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シャワーから注がれる水が、栗色に艶めいた髪を濡らす。水滴が、長く上向いた睫に跳ね返り、細くたおやかな首筋に絡みついて白い絹の皮膚を滑り落ちる。億単位の水分子が皮脂と埃を洗い流し、漱がれた湯はしなやかな腰周りを経由して引き締まった脚の筋肉をなぞる。きめ細かな肌を叩く、透明な水晶球の粒子が跳ねた。
一定時間、そうしていた。あとからあとから、繰り返し振ってくる純水に顔を叩かれながらも、それが出てきた先を見つめていた。細胞に浸透してゆく感触が途切れると、ようやくバルブを閉めて浴槽を出た。タオルを引っ掴んで水分を拭うと、ショーツを穿いたままの姿でシャワールームを出た。
網膜は、まだ6:30。眠りに就いたのが2時だったので、4時間しか寝ていない。体がだるく感じたが、埋め込んだバイオセンサーは体の異常を検知していない。睡眠が器に及ぼす影響は、実はあまりないのかもしれない。きっと心理的なものだろう、体はもう眠りを欲してはいなかった。
窓を開ける。
朝の陽が差し込んでくるのを、手で遮る。晴れ渡った相模湾が深い青を湛え、水平線上には盛り上がった人工の島が霞んでいる。すぐ下は太陽光発電のパネル群が広がっていた。フェムトレーザーで加工された鏡面が反射し、プリズムが発する迷光を思わせる。化石燃料が枯渇し、ソーラーシステムが作り出す太陽光は重要なエネルギー資源の一つとなった。とはいえ、このパネル群だけで都市の電力供給を占めるわけではない。バイオ燃料や水素電池、複合型資源供給によって環境建築群の電力がまかなわれている。循環する都市の、一番最初に目覚める施設が複数の資源プラントで、ソーラーパネルに設置された液晶が発電中の文字を表す。
その、生み出された電力が有機EL分子に反映される、壁紙状のディスプレイを点ける。国営テレビが映し出されてニュースの見出しが表示された。
テロ関連のニュースが圧倒的に多い。大抵は20年前に蜂起した、反体制組織による事件など。右翼結社、ヤクザ、宗教団体が武装し、彼らは“中間街”を拠点として活動している。『天正会』は、東日本最大といわれる勢力で東北を中心に活動している。関東は比較的安全、ではあるが。
『……新宿闘争の主犯と見られる、新伝龍三氏の行方を追って特別保安警察の……』
深刻な顔でわめき散らすニュースキャスターの斜め左方向に、頬のこけた痩せぎすの男が立体映像で浮かび上がっている。尖った顎の鋭い目、いかにも神経質そうな顔の直ぐ下には『天正会幹部 新伝龍三』と黄土色の文字で刻まれる。もっぱら、世間の関心はこの男に向いていた。3年前、ヤクザとサムライが機動隊と衝突した新宿の事件以来ずっと。下手なアイドルや俳優よりも有名だ、この国では。そして、“特警”がもっとも頭を悩ませているのも事実。
フラットな合成革のソファーに座ると、内容物たる液体が体を包む。背もたれが、ヒップラインを象った。まだ2時間以上ある。一度目が覚めると、意識のベクトルは覚醒へと向く。再生ペットボトルを満たす、ジャスミンティーを喉の奥へ流し込む。細く詰まってしまったような食道を、着色された水が無理やりこじ開けるのを感じていると、左腕の埋め込みチップが赤く光った。
この朝早くから、通信か。網膜には“RYOKO AMIYA”と表示が刻まれている。PDAから電極を引き伸ばして傍らの端末に接続した。日立製のホログラム投影機、青白い光の粒子が人間の顔を形作って浮遊する。おっとりとした顔の日本人女が投影された。
『起きてる、加奈』
と、その人物は言う。二口目の飲料を飲み下しながら加奈は
「どうかしたの、涼子」
涼子は加奈の格好――ショーツを穿いてタオルを首からかけただけの姿を見て、最初は目を見開いて次には呆れた顔になる。
『またそんな格好、あなたは。止めなさいよ、いくら誰もいないからって』
わたしだったから良かったものの、という涼子はあからさまに目を背けていた。映像では判別しがたいが、多分顔を赤くしている。そういう女なのだ、この阿宮涼子という個人は。
「本質が見えないから、纏った衣服で人の価値を図る。肉を削いでしまえば、等しく骨組みが残るだろう。肉なんて飾りだ。いわんや服装なんて」
『そういう、わけの分からないこと言ってはぐらかさない。肉とか骨とかの前に、あなた女なんだから』
「ならばますます愚問だわ。男女の違いなんて染色体の選別の違いであって、そこにある差異なんて微々たる物よ。大体――」
『あー、もういいわ。そんな議論していたら日が暮れる』
と言って涼子が一方的に話を打ち切った。いつもこんな調子だから、涼子の方も分かっている。確かに日が暮れるかもと思った。日が暮れるほど話せるのもまた、加奈にとっては涼子だけだった。
