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血液に、不純物が溜まるのを、鉛のように疲労した筋肉が伝えてくる。一歩進むたびに、底なしの沼に足を踏み入れ、凍える空気が皮膚を這い回ると、疲労が更に蓄積してゆく。バイオセンサーが疲労物質多寡を警告するが、そこで足を止めれば自分だけでなくこの子も――鈴も共倒れになってしまう。その思いだけで歩を進めていた。
重い、足取り。生体分子機械が酸素を運び、血流を促進するドラッグ・デリバリー機能も、時間が経てば機能が鈍るというわけか。いくら機械と名がついていても、生物機能工学に基づいている以上人体が持つ恒常性維持には逆らえないということか。いっそ完全な機械のように、疲労することなく動き続けて欲しいものだが ――所詮、自分は生身か。効率がいいのか悪いのか、いまいち良く分からない。
「やっぱり、降りましょうか」
と、耳元で鈴が心配したように言った。加奈は、心配するなと言う。
「あんたは、わたしと同じようには出来ていないんだから」
DNAは同じでも、と背負い込んだ鈴の身体をずり上げる。子供の足で、この山道は辛い。鬱蒼とした林の中の、舗装もされていない獣道というものは。整備された山道を歩くのとは訳が違う。角ばった岩石ばかり目立つ木々の間を、ひたすら歩を進める。
時刻は22:12、夜が降りている。
「ここはどこなんですか」
と鈴が言うのに、三重に入ったところだと告げた。今頃は、海上保安庁が洋上を捜索しているところだろう。伊豆大島の方面に走らせた囮の存在に気づけば、陸上捜索に乗り出すかもしれない。その前に、どこかの“中間街”に腰を落ち着けて潜伏しなければ。気ばっかり、急いていた。
そうは言っても、もう2日続けて歩き続けている。この体も、そろそろ限界だった。休息が欲しいと、思う。
何度倒れかかったか分からない。眩暈とは違う、意識の混濁が神経を断ち切り筋肉を弛緩させるのを、何度も感じた。そのたびに、背中にかかる重みを意識して、踏みとどまる。自分が背負っているものの重さを認識して、再び歩き出す。
彼方から、ローター音が響いてくる。都市警の捜査の手が伸びてきているのだろうか、それとも軍だろうか。“中間街”に捜査の手が及ぶと厄介だ。と言っても、都市警が“中間街”で自由に動けるとは思えないが、軍がレンジャー部隊を派遣するか、若しくは“特警”が介入したら――
「急がなければ」
と呟く。“特警”は今の所、『天正会』と“幸福な子供たち”を追っているだろう。少数精鋭が身上の“特警”が、こちらの捜索に人員を裂けるとは思えないが、もし介入してくれば自分の居所など直ぐに割れてしまう。それだけ、捜査能力に差がある。共和国の成立以来、環境建築型都市内での治安維持とシステムの綻びに従事していた都市警と、成立以来“中間街”に的を絞って捜査をしてきた、その蓄積の差だ。それだけに、厄介なのは“特警”。敵に回せば、これほど厄介な相手はいない。ただ、今の所“特警”が介在する気配はない。ネット上では、都市警が所轄と協調して晴嵐加奈の捜索に当たっているとし、“特警”は引き続き『天正会』の捜査を行っている。
“特警”、もうあそこには戻れない。ショウキの声が耳にこびり付いている。最後に見た、ショウキの顔が脳裏にちらつくのに、幻影を振り払うように首を振った。覚悟はしていた。今までのこと全て、捨て去る覚悟は。生活も、地位も。鈴を救うと決めた時から。同じ血を持ち、加奈のDNAを元に生まれた、この子を。
気づいていた、のかもしれない。自分にもこういった感情がある、ということが。合理的な状況判断や行動原理に基づかない、曖昧な感情というもの。0と1、有機物と無機物……背反する二つの事象、決して交わらない平行するベクトル。この世に生を受けてから、相反する2つのうち、より合理的な方を選択することを教わり、事実そうしていた。それがあの時、拘置所を前にして加奈の心には迷いが生じていた。0か1、その判断ではない。限りなくグレーに近い思考がよぎり――そして次の瞬間には、もっとも合理的ではない判断を下していた。
