5―11
電子錠が手首に食い込むのとか、疾人に切り落とされて付け替えたばかりの足が疼くとか、そんな痛みなど問題にならない。体の傷よりも、深いダメージを負っているのはもっと違う、目に見えないものだった。神経を傷つけられた、外面的な傷なら直ぐ分かるのに、どうしてこの痛みは拭えないのだろうか――欠けたピースは、永遠に戻らない。
手の中にはあの時抱きしめた、鈴の体温が残っていた。初めて、誰かを守りたいと思った。何一つ興味なんてなかった。肉体は所詮、分子の結合体であるがゆえに、その肉体にどれほどの価値があるのか。蛋白質と水分子、ただ、それだけ。それだけだ、自分も、周りの人間も。変わらない、あの施設と――幹細胞から生まれた胚が等しく分化して、生命体となる。それは恐ろしく機械的で当たり前の現象だ。この宇宙で、生命が生まれたことは奇跡でもなんでもなく、ある程度の有機体があれば宇宙空間でだって生命が造られる。だから、自分の存在だって同じ。有機物の集合体である、それだけだった。ただ違うのは、無機物たる珪素集合体を兼ね備え、ハイブリッドな生命として存在している。その一点において特異だっただけであって、それより前、あそこで生み出された時から加奈は「ただの肉」だった。
だから飛燕が、あの施設で――野良猫が死んでいるのを「哀しい」と言っていたのも理解出来なかった。哀しいってどういうこと? ただの肉、それも自分たちよりも劣る生命体が死を迎える。それに対して、なぜ格別注意を払うのか。どんなに精密に造られた機械でも、部品同士磨耗すればいずれは壊れるだろう。同じ事だ、壊れたものに対してなにか特別なことを思うか? そう聞くと飛燕は、だって哀しいものは哀しいんだよ。桜花は何も感じないの? という。
「心も痛いんだよ、桜花」
といっていた。そんなことだから、最初はおかしな子だと思っていた。飛燕――その名をつけたのは加奈だった。名前を与えられないあの施設で、最初に名前をつけようと言ったのは飛燕だった。同じ顔の子供たちの中で、唯一「僕」と「君」を規定する名前をつけよう、と。そして2人は、習ったばかりだった中国語で名前をつけた。当時はあの行動も理解出来なかったが――
今は、少しだけ分かる気がする。鈴、と呼ぶ声が儚く空間に溶け込むのが、空しくて。もう一度、その名を呼んだ。あの猫は、飛燕のお気に入りだった。施設に迷い込んだあの猫を、飛燕は食堂からパンをくすねてはあの猫に与えていたっけ。その猫が死んで、哀しいと言ったあの時の飛燕の気持ち。きっとあの時と同じなんだ、この痛みは。胸の内に溜まるのは灰色の膿ではなく、透明なガラス片。そんな感じだ。
鈴、あんたを守ると決めたそのあんたが、あの飛燕の仲間だったとはね。皮肉だよ、良く出来たシナリオだ。出来すぎているよ――お陰でダメージ甚大だ。
何度も何度も眠りに落ちて、幾度となく蘇るあのイメージが――鈴が最後に見せた悲痛な顔。「ごめんなさい」と言ったとき、あの子は泣いていた。どうして気がつかなかったのだろうか、前からあの子は自分にサインを発していたのではないか? 痛みに堪えていた鈴の顔や、なにか言いよどむような声。今思えば、思いあたる節は、沢山ではないがあった。何が守るだよ、加奈。笑わせるな。あんたは所詮、人のなんたるかとかを解さぬでき損ないなんだよ。普通の人間が持っている感情や、思考が欠落して――そんなあんたが、彼女を守る? 笑わせるな、と――自分を責める。あの子とあのまま“中間街”まで落延びて、どうするつもりだったんだ。京都で見たあの母親と同じになろうとしたのか。そんな事しても、無意味だと分からなかったのか。馬鹿だよ、加奈。あんたは馬鹿だ――そんな自問を繰り返して、空転する思いを抱いて、また眠りに就く。そうしてまた、まどろみの中であの子の、鈴が泣いているイメージを感じるのだ――何度も、何度も。
