4―7
少年が、ある日泣いているのを見つけて、少女は声をかけた。どうして、泣いているのか。と問う。ふと、少年の手の中に在るものをみた。血まみれの肉の塊。ただの有機物の残骸、と少女は理解した。
少年は
『死んじゃったんだ』
と言って、猫だった有機物の塊を愛おしそうに撫でた。哀しそうに鼻をすすって
『昨日まで、あんなに元気だったのに。餌、上げたんだ。残り物だけど、それがまずかったみたいで』
いつか死ぬのは、生物が生物たる所以だろう。いずれ死ぬ、それは決定されていること。いちいち騒ぐことじゃない――少女が言うと、少年は顔を上げて
『桜花は、哀しくないの?』
なぜ哀しむ、必要がある。生物は
『生物は、死んだら元に戻らないんだ。二度と』
二度と――
赤紫色に鮮烈な集積体が、感情のうねりを生む。白濁した眩暈を感じつつ、閃光に焼きついた。
生命の不可逆性、それを最初に示したのは。ああそうか、あの子、だったな――飛燕。
意識のはるか下層で、その名を呼んだ。
ナイフを滑らせる、漣にも似た音を耳元で聞く。
ベッドサイドテーブルに置かれた皿に、薄く帯状に削ぎ落とされた林檎の皮が落ちていくのを横目で見ながら、加奈は紙媒体の雑誌のページをめくった。
メディアのデジタル化が進む一方、昔ながらの報道を守り抜く、国内でも数少ない雑誌社である。記事は足で書く、というのが社訓だというが、しかし書いてある内容は他のメディアと変わらない。静岡の事件で“特警”の対応の遅さをあげつらう記事ばかり続く。勝手なことを言うな、と半ば呆れつつページを閉じた。勝手なことだ、民衆なんて。自分たちはリスクを取ることをせず、安全圏内から何かと文句をつけてくる。実際に武器を取ることなんかしないだろう、お前たちは。自分ができないことを人に強要して……と言うと、また眩暈と吐き気が沸いてくる。プラスティックケースに手を伸ばすが
「出来ましたよ」
と鈴が、言うのに振り返った。セラミックの皿に綺麗に盛り付けられた林檎を差し出して、笑う。それを見ていると、不思議と吐き気も眩暈も収まっていくのが分かる。そういえば、鈴と暮らすようになって錠剤を飲まなくなった。
「奇跡だ」
「え、何がですか」
「いや……貰おうか」
フォークを果実に突き立てて、頬張る。この林檎は涼子の差し入れだった。天然物にこだわるだけあって、味はいい。
「しかしあんた、ここに来て5日経つけどまだ病院に寝泊りしているの?」
「大丈夫です。涼子さんが色々揃えてくれましたから。着替えと日用品も」
「居座るつもりかよ」
果汁が喉を潤していくのを感じつつ、加奈は半身を起こして言った。
「わたしはこんな状態だから、あんたに何かあっても対応できるか分からないし。病院にずっといたんじゃ、あんたの身が……」
「あ、心配して下さるんですか?」
「いや、別にそういうことじゃ」
言いよどんでいると、鈴が手を止めて
「加奈さん、なんか顔赤いですよ。熱でもあるのですか?」
と言う。え、と加奈が言った瞬間。
鈴がいきなり、自分の額と加奈の額とをくっつけてきた。慌てて顔をそらそうとするが、繋がれた管が邪魔で、それも叶わず……
ことん、と鈴の小さな額が加奈の額に置かれた。
「少し、熱っぽいですね。副作用でしょうか」
と言う鈴の唇が、眼前にある。キスできそうな位置にあった。近くなる、呼吸。鼓動が早くなる。
「あ、あのさ……鈴」
ようやく、それだけ発した。
「身体の異常は、バイオセンサが知らせるから……なんというか、そういうこと、しなくても……」
「でも、これが一番確実ですよ?」
そんなわけないだろうが。鈴が離れたのに安堵しつつ、そう言った。顔に手をやると、確かに熱を帯びていた。
「こんな、アナログな方法で、その……熱を、計れる、わけ」
「わたし、いつもこうしていましたけど……」
鈴は首を傾げたて言った。
「ダメですか?」
「ダメっていうか……」
