5―7
斜面を駆け下りて、鈴の所に向かう。ブローニングの撃鉄を起こした。鼓動が早くなる。
何か、とてつもなく嫌な予感がした。“猟犬”がこんな所に投入されるとなると、もう“特警”の捜査の手が伸びたのだろうか。しかし、早すぎる。それほどの人員は裂けないはずだ。第一、“猟犬”は広い範囲の捜索には向かないはずでは――などと考えて、廃墟の中に飛び込む。
どこにも、居ない。
鈴の姿は消え、加奈がかけてやったジャケットだけが残されていた。
「鈴!」
呼びながら外に飛び出した。“特警”の人間か、あるいは都市警、所轄の捜索隊に遭遇するかと思ったが。
「遅っそいわよ、加奈」
以外にも、追っ手は1人、だった。
「明蘭……」
小川を背にして、白衣を着た明蘭が鈴の肩を掴み、短針銃を突きつけている。護身用のものだったが、明蘭のことだ。神経針か麻酔針、下手すれば水銀針が装填されているかもしれない。
「明蘭、あんたどうやってここに」
「あんたの生体情報は、あたしが握ってんのよ。バイオチップを基にして、ここまでおってきた」
「“猟犬”か? あれはせいぜい、半径10km圏内しか捜索できないはず」
「技術は進歩しているのよ」
と明蘭が、小馬鹿にしたような笑みを浮かべた。加奈は銃を構える。鈴が、怯えたように明蘭の短針銃と加奈の顔を、見比べていた。
「鈴を放せ」
「嫌だといったら?」
「80年分の皺が刻まれた、あんたの脳みそ吹っ飛ばすまでよ」
「あら、彼女の見ている前でそれができるかしら? 今のあなたに――情にかられた、腑抜けたあなたに、ね。それに」
明蘭が、短針銃の銃口をぐいと押し付けて
「この状況で、あなたがどうこう言える立場じゃないと思うけど」
そう言われると、言葉に詰まる。
「さあ、銃を捨てなさい」
明蘭が告げるのへ、加奈は屈するしかなかった。ブローニングを足元に置き、明蘭の方に蹴飛ばした。
「これで、いいだろう。鈴を、離して……」
「あは、情けないわねー晴嵐加奈。捜査部のエースじゃあなかったの? サムライ狩りのエキスパートって感じじゃないわ」
嘲笑する声が不愉快で、今すぐ銃を拾って撃ち殺してやりたかった。一発撃って、黙らせて一顧だにせず――少し前の加奈だったら、そうしただろう。
だが今は――
「鈴を、離してよ。頼む……」
悲痛な声を振り絞った。しかし、明蘭は短針銃を下ろす気配はない。
「見くびらないでもらいたいわね。科学班とはいえ、あたしも“特警”だよ? 反逆者の懇願を受け入れて、目の前のサムライ逃がすようなことするとでも? なめんじゃないわよ」
「サムライ……だと。誰の事、言ってる?」
「この子の事に、決まってるじゃない」
明蘭が言った。
一瞬、我が耳を疑った。
「鈴は……サムライなんかじゃ……」
「あたしが言ってんじゃない、データがそう物語ってんのよ。まあ、サムライというには改造が少なすぎるけど、こいつはあたしらの敵だ」
「何言ってんだよ、あんた。鈴がクローンだから、そう言ってんのか」
明蘭はため息をついて、呆れたように首を振った。
「んじゃあ、あんたのスッカスカのバッキーボールみたいな脳みそでも分かるように説明してあげるよ。“特警”のコンピュータに、ハッキングウィルスが仕掛けられたんだよ。うちで使っているようなやつより、もっと高度なね。うちのサーバー経由して、DNAデータバンクにアクセスし、コードを盗み出した。その結果が、あのアウトブレイクだよ」
「“ゲノム・バレー”と、松本の……」
「そう。そしてこの子はね、“特警”にハッキングウィルスを持ち込んだ張本人さ」
一体、明蘭は何を言っているのか……加奈の知らない言語で喋っているんじゃないかとさえ、思った。鈴がウィルスを持ち込んだだって? そんなこと、あるわけがない――。
「生体内金庫」
と明蘭が言うのに、はっとして顔を上げた。
「最初は何のためのスペースか分からなかったけど、あれはウィルスを持ち込むための物だった、わけだね。自己増殖をプログラムされたウィルスだから、最初はほんの微量だったはず――本体に加奈、あんたの生体が使われていたのも頷けるわ。この子はあんたのクローンだもんね。身体に他の人間の蛋白質を入れるわけにはいかない。生体分子機械の鞭毛モーターからDNAから、すべてあんたの蛋白質が使われていたのは、偶然の一致ではなく拒否反応を防ぐためのものだったわけよ。異質な蛋白質には防衛本能が働き、排除しようとするのが人体のメカニズムだから……」
滔々と述べる明蘭の声が、遠ざかるような心地がした。明蘭が言う根拠の全ては、理路整然としていて確実なデータに裏打ちしているのだろう。だが