《晴嵐加奈》
と、扉の脇に据えつけられた音声機器が合成音を出す。面会だ、と発すると電子ロックが解除されて扉が開いた。
扉の向こうから現れたのは、ショウキだった。薄汚れたジャケット、ところどころ焼けたようになっている。肌は煤けて、何かの爆発に巻き込まれたようになっていた。ショウキは扉を閉めた。
ガラス越しに、相対する。
「その足」
やがてショウキが口を開いた。
「斬られたんだってな、あの刺青に。予備、あったのか?」
「ああ……」
と応えて、包帯で巻かれた右足をさすった。四肢を失っても、冷凍保存されていた人体部品を移植すればこと足りる。iPS細胞で造った、自分の足だ。再生医療の進歩がもたらした技術の産物。
「まだ馴染まないけどね、自分の足じゃないみたいだ」
と加奈は言った。どうせ死刑になるのに、無駄なことだ、とも。
「金属錯体導入した、お前の足を斬り落とすとはね。サムライの刃では、シリコンの肉を切ることは出来ても炭素同素体の人工骨を断つ、なんてことは不可能なだと思っていたが」
「あいつの刀は、おそらく振動剣だよ。超微細な振動で分子間力を引き離せば、斬れないこともない。もっとも、理論上可能ってだけで実際に造る馬鹿はいないと思っていたけど」
加奈は、痺れが残る足を軽く叩いて言った。
「あの男、李飛燕の頭脳をもってすれば、できるかもね。生まれながらにして、知能指数200は軽く越えるって男だもん」
「生まれながらに、って」
「デザイナーズベイビー、って知ってる? ショウキ」
と加奈は、自嘲気味に笑った。
「下田の施設で育ったっていったけど、育っただけじゃなくてさ。わたしらは、あそこで生まれたんだ。試験管の中で、遺伝子を弄られてね。下田、行ったんだろう? 明蘭から訊いたよ」
「……ああ」
とショウキは、なぜか懐に手をやって答えた。
「生まれながらにして超天才、またはオリンピック級のアスリートの身体を持つもの――あの施設で生み出されたのは、そういう子供たちだ。わたしは多分、後者だったみたいでさ。物心つくかつかないかのうちに、銃の扱い方や格闘技術を叩きこまれた。誰が、何のためにあんな施設を造ったのかは知らない。ただ、わたしのような戦闘向きの子供とは別に、頭脳に特化した子供たちがいた。その1人が、飛燕なの」
「なるほど、それで……」
ショウキが独り言を言うが、しかしそれ以上何か発することはなく
「続けてくれ」
と言う。加奈は天を降り仰ぎ、そして言葉を紡いだ。
「わたしが8歳だったとき――もっとも、正確な年齢なんて覚えていないけどね。あの施設が何者かに焼かれてさ。わたしは何とか逃げのびたんだけど、全身に火傷を負って、いつ死んでもおかしくなかった。その時に、養父に拾われたんだ……まさか、あの時飛燕が生き延びていたとは思わなかったけど」
「その飛燕が」
とショウキが言って
「その飛燕が、あの“幸福な子供たち”を組織して……」
「組織したんじゃなくて、多分あそこにいるガキ共も飛燕が生み出したものだよ。鈴を見れば分かるだろう? わたしの細胞を使ってクローンを作り、遺伝子を操作してキメラを生み出す。静岡で、わたしとやりあったあの少女の細胞調べた?」
「あの細胞は、“UNKNOWN”だった」
「だろうね。毒蛇か毒蠍か、なんか毒のある動物の遺伝子が混ざっているはずだよ。人間をベースに、そういう特殊なサムライを作り出す、なんてのは――まあ、誰かが考えそうなことだけど。この足斬った男も、何かしら体を弄られているはずだよ。胚の時点でね。でも、実際やるには難しいだろうね。あの施設と同等の設備と、ノウハウがなければ。それを作れるのは、あそこにいた人間か知識のある奴。李飛燕は、その両方だ」