あんたは笑うかい、加奈、と自分に問いかける。きっとひと月前の自分なら、こんな愚かしい判断は下さなかった。生体不正取引の嫌疑を晴らす、そのことだけに集中して、赤の他人たる鈴に特別注意を払うことなく――この子を、見殺しにしていただろう。哀れとも、不憫とも感じることなく。
きっと加藤も、同じ思いを抱えていたのだろう。今になって、ようやく理解できる、気がしてくる。“中間街”で自爆した少女、その死を思い、合理的とは言えない感情を抱き、苦悩した――加藤は少なくとも、そう感じていた。おそらく加奈も、同じように苦悩することとなっただろう。鈴を失い、空しい思いを抱えて生きていく、ことになっただろう。
殆ど衝動的なものだった。自分を突き動かしたのは、0と1の判断ではなかった。それは数理的判断に基づかない、自身の感情の揺れ。そうした説明もつかない、理屈ではないものが加奈を動かした。やはり笑うよな、加奈。昔のわたしなら――いや誰だって、今の自分を見れば呆れて口を閉ざし、愚か者と罵るか、それすらも馬鹿馬鹿しいといった感じに冷笑するだろうか。見えない誰かの、嘲る視線が突き刺さるような気がしたが、それも大して苦にはならない。自分の下した判断に、後悔など感じてはいなかったから。
「加奈さん」
と鈴が唐突に言う。何、と聞き返すと鈴が指差した。
「あれ、人が住んでいる所、では」
鈴が示す方向には、古い時代のコンクリートの建物があった。
近づいてみると、それはどうやら廃墟のようだった。散乱した機材は腐食して、朽ち果てている。埋め込み型端末や分子端末の普及していない、有配線形のコンピュータが、導線と基盤を剥き出しにさせて散乱している。加奈が足を踏み入れたところは、どうやらオフィスのようだった。
「記録を洗うことは難しいか。政変前とは規格が違う」
鈴を下ろし、端末のフラッシュライトで照らすと鼠が2,3匹、逃げていくのが見えた。鈴がしがみついてくるのに、加奈は手を握ってやる。
「誰もいない、か。当然だな」
廊下、であっただろう通路を踏みしめるとガラス片が割れる音がする。瓦礫が散乱して、足を踏み入れる隙間も無い。“蟻塚”の方が、マシに思えて来た。あそこはそれでも、一応の住環境は提供していたからな、もっともまともな神経では住めない所ではあるが。
天井のパネルが崩落し、配線ケーブルが垂れ下がっている。長い間、野ざらしにされたであろう、塩化ビニルは溶けて中の銅線、グラスファイバーがちらついて、それが腐乱死体の手指を思わせた。絶縁体の塩化ビニルが腐った肉、垣間見える骨に相当するのは中の配線。ナノケーブルが工業利用されるより前の時代には、金属のケーブルが主流だった。“中間街”にはまだ残っているが、しかし先ほどのコンピュータといい、金属部品が残されているというのは妙な話だ。政変前の建物や工業製品からはレアメタル採れる。この辺には人がいないのだろうかと考えた。
鈴が、震えている。加奈は手を握った。
「怖いか?」
と訊くと、鈴は首を振った。しかし、その目にははっきりと恐怖の色が浮かぶ。まあ、無理も無いか。
少し、休めるところがあればな――廊下を歩きながら、そう思っていたとき、窓の外にある朽果てたトラクターが視界に入った。ガソリンで動くタイプだろうかと思ったが、そうではない。車体の横に不恰好なタンクが取り付けられている。これは外燃機関、それも木質ペレットを熱源としたスターリングエンジンだ。現在、主流の水素菌搭載エンジンとは違う、木質バイオマスを燃料とする。傍らには腐った木材、そしてその向こうには――暗くて良くは分からないが、伐採された森林の跡があった。山の木は切り倒され、山肌が露出している。
「昔の、林業の会社か」
と呟く。
「これで最後だぞ」
と加奈は、油粘土のような携帯食糧を千切って、鈴に渡してやる。鈴は両手で受け取り、さらに細かく千切って口に運んだ。