「そんなもの……」
弱弱しく、加奈は言った。自分でも驚くほど小さな声、だった。
「そんなもの、推測の域を出ないだろう。鈴、がその……ウィルスを持ち込んだ、とか……」
「そうね、だからこの子を調べる。体内に、ハッキングウィルスの残骸でも残っていれば証拠になるしね。すでに、所轄のヘリがこっちに向かっているわ。あんたは拘束されて、国家反逆罪に問われる。まあ、当然の措置ね、ご愁傷様」
と明蘭が笑った、直後。
短針銃を持つ手が緩んだのを、加奈は見逃さなかった。
素早くしゃがみこんで、石を拾い上げ、手裏剣術の要領で投げた。
直径10cmほどの小石が、明蘭の手の甲に当たる。明蘭は短針銃を落とした。瞬間、加奈はブローニングを拾い、銃底で明蘭を殴り飛ばす。悲鳴を上げて尻餅をつく明蘭には一瞥もくれず、加奈は鈴の手を引いた。
後ろから、明蘭が短針銃を撃ってくるのに、加奈は銃撃で応戦した。ぱ、っと弾ける音がして、明蘭の手の中で護身用短針銃が砕け散る。振向くことなく、加奈は川伝いに走った。
清澄なせせらぎの中に、足を踏み入れる。
「馬鹿げている」
走りながら、加奈は
「鈴が、サムライだって? どうかしている、あの女! あんたがそんなことを……」
そう、独り言をもらすも、明蘭の言葉が頭から離れない。
ふと、鈴の方を見た。走りながら鈴は無言で俯いている。加奈は足を止めた。
「あんたが、サムライなわけない。そうだろう? ウィルスを持ち込んだなんて、嘘だよな」
確認するように、問い詰めた。違う、という答えが返ってくるものと期待して。
だが鈴は、何も答えない。唇を噛んで、思い詰めたような表情を浮かべていた。もう一度、訊く。目をあわそうと、しなかった。伏せられた長い睫が、小刻みに震えている。怯えている、いや悲痛な面持ちであった。
「どうなの、鈴」
肩を掴んで、顔を覗きこむ。目に涙を浮かべて、聞き取れるか聞き取れないかの声で、鈴が言ったのだ。
「ごめんなさい」
と――。
「何が、ごめん、て……」
加奈が言葉に詰まっているのにも、鈴は俯いていた。睫が揺れて、肩を震わせていた。
「うそ、だろう。なあ、鈴。あんた、あの女が言うこと、嘘だよね? なあ、嘘なんだろう?」
だがそれは、事実上の告白に近かった。ごめんなさい、重たい響き。誰に対しての謝罪なのだろうか――思い出す。“特警”の本部にウィルスを持ちこめた人間、内部のものじゃなければ、ここ数ヶ月で本部に入った人間。取調べ室であったり、検査棟であったり、“特警”の者以外で一番出入りしていたのは誰か――。
――嘘だ。
あの時、あの病院で、鈴は何を伝えようとした? 軍のヘリに乗せられたとき、彼女が最後に言った言葉。唇が象った、6文字の単語。思い出す、その場面。
彼女は言った、「ごめんなさい」と。それは加奈に対して、いやそれとも――。
「嘘だろう、なあ……鈴! 嘘だって言えよ!」
両肩を乱暴に掴んで、身体を揺すった。鈴はもう、何も答えなかった。
突如、上空から、ヘリのローター音が近づいてくるのを聞く。都市警のヘリか、と加奈は身構えたが、予想に反して民間のヘリだった。空中でホバリングして、それからゆっくりと降下する。水面が波打ち、ヘリが着陸すると中から1人の人間が降りてきた。
「ご苦労さんだね、鈴」
と言う、涼しげな男の声。黒いコート姿は、色素不足な肌と髪色を隠すためなのか。白と黒の色合いが、目に痛い。赤い瞳が加奈を見つめてくるのに、加奈はその人物の名を呼んだ。
「李飛燕、か」
そう言うと、飛燕は古い友人と再会したみたいに軽く手を上げた。飛燕に続いて、もう1人。同じようなコートを着た男が降りてくる。顔に刻まれた、トライバル系の刺青。ショウキにクナイを浴びせた男だ。
「何しに来た」
「何って、その子を引き取りに来たんだよ。僕らの同志たる彼女をね。随分遠回りしてしまったけど」
「同志、って……」
飛燕が言って、加奈は鈴に目を落とした。鈴は口を結んで、やはり沈黙したままだった。その鈴に、飛燕が――まるで父親が我が子に語りかけるときのように、優しい口調で言った。
「鈴、迎えに来たよ。さあ、おいで」
と。
「あんた、何を言って――」
加奈が口を開きかけたとき、鈴が加奈の手を振り解いた。驚いて見ると、鈴は俯いたまま、飛燕の方に、ゆっくりと歩き出した。
「鈴、あんた……なにやって、るの……」
