ」
言い返そうとするが、涼子がやけに真剣な表情をしてくるので言葉に詰まる。涼子はさらに続けた。
「蝙蝠病ってね、そういう思い込みから始まるのよ。機械が嫌い、そして自分の身体にも機械が入っている。そうやって自分の身体がいやなものに見えてくるのよ。加奈、最近薬の量増えたんじゃない? ショウキが言ってたけど頻繁に飲んでるって」
あいつ、余計なことを。軽く舌打ちをした。
「ねえ加奈、あの薬は決して病を治すものじゃないの。幻覚を鎮めるための、いうなれば気休めよ。根本から治すんだったら、本格的にカウンセリング受けなきゃだめよ」
「カウンセリングなんて受けてたら、仕事どころじゃないでしょう」
ロボットが近づいてきてカップを回収し、お代わりいかがですかと訊いてくるのにいらないと答えた。
「いいよ、涼子。心配してくれてんだろうけど、こういうことはわたしの問題だから。あんたが気に病むことないって」
そう言って向き直って
「さて、仕事の話だ」
涼子は少し、肩をすくめて白衣の内ポケットからICチップを取り出し
「まずはこれを」
加奈に手渡す。加奈は袖をまくって左手首を露出させた。PDAとバイオセンサが組み込まれた、小型端末が手首に埋め込まれている。半ば皮膚に同化している液晶パネルには、通信状態を示すアイコンと並び、脈拍、酸素濃度を測るバイオモニタリングの表示がある。無配線形分子コンピュータの集積回路にチップをはめ込むと、網膜には暗号化されたマトリックスが投影された。
「この間、加奈たちが押収した流出生体だけど。中国人のものだったわ」
「北宋中華のか」
眼球から脳へ直接流れてくる映像を流し見つつ言う。
「ええ、拉致被害者のものね。あなたが捕えたのが、ヤクザじゃなくて仲買人だったみたい。結構な数の細胞があったわよ」
「あいつらは皆そうだ」
外道はどこまでいっても外道。北東アジアの混乱に乗じて移民を拉致する事件があとを断たない。南北に分断された中国にまで足を伸ばし、細胞を手に入れる仲買人がいる。その仲買人から流れる細胞はヤクザに渡り、国内で売りさばかれる。それを買っているのは、他ならぬ都市の人間だ。不正に入手した細胞、DNAは研究機関のみならず民間にも広く浸透する。使用されるのは遺伝子導入、クローン臓器、改造手術、など。2030年ごろから、こうした不正流出生体が出回り始めた。
「ただ気になるのはね、どうもただの細胞、だけじゃなかったみたいで。生体素子や分子回路とかの生成物なら分かるけど」
網膜に投射されたファイルを閲覧していると、高度に防壁が張られたファイルの存在を確認した。液晶を叩いてキーを打ち込み、防壁を解除する。
映し出された文書に息を呑む。
「こいつは、こんなものが?」
「そう、今回見つかった物の中にあったわ。iPS細胞ね」
涼子が再びカップを口に運ぶ。加奈は息を飲み、掲示されたファイルを見つめる。傍から見たら、虚空を睨んでいるようにしか見えないだろうが。
「これはまた。いちヤクザにこんなものを?」
ヒトiPS細胞、多能性幹細胞とも呼ばれる。培養液に入れてヒトのあらゆる臓器、器官に分化するいわば万能細胞である。人工的に分化万能性を持たせたこの細胞は、培養液に浸してあらゆる臓器、器官に誘導させることで体中のどの組織にも対応することが出来る。ヒトの受精卵を使う肺性幹細胞、ES細胞の利用が倫理面で問題があるとされ、使用が禁止されてからというもののiPS細胞が再生医療の主流となっている。
「一つのiPS細胞を造るのにレトロウィルスを使って特定の因子を導入しなければならない。それは知っているわよね?」
「まあ……多少は」
すっかり錆び付いた分子生物学の基礎知識に油を注しながら答えた。
「ああいうのは今でこそコストはかからないけど、わざわざウィルスベクター使って造るわりには、利益は見込めないはず。基本的に、本人の生体を使うから」
チップを抜いて、涼子に返した。ラウンジの正面にあるスクリーンが切り替わり、スポーツキャスターが発狂寸前の叫び声を上げていた。
「それで、どう見る? 加奈」
「どうって」
「だから、このiPS細胞。手間かける割には意味ない行為だと思わない? 法律で禁止する意味なんかないほどに。一体何の目的で」
「さあ、知らないよ。ヤクザのやることなんて。クローンでも作るんじゃないか?」
「まさか……望めばいくらでも臓器を再生出来るのに、わざわざ人一人生み出す理由なんてないでしょう。コストがかかるし」
「そういうコストとか、全部ひっくるめてもバックする利益が大きいとしたら人はそっちに転ぶと思うけどね」
「例えば、何に使うの?」
「サムライだよ」
加奈がそう言うと、涼子はカップを落としそうになった。
「サムライ、ってあの……」
「そう、あのサムライ。今じゃ生体機械による遺伝子導入が主だけどさ、ああいうのは失敗することがあるんだよ。人体が成長しきってから、体外からDNAを導入、あるいは操作するよりも胚の段階で遺伝子をいじった方が楽だろう? 遺伝子導入なら一部分しか変化できないが、クローン胚ならば全体に手を加えることができる」
「でもコストが……」
「それはそいつが成長しきったあと、身体で返してもらえば良い。成長を司る遺伝子を操作すれば、その分早いでしょう育つのも」
と、コーヒーに口をつけると涼子が怪訝な顔つきになる。加奈の物言いがひどく珍妙なものであったと、感じたのか
「まるで見て来たように言うのね」
「そう?」
液晶を叩くと、スクリーンの画像が目の前から掻き消えた。PDAからチップを抜き出して涼子に渡す。
「それで、押収した細胞は?」
加奈が訊くと、涼子は顔を曇らせた。
「うん……一応、全部処分したわ。生命倫理法に基づいてね。あまり気が進まないんだけど」
横目で、窓の外を見る。視線の先には青い壁面をした構造物の一部が、ビオトープガーデンの樹木の間から見えた。あそこが処理場だ。プライバシー保護のため、生体物は流出しないうちに全て処分されることになっている。細胞、またはそれを使った副産物は国が認可した病院、機関でのみ使用が許される。それ以外、個人や認可されない団体で作られた物は全て不正生体物として処理される。新たな犯罪をつくらない配慮だ、仕方ないだろうと言うと涼子は顔をしかめた。
「でもねえ、なんかあれが“人”から出来たものならばそれを焼く行為ってその“人”を処分しているみたいで」
「生体物は、身体から切り離された瞬間、物質となる。人の定義は、己の心が繋ぎ止めている肉体にのみ限定される。あれは人じゃなくて、物なんだよ」
「そうかしらね、まあそうなんだろうけど」
まだ、納得がいかないと言った風情だ。網膜の表示が1:00を刻む。それが突然切り替わり、Web画面にメールが届いたことを知らせる朱色のアイコンが点いた。
涼子に一言断って、液晶パネルを叩く。視神経に映された電子メールの件名と、差出人を確認する。
「誰から?」
と訊く涼子に、加奈が肩をすくめてみせた。
差出人蘭にはアルファベットで“YUKIO SEIRAN”とあった。