5―6
大きな真ん中、何も無い平面――その中で、たった一人で佇む少女の姿を見た。傷だらけの肌、汚れた手足。細い体には、布切れみたいな粗末な衣服を纏っている。肩を震わせて、俯き加減の瞳には、涙を一杯に溜めて。けれど、声を上げることはない。泣いてはいけない、泣くな、と誰かに言われているのか、あるいは自分自身にそれを課しているように思えた。唇を噛んで、下を向く。涙は後から後から溢れてくるのに、声を上げ、慟哭することそれ自体が罪であると感じている――そんな風に映る。小さな身体に抱え切れない痛みを負っている、それは、その子供は自分自身だった。
暗闇で、目を覚ました。眩暈を伴い、波紋を広げるものがあった。欠落の透明なうねりが、心中を満たしてゆくのを細胞が感じ取る。
「鈴」
と呼ぶと、膝の上で鈴が寝返りを打った。月明かりが寝顔を照らし、口元から小さな歯が覗いている。赤ん坊のように身を縮め、どんな夢を見ているのか、小さく寝言を言った。
ほっと、安堵する。髪をなでてやると、鈴がくすぐったそうな笑みを洩らした。良かった、どこにも行ってない。この子はわたしの元を離れたりしないで、ここにいてくれた。それだけで充分だ、充分過ぎる……とそこで、自分の頬を伝うものを確認する。手で拭うと、紛れもなく涙だった。どうして自分が泣いているのか、分からない。ただ漠然と感じているものがある。虚無感が支配する心を、埋めてゆく何か。痛みを、消し去るもの――
鈴、とまた呼んで、その響きが柔らかく、愛おしい。
何も、なかったのだ。加奈には何もない。あるのは自分という容れもの、存在だけ。名前も仮初ならば、自分を構成する骨も肉も、あるか無しかの有機物。それも、最初から在ったものではない。分子を組み上げて、ボトムアップに造られた身体は、ユニットごとに組みあげて、さらにそのユニットを組んで創り上げる人工知能や集積回路とどれだけの違いがあるのか。肉体にも精神にも、それほどの意味はない。自己同一性と呼ぶものは希薄で、存在している、ここにある、ということだけが唯一自身を規定する。施設で生まれたときから、ずっとそう。武器を持たされ、生まれて初めて殺して、初めて血の感触を得たときも。施設の大人たちの、強靭な手に掴まれて、体中を節くれだった指が這い、嬲られて、慰み者にされたときも。大して何かを感じることもなく、その全てを「情報」として受け取っていた。ただ、内側に溜まってゆく膿だけを、不快なものとして捉えていた。鬱屈したものを、吐き出す、だけで事足りた。そうやって、生きてきた。
今は、この手の中に眠る少女を――鈴を、守りたいと思う。都市の中に戻れない、それでも良かった。この子のためになら、何でもしてやりたい、と。強く、感じる。たった1人でも、味方が他にいなくとも。この子と共に、生きてゆきたい。愚かしいとか、狂っているとか、今の自分を笑うものがいても構わない。消されかけた命を、守るのは自分しかいない。
だから――もう迷うことはない。
わたしが、守る。
日が差し込んでくるのに、眩しさに目を細めた。割れたガラス窓から聞こえる、鳥の声が、朝であることを告げていた。
「朝だよ」
と鈴に呼びかけると、眠い目をこすりながらもぞもぞと鈴が起き上がってきた。
「あ、おはようございまふ……」
寝ぼけているのか、舌足らずな声で言う。目を半開きにして、まだ眠そうにしているのに加奈は
「あんた、すごい顔しているよ。顔でも洗ってきなよ」
「ふえ? 顔、ですか?」
「さっき、小川を見つけた」
加奈が窓の外を指差した。石ころだらけの荒れた土地を斜めに切るように流れる、透明なせせらぎが、迷光を反射させていた。
「有害物質はないはずだ。魚が結構いたからね」
「魚、ですか」
「食用にはならないだろうけど」
そういえば、携帯食糧が底をついたのだった――自分は1週間ぐらい絶食しても生きてはいけるが、鈴はやはり、何か食さないと持たないだろう。この先の山を越え、どこかの“中間街”に行くには。
「ふむ」