加奈は鈴の肩を掴んだが、鈴はそれを振り払った。唐突に拒絶されたその手が、指先から力を失っていく。加奈はもう一度名を呼ぼうとした。鈴、と。しかし、喉から発せられるのはひゅうひゅうと空気の洩れる音ばかり。ゆっくりと歩いていく鈴の後姿、それは明蘭が言ったことの正しさを表していた。
「り……ん?」
鈴がウィルスを持ち込んで。
「嘘、だろう……」
ハッキングを仕掛けて
「うそだって、いって、くれよ」
ずっと、加奈を欺いていたこと。その全てを。
「あの新宿で――」
と飛燕が切り出した。
「君ら“特警”をおびき出したところから、計画はスタートしていたんだよね。新伝龍三の格好――まあ格好というか殆ど本人になっていた僕の仲間を、わざと防犯カメラに映してね。君も、静岡で会ったはずだよ」
と言う声も、耳には届いていた。
「んで、彼女と君ら“特警”を引き合わせて、本部に連れ帰らせて――本当に連れ帰るかどうかは賭けだったけど――ウィルスの“種”をばら撒かせる。そして回収する、って手はずだった。ギャングを使ってね。でも、回収する段になって君らが頑張っちゃってさ。しょうがないから、ここにいる疾人に証拠を消してもらってからしばらく君らの動向を見守っていたんだ」
届いてはいる――だけど、その全てを理解するには、あまりにも受けた衝撃が大きすぎて――動揺が心を、縛り付けていくのを、ただ絶望の淵に立って眺めている、自分がいた。
「まあ、鈴が処分される、なんて訊いたときにはさすがに焦った。疾人に頼んで、助けてもらおうと思ったけど、それより君をけしかけたほうがいいんじゃないかと思ってね。すると思った通りに動いてくれて、恩に着るよ、桜花」
そう言って、飛燕は鈴の肩に手を置いた。
ローターの風に煽られて、鈴の髪が揺れている。はじめて、鈴は加奈を見た。震える瞳の奥に、深い哀しみが彩られる。鈴が嗚咽を噛み殺した声で言うのを、聞いた。
ごめんなさい、と。
やめろよ、謝るな――あんたはそっち側の人間じゃないはずだ。あんたは、そう。臆病で、泣き虫で、優柔不断で、甘えが抜けなくて。
けれどその分、素直で、健気で、純粋で、そして誰よりも、優しい――そんな全てが、幻だったというのか? わたしに見せていた姿は偽りで、「テロリストの1人」というのがあんたの本当の姿だったのか? どうなんだよ、鈴。答えてよ、黙ってないでさ――真実を、語ってくれ……鈴――
「答えろ!」
反射的に右腕を振り上げて、ブローニングハイパワーの撃鉄を起こす。銃口を真っ直ぐに差し向けて、その延長上に李飛燕の瞳を捉えた。
だが、引き金を引くより先に、目の前に黒い影が立つのを認める。
刹那、雷光にも似た光閃が斜めに走り、尺骨に鉄の衝動を受ける。いつの間にか刺青の、疾人と呼ばれた男が加奈の間合いの内に入っていた。右手に閃いたのは、刀。抜刀の白刃が加奈のブローニングを切り裂いたと悟ったときには、疾人は二の太刀を浴びせてきた。
両断、逆袈裟、諸手突き。
三連撃が、一挙動で繰り出された。加奈は後退しつつ斬撃を避け、ナイフを抜いて対峙する。
疾人が、ふっと腰を落とす。一瞬、視界から疾人の顔が消えた。
ぞくり、と背筋が凍った。
同時に、右足に違和感を覚える。筋肉が疼いたかと思うと、次には焼きつくような痛覚が、全身の神経を駆けた。何、と思った瞬間には加奈の体は支えを失ったように崩れ落ちる。足の先から噴出す、黒い血液が視界の端に映った。
斬られたのだ。足首から、先を。今の一手で。切り離された足の先が川に落ち、黒い筋が水に流れる。
「飛燕――!」
叫ぶ。加奈の首筋に、刀の剣先が突きつけられる。人工血球の体液が、加奈の頬にかかった。
「疾人、もういいよ」
と飛燕が言うのに、疾人は納刀して飛燕の元に戻った。加奈は地面に這いつくばりながら呻く。飛燕、貴様、と。
「桜花、本当は君ともっと解りあいたかった。語らいたかった。あの施設を一緒に出て、共に生きることができたなら――僕らの結末もまた違ったかもしれない」
そう言って、寂しげに笑った。疾人が鈴に、ヘリに乗るよう促した。その間、鈴はずっと悲痛な表情を浮かべていた。疾人が乗り込み、最後に飛燕が、薄い微笑を貼り付かせながら乗った。
「結末などと、言うな」
加奈は鈴が消えたヘリが離陸するのを、睨みながら言った。
「結末などと――!」
声を振り絞る。飛燕はちょっとだけ哀しそうな顔をして、しかしそれも直ぐに見えなくなった。ローターの音と共に、空に消え行くのを、地に這ったまま見送る。それしか出来なかった。
やがて所轄のヘリが降下してくるのを、遠ざかる意識の狭間で聞いた。頭の中が真っ白になるのを感じつつ、最後に映ったのは明蘭の、切迫した顔。