「とりあえず、ここで野宿ってことになりそうね」
加奈はそう言って、しゃがみこんだ鈴にジャケットをかけてやる。
「あの、これは……」
「いいんだ。この時期になると夜は冷えるし、わたしは平気だからさ」
と言って、鈴の隣に腰掛けた。
「ここらには、人がいないから。しばらくここで休もう」
「人……いないんですか?」
「裏の禿山、見ただろう? 伐採されて、新たに木が生えないああいう山ってのは、雨が降ったら土砂崩れを起こす。誰も住みたがらないだろう」
コンピュータやケーブルの金属がそのままになっていたのも、そのためだろう。加奈は壁にもたれかかって言った。
「『興国の政変』より前、かつてこの国でクリーンエネルギーたるバイオ燃料の開発ラッシュがあってね。トウモロコシや穀物からエタノール取り出したり、家畜の屎尿をメタン発酵させたり……木質バイオマスたる木質ペレットもその1つ。当時はエコだなんだって騒がれて、木質バイオマスへの投資熱が加速したそうよ。それまで衰退の一途を辿っていた林業も、その投資熱の中で息を吹き返したらしい」
「はあ……『興国の政変』って30年も前のことじゃ、ありませんっけ」
「養父に、教わったから、少しは知っている……その後、国のゲノムプロジェクトで遺伝子組み換え型の水素発生菌が生み出され、それらを用いた新しいバイオ燃料が生まれた。その結果、木質バイオマスは廃れ、林業も衰退した。この会社も、もともとは林業とバイオマスの両方で持っていたんだろうけど。ブームが去った後は、まあごらんの有様」
そんな事情で潰れた企業など、よくある話だ。産業の盛衰、その狭間には時代に鳥の越された人間も少なからず、いる。
「1つの産業に対し、国が過剰にてこ入れすると、どこかでバランスを崩す。ガソリンエンジンやバイオ燃料に関しても、段階的な利用をしていけば……流れに任せて産業転換を図っていれば、これほどの経済格差は生まれなかったかもしれない」
政府のゲノムプロジェクトは国を潤したが、同時に産業構造の推移について行けなくなった者たちが、都市の外に居を構え、やがて広大な“中間街”が生み出されることになった。旧市街地の“中間街”化は、金融不安やアジア諸国の緊張、共和国の成立やそれに伴う再軍備……それらの要因が複雑に絡みあって出来たものではあるが、加奈には急激な産業の転換が主な原因のように思える。
「あんたにゃ、難しすぎたかね」
と加奈は言い
「もう寝な。今のうちに体力を温存しておかないと、後々つらい」
そう言う加奈も、少し休もうと思った。疲労はピークに達している。瞼が勝手に落ちそうになった。自分が眠ってしまうと鈴が危険に晒されるやもしれない、そう考えるもだからといってこのまま疲れを引きずってしまえばいざというとき鈴を守れないかもしれない。ここは短時間でも、眠ったほうが良い。それでも念のため、部屋の入り口にワイヤーを張り巡らせて罠を仕掛けておいた。右手にブローニングを握って、撃鉄は起こす。
鈴が、身体を預けてくる。左手でそっと、肩を抱く。冷え切った加奈の手に、体温が伝わってくる。かすかな寝息が、聞こえてきた。加奈の胸に顔をうずめて、眠っている。やはり、この子も相当気を張っていたのだろう。頬を撫でて、髪に触れた。この肌も、髪も――加奈のDNAから出来ている。けれど、決して同じ物ではない。生体分子機械の埋め込みのされていない、純粋な身体。炭素同素体や珪素集積体を導入した、混ざり物な肉や骨ではない。それを思うと、言いようのない欠落感に駆られる。また、ノックアウトか――けれど、フラッシュバックは襲ってこない。ここ最近は、錠剤を服用することもなくなった。蝙蝠病というのは長引くと言うが――誰のお陰だろうな。胸の中で眠る少女を見ると、自然に笑みがこぼれてくる。
きっと、守るから――
そう囁くと、鈴が少し身じろぎした。
「きっと……」
今度は自分に、言い聞かせて。
目を閉じた。