そう言えば、“中間街”にはバイオセンサーの類など存在しない。生体をゲル化チップに固定して、生体由来の分子認識測定を行う――そんなことを、知るはずもない。あの街にいて。
「なあ、鈴」
そこまで思って、加奈はふと口に出した。
「あんた、“中間街”のどの辺にいたんだよ」
「え」
と鈴は、困ったような顔になった。目を伏せて、スカートの裾を握り締めた。
「あの……それは」
指をすり合わせて、言葉に詰まる。切れ切れに、言った。
「やっぱり、捜査の……ためですか」
「記憶障害ってのは」
と加奈が林檎を口に運んで
「無理に思い出そうとするとつらいのは、承知しているつもり。だけど、あんたの背後関係を洗えば新伝に関する情報も、掴めるかも知れない。ぐずぐずしていられないんだ」
はあ、と分かっているのかいないのか、曖昧な返事をしてきた。鈴は肩をすくめて、うなだれていた。
「思い出したくない、ものだってあろうがな……」
わたしもそうだったから、と呟く。記憶の隙間、格子に張り巡らされた思考の間を、己の意識体がすり抜ける。何も、考えない。それが、“中間街”のフラッシュバックを想起させない唯一の方法なのかもしれない。記憶の網にからめ取られ、己が身を焼かれるくらいなら、いっそ識閾下を浮遊する無機物体でいたほうが。少なくとも、苦しまずに済むだろうから。
そうしなければ生きていけない、人間は少なからず存在する。精神を苛まれ、肉体を蝕む過去の呪縛。逃れるために、人は忘却を手に入れた。高性能の分子コンピュータや量子コンピュータには決して成し得ない、忘れるという作業。非効率に見えるが、忘れることができなくなれば。
わたしは、きっと「ヒト」足り得ない――そう感じる。
「けど、何か一つでも手がかりがあればな……なにか、あんたが覚えていることでもあれば」
鈴は俯いたまま、やがて小さく、言った。
「あの、加奈さん……」
「ん、何?」
「あ、あの……わたし……」
喉を奮わせて、か細い声を発する。それを言い出すことを、躊躇している、かのようにも見える。唇を噛んで、何かに堪えるように息を止めて……意を決したように口を開いた。
「あのっ、加奈さん。わたし――」
言いかけた時。
病室の扉が開いた。
「ん、涼子、か?」
加奈が入り口の方を見るが、しかしそこにいた人物は――。
「邪魔するぞ、加奈」
ショウキが、いつものように米軍払い下げのジャケットを着て立っている。傍らには山下が、大柄な身体を小さくさせて軽く会釈してきた。
「ショウキ……」
今度は、加奈が言葉に詰まる番だった。
「医者に、意識が戻ったと訊いたから。毒はもう、分解されたんだろう」
と踏み込んでくる。山下が「ちょっと、やっぱりまずいですよ」とか何とか言うのにも聞かず、部屋の隅にあったパイプ椅子を掴んで座りこんだ。
「ヨオ、加奈。どうして来たか、お前にゃわかるだろう」
「……ああ」
分かっている、つもりだ。ショウキがここに来た理由、見舞いの類じゃないことも。
「遅すぎると、思っていたくらいだ……」
分かっては、いる。だけど
タイミングが悪過ぎる、と感じた。ショウキとあんなことがあった後で、顔を合わせ辛い。思わず、顔に手をやった。斬られた傷は、うまく修復できただろうか? 痕になっていたらどうしよう。大体わたし、風呂入っていないのに――そんな全ての要素が絡みあって、居た堪れなくなり。
顔を背けた。
「今、来なくたって……良かったのに」
「ああ、疲れているかもしれないが。でもこっちも切迫しているんだ。お前の退院を待っているわけにも」
そうじゃなくて――そうじゃないよ、馬鹿。あんた、間が悪過ぎるんだよ。加奈は俯いて、ベッドのシーツを掴んだ。山下が
「ショウキさん、やっぱり……」
と言うのに、ショウキは手を上げて
「お前はそいつ、連れて外に出ていろ。俺ぁ、こいつと話がある」
有無を言わさず、そう告げる。山下は仕方なく、鈴を連れ立って病室を後にした。去り際、鈴が振り返ったが加奈は心配ない、というように手を振ってみせる。