「んで、何の用?」
『用――っていうかね。この間、加奈たちが押収した流出生体なんだけど解析結果がでたわ』
「そんなこと、本部のブリーフィングで言えば良いでしょう」
『本部で話す前に、ちょっとあなたに言っておきたくて。あっちでは時間が合わないじゃない、科学班とは』
「そう? 明蘭なんかしょっちゅう捜査部に来てるよ。うちの若いのにちょっかい出しに」
体にフィットした衣服を着て、山下ら年下の男性陣に色仕掛けでせまる、小顔の中国人を思い浮かべる。いい年して男漁りに精を出している、科学班のチーフ。いわば、涼子の上司に当たる。涼子は渋い顔をして
『あの人は、まあ特別だから……有る意味で』
「20世紀から生きているってだけで特別だよ。それで、どうするの」
『今日、わたしは午後からなの。だから、一度本部で会って話しましょう』
なら、いつもの場所で。加奈が言うと涼子は了解の意を伝えた。回線を遮断すると、ホログラムに一瞬ノイズが走って次には消えた。音声が途絶えると、再び喧しいニュースが耳に蘇ってくる。キャスターが京都の武装組織がどうとか言っていた。関西ともなると、この横浜とは別世界。区切られた門の外のことなど、深海の底よりも遠く感じられる。
時刻は7:00を刻んでいる。そろそろ時間だ。加奈は立ち上がり、クロゼットから真新しいブラを取り出した。
ワイヤーが胸を締め付けるのを感じつつ、プラスチック瓶を取り出して、手のひらに青緑色のカプセルを3つ落とす。体内環境に保つための、サプリメントを。それを放り込んで水で流し込んだ。何も、味はしない。この街で、味覚を意識することは殆どない。ハイブリットカーに水素菌と電力を送り込むようなものだ、やっぱり肉には意味がない。
肉か、わたしの場合は“肉”と呼べるのか――と、ふとそんなことを思って、しかし馬鹿馬鹿しいとその考えを打ち消した。意味のないことだ、そんなこと考えるだけ。答えの出ない堂々巡り、何度繰り返したことか。
スーツを着る。
地下駐車場に降りると、501と書かれたスペースに止まった車に乗り込む。黒ダイヤに似た光彩を放つ、ポリマーコーティングされたボディはトヨタの水素ハイブリット車だ。キーを差し込む。水素エネルギーと太陽光発電を備え、モーターとエンジンの混合された駆動音が静かに、唸るように響いた。GPSが立ち上がり、AIが無機質な声で行き先を尋ねる。仕事だ、と言うと馬鹿丁寧な言葉でかしこまりました、と返してくるがロボットが畏まったところでどうしようもない。いいから早く行け、そういうと半自動制御化された車がノロノロと動き出した。
視界が開けると、都市を巡る高速道路に至る。
この時間の高速道路に混雑はない。黒塗りの角ばった車は、棺桶に似る。それが理路整然と敷き詰められたアスファルトのブロック上を滑るように走行。同じように行き交う車を横目で追っていると、道路の外にあるいくつもの多層型建築物、横浜のエネルギーを賄う資源プラントのドーム群に混じって企業のビル群が切り立つ断崖の危うさを以って林立していた。その建造物の中、頭一つ高い広告塔の文字――“セイラン・テクノロジー”とある。生体分子機械市場シェアの40%をセイランが占め、医療用分子機械の殆どを供給しているバイオ関連企業の最大手である。そして創始者、晴嵐幸雄は加奈の養父でもあった。“中間街”でくたばり損なった加奈を拾い、養子として迎え入れた。今の加奈があるのは、幸雄のお陰でもある。当初、幸雄は加奈を企業家へと、自分の後継者として育てるつもりだったそうだ。しかし、加奈が義父、幸雄の事業に関心を持つことはなかった。それは今でも変わらず、セイランの広告を見たところで加奈にとっては恐ろしく他人事なのである。
「セイラン株、1.2ポイント上昇」
電光掲示板を流れる文字をそのまま読み上げた。投資家たちは、こういうニュースには真っ先に飛びつく。どうやら上がり調子じゃないか、と独り言を呟くと車のAIが目的地周辺に着いたと伝える。
『手動運転に切り替えます。よろしいですか?』
「はいよ」
ハンドルを握って、ぶっきらぼうに応じた。
左側に、円柱の如く現れた構造物。“特別保安警察”、通称“特警”の本部ビルが、並び立つ建物の合間から姿を現した。外見は企業のビルにしか見えないのは、カモフラージュの意味もあるらしい。入り口のガードロボに本人認証を促され、網膜と静脈、骨格を照合される。それにパスしないと目の前で冷たい鉄の相貌をしている、丸みを帯びたロボットに拘束される。逃亡すれば門に仕掛けられた7.62mm機銃に狙い撃ちにされるという警備体制。命知らずのサムライでも、ここに襲撃をかけようとする人間はあまりいない。
駐車場でも車種照合をかけられていよいよ本部ビルの内部に滑りこんだ。