といって加奈は、床に散らばる瓦礫や建材を見渡した。良く見れば、使えそうなものもある。ナイフを抜いて、先ずは床板から剥きだしになっている導線を引っ張る。適当な長さに寸断し、次にジュラルミンの棒――おそらく、窓のフレームだったものを取り出した。
「何しているんですか」
と鈴が訊いてきた。一通り、あるだけの材料を組み上げて弓を作り上げる。作動を確認してから、言った。
「狩りだ」
本当は銃を使えればいいのだが、そうもいくまい。こんな所で銃弾を浪費したら、いざと言うとき身を守れなくなる。ここから街までは、どれだけあるのか分からないのだから。ましてや、都市外部とあってはどこにサムライが潜んでいるかも分からない。対機甲弾は、最後まで取っておきたい。街につけば、とりあえず身につけている金属や服を売り、金を作ることが出来れば当面の間は生活できるだろう。
場合によっては、この廃墟に残された金属を採りに来てもいい。サムライになるのは御免だが、加奈のように武力に頼って生きていた者たちのために、暴力を必要とする仕事は“中間街”にはいくらでも転がっている。そうやって、名前と素性を隠して潜伏すればいいだろう。街に、着けば。そのために、先ずは、飯だ。そう言って加奈は、自作の弓矢をつがえた。矢は、ステンレスを削ったもので、セラミックの矢羽を取り付けてある。急ごしらえではあるが、とりあえずまっすぐ飛ぶことは飛ぶので良しとする。山道を駆け上がり、生物の気配を探った。
野鳥の一羽でも獲ることができれば、それで事足りる。生体分子機械は、最低限の蛋白質さえ摂取していれば稼動するものだ。腕の埋め込み端末、網膜スクリーン、聴覚デバイスもATPを加水分解する際に生じる生体エネルギーを基に稼動する。普通に食事をすれば、体内の機器を止めることはない。ただし、問題は生体分子機械はいずれ、血液内で溶け、蛋白質の残骸となるということ。そうなると、それが血栓となり血の循環が悪くなる。さらに加奈の場合、本来、生物の身体にはない無機部品が存在する。珪素分子、金属錯体、炭素同素体、それらが古くなって、生体内を流動すると――生体を傷つけないよう、年一回のメンテナンスが必要だったが、“中間街”ではそれも適わないだろう。加奈の血を洗浄する技術を持つ人間が、都市の外にいるとは思えない。もし、このままならば、加奈の体は持って3年――5年、10年となると全く保証はない。だが、それでも構わないと思う。それまでに、鈴が自立出来るようになるまで生きていれば。その覚悟はある。自分の体が持つまでの間、あの子に自分の持てる技術を教え込まなければなるまい。こうしたサバイバル技術も含め――。
とその時、木々の間に黒いものが動いた。矢を番える。良くは分からないが、鹿かなにか、獣のようだ。ついている、と空気を吸い込みながら、ゆっくりと弓を引き絞った。息を止め、臍下丹田に力が溜まる「会」の位。神経が、鋭敏になる。
息を吐き出すと共に、矢を放った。真っ直ぐに、回転しながら唸るステンレス矢。獣の背に、突き立つ。柔い肉に先端が埋り、鮮血が舞うのを想像する。
カン、と乾いた音がして、矢が弾かれた。金属の触れ合う音だった。
「あれ……?」
確かに当たった、はずなのだが……そいつは意に介さないように、じっとそこに立っている。加奈は矢を番えて、もう一度射る。やはり、矢は跳ね返った。おかしい。銃を抜いて、その獣に近づいた。獣は逃げる気配がない。
いや、獣、ではなかった。1m付近まで近づいて、その全容が明らかになる。
4つ足のロボットが、樹木の付近に頭を突っ込んで、センサを地面に押し付けている。犯人の臭いを嗅いでいる、警察犬のような仕草だ。
警察犬、いや違う。これは
「“猟犬”か、これ」
4本足のロボットが、1つ目のセンサを加奈に向けた。電子音を響かせるのに、確信した。
これは“特警”科学班が開発した、バイオチップ搭載型追尾ロボット、通称“猟犬”。おそらく追っ手来たのは――。
背後で鈴の悲鳴が聞こえた。