ショウキはベッドサイドテーブルに肘をついて、寄りかかるようにして加奈の方を見た。
視線が、突き刺さる。
病院の、粗末な寝間着が乱れていないか、せめて胸元を引っ張って襟を正そうとする。それも無駄な努力だろうと悟った。
「何だよ、言いたいことがあるなら……」
まともに、顔を見れなかった。傷の痕が残っているんじゃないかとか、先日のことを何か言われるんじゃないかとか、そういう危惧もあった。しかし、それ以上に顔を見たらまた、あること無いこと言ってしまいそうで……きっとまた、口を突くのは罵倒と八つ当たり。唇を噛んだ。
「李飛燕」
とショウキが言うのに、顔を上げる。
「あの騒ぎ起こした奴ら、傭兵団“幸福な子供たち”を率いる、テロリストだ。ここ数日、奴の背後関係を洗っていたら、銀行の隠し口座から不審な金の出入りを見つけた。“特警”はこれを凍結したが、すでに全預金が引き出された後、だった」
「そう……」
と再び、下を向いて。細かく詰まってしまったような喉から、声を振り絞る。李飛燕、やはり彼は――認めざるを得ない、飛燕はもう、自分の知っている飛燕ではないと。
「やっぱり、知っているって顔だな」
ショウキが言うのに、加奈は
「どういうこと」
「恍けんなよ、お前さん。飛燕のことを知っていたんだろう。3年前までどこのデータベースにもなかった、“UNKNOWN”検体を。お前、あの時口にした『飛燕』って。あれは、李飛燕のことか」
「それは……そうだ」
「ほう」
とショウキが、身を乗り出してきた。
「なら、あいつとどういう繋がりなのか聞かせろ。一体、どういう関係だ? ええ? 加奈よ」
ショウキの言葉には、鋭利な刃物めいた響きがあった。犯罪者を詰問するような、取調官のような容赦のなさ。普段話すときとは違う、機械的で厳しい口調。そうか、と理解した。わたしは、疑われているのだな、と。同僚に対するそれではなく、ショウキの態度は犯罪者に対するものと同値であった。
「これか……」
加奈が呟くのに、ショウキが
「何だよ、なにかあるのか」
と訊く。
――数日振りに会って、第一声がこれか――
もう一度、そう言ってやろうかと思ったが。
感情は、胸の奥に抑え込む。
「初めに言っとくが、あんたが考えているようなものじゃないよ。わたしと飛燕は」
そう語り始めた。顔は、やはり背けたままで。
「都市に来る前の、“中間街”での話だよ」
当時、下田の孤児施設で育った加奈が会ったのは、灰色にくすんだ蛋白質の壁だった。
男子寮と女子寮に分かれていた施設で、その壁は2つの居住区を隔てるものであった。もちろん、多くの子供たちはその向こうに何があるのか、なんて知らない。だが、加奈はある時、壁の一部に穴が開いているのを見つけた。
「そこを潜り抜けた先に、飛燕がいた。施設の悪ガキどもにいじめられていたのを、わたしが助けてやってね。そこから、ちょくちょく会うようになったんだよ。飛燕とは」
若干の嘘を交えて――真実を言ったところでショウキは信じない――話してやる。少しだけ顔を上げて、ショウキの方を伺うと、なにやら腕組みをして顔をしかめていた。ショウキは唸りながら
「それで、その野郎とは?」
「ああ……それっきりだよ。わたしが8歳になるとき、施設が誰かに焼き討ちされて。その時、死んだものとばかり思っていた……まあ、わたしもそこで死ぬ運命だったんだけどね。運よく義父が」
「そっから先は知っているけど」
とショウキが言って
「施設のこと、そういうこと俺にはなんも、話さなかったからなお前。分かるはずもねえわ、飛燕とか言う奴のことも」
「別に、隠していたわけじゃないんだ。ただ、言い出すタイミングが掴めなくて」
「ふん」
とショウキが言って
「面白くもねえ」
懐から国産の煙草を取り出す。復刻版の金鵄、古典趣味なショウキには似合っている。独特の匂いが漂ってくるのに
「ここ、禁煙なんだけど」
「知るかよ」
ショウキは乱暴に、煙を吐き出して
「てめえのことなんか、知るか、もう」