合成音声が、面会を終了するように発する。ショウキは、
「お前さん」
と、切り出した。
「あの子連れて、どこかに潜伏するつもりだったのか」
「ああ」
「何故だ。そんなことすればお前の体は……定期的なメンテナンスがなければ、お前さんは死ぬ。おそらく、もって3年だろう。そこまでして、あの子を生かそうとしたのか? 自分の命を、賭してまで」
「あそこでは、あの施設では。わたしや飛燕みたいな子供は、物質だった。けどあの子は――あの子は違う。違うんだよ」
視界が涙で濡れてくるのを、加奈は必至に噛み殺した。声が震えるのを、喉元で押さえつけて
「わたしが――わたしが傷ついて、本気で泣いてくれて。わたしを頼って、そんな少女を見捨てるのは嘘だって感じた。初めて、誰かのために生きたいと思ったんだ――あんな子を、政府は施設の奴らと同じように物質として扱ってさ。そんな国のために、政府なんかのためにあの子は――」
「もう、やめとけ」
ショウキは踵を返した。
「それ以上言うのは。俺らぁ、所詮政府の狗だ。政府に使われることで生きてきた俺らが、それを口にするのはマズイだろう。色々と」
電子扉が開き、ショウキはまた来る、と言って部屋を出ようとする。
「ショウキ」
と加奈は、その立ち去る背中に向かって呼びかけた。
「あんたは笑うか、わたしのことを。必死こいて、テロリスト助けたわたしをさ」
そう言うと、ショウキは足を止めた。振向くことなく、逡巡するように天を仰ぎ見ている。
長い、沈黙の後、ショウキは
「……これは、俺の独り言だが」
そう、ぽつりと言う。インターホンが、面会の終了を告げるのにショウキは、左拳で叩き潰した。
「1人の男の話だがな、そいつは朝鮮人と日本人のハーフだった。移民第一世代の父親を持っていたが、当時は政変の影響でかなり国内が荒れていた。それでもその男の父親は、日本人と朝鮮人はいつかきっと分かりあえる、なんて夢みたいなことを言っていた」
「それって……」
加奈が口を開きかけたが、しかしそれ以上は何も言わずにおいた。ショウキが更に続けた。
「人の良い、というか良すぎたんだな男の父親は。ヤクザに騙されて、全財産、土地から家から、すべて奪われてな。家族はバラバラになってしまった。その男の子供は、当時は中学生だったが。心底、日本人を恨んだ。そして、そんな日本人を信じた父親もな。この国で生きるには、朝鮮人であることを隠さなければならない。そう思って、そいつは日本人名を使ってヤクザ相手に喧嘩売ったりしていた――そんな息子に父親は、人様に迷惑掛けるなとか一端に説教垂れやがったんだ。日本人にも良い人間はいる、とか世迷い言抜かしやがって。結局、そいつは父親の元を逃げ出した。本当ならどっかでくたばっていた運命だが、どう言うわけかある男に拾われて、政府の使いっ走りみたいなことしている」
「それでお前の……いやその男の父親は?」
「死んだよ。最後もまた、あくどいな日本人に騙されて」
ショウキが少し、洟を啜った、ようだった。表情は見えなかったが。
「そいつは愚かだったかもしれないが、でも最後まで日本人を信じていた。信じている、それだけでいい。最近は、そう思うことにしている。騙されたかもしれないけど、本当のことも。嘘じゃない、真実もあった……それを最後まで信じて親父は逝った。馬鹿だなんだ言われても、信じられた。それでいいじゃねえか」
ショウキの一言一言が、胸に沁みてくる。ショウキが、最後に
「愚かだとか、馬鹿だとか。人が言っても、多分俺は笑わねえよ、お前のことは」
「そうか……」
加奈が言うと、ショウキはまた、と言って部屋を後にした。電子扉が、閉められる。