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事件から3日過ぎ、加奈の意識が戻ったとの報を受けたのは、鎌倉に潜んでいた『天正会』の組員を叩いて本部に戻ってきてからだった。
「昨日、目を覚ましたそうです」
と加藤が言うのに、ショウキはそうか、と一言だけ言った。よりによって、こんな時に、とも思わないでもなかったがやはり気になることは先に片付けたほうがいい。ジャケットに血の臭いが染みこんでいないか確めて、ショウキは静岡の病院へ出向こうと駐車場に急いだが
「ショウキ」
と呼び止められた。明蘭の香水が漂ってきて、次にまた抱きつかれるのかと身構えたが。
「いい所であったわ、ちょっと来てくれる?」
と、割と深刻そうな顔をして言ってくる。ショウキは、いつもと違う明蘭の態度に違和感を感じつつ
「今からか? ちょっと加奈の所に行かなければならんのだが」
「加奈の所? なんでまた」
「いや、気になる事があってな」
すると明蘭は、眉を寄せて皮肉っぽい口調で言った。
「心配なのね、あの子のことが。仲のよろしいことで」
何か、似たような科白を聞いたことあるなと思って、ショウキは首を振った。どいつもこいつも、女ってのは面倒くさい生き物だな、と。
「あのな、いっつも思うんだけどなんでお前、加奈のことになると突っかかるんだ? この間のことにしても、さすがにあれは言い過ぎた」
「そうかしら。“中間街”上がりの人間なんて、信用できないもん。あたし」
「だから、そういう言い方が……」
「それより、来てくれる? 先日の“ゲノム・バレー”に関することでちょっと」
いやに、真剣である。からかい半分にショウキにちょっかいだして、ふざけているいつもの調子ではない。おかしな話だが、これほどプロらしい顔をしている明蘭は初めてみる、気がする。
「……分かった、聞こう」
とりあえず、切迫した表情の明蘭を見て言った。明蘭は、こっち、と言って廊下を指差す。
捜査本部と、科学班のある別棟を繋ぐ、ガラス張りの渡り廊下を歩きながら明蘭が
「先日の静岡で、あんた一体、どうやって“セイラン”の本社に入り込んだの?」
「ん、まああれだ……阿宮が持っていた、妙な分子機械を使って」
「あの子ったら、そんなもの持ち出したの?」
明蘭はため息をついて
「ま、緊急事態だったようだし、仕方ないわね。で、話っていうのはその分子機械にも関連したことなんだけど」
分子機械のことなんか、基礎中の基礎しか分からないショウキだが――あれが塩基演算システムの配列を変えるものである、ということだけは理解した。それと関連している、ということは、やはりコンピュータ関係のことだろう。
「専門外だぜ、おい……」
「文句言わないの。あなたもプロなら」
明蘭の口調は、なにか有無を言わせない強いものだった。こいつもこういう喋り方するんだな、いつもは鼻にかかった甘ったるい声しか出さないのに、と少なからず驚いていた。まあ、当然だろうな。明蘭が生きてきた時間、知識の蓄積は、ショウキのそれの比ではない。“特警”の頭脳を司るだけある、と妙なところで感心して
「お前って、やっぱ凄いんだな」
と洩らした。明蘭は何言ってんの、と怪訝そうに首を傾げて
「こっちへ」
スタッフオンリーと書かれた、コンピュータルームに通される。ここは確か、“特警”のメインコンピュータがあるところだ。ショウキは場違い感を覚えつつ
「なあ、こんなところに連れてきてどうすんだよ」
すると明蘭は、ノート型の端末を広げた。コンピュータルームの、サーバーに接続すると、端末のELスクリーンに塩基配列のマトリクスが映し出された。
「うちのコンピュータは、塩基演算システムを使っていて、世界中のメインコンピュータと接続している。ここまではOK?」
「そりゃ、まあな」
一応、ここの人間だし……と言うと明蘭は
「これを見て」
とノート端末を差し出す。そう言われても、分子配列の決定やアルゴリズムに疎いショウキには、縦横に並ぶ4文字の行列が何を意味しているのか分からない。明蘭は、肩をすくめて言った。
「この間、涼子が分子機械を使って端末を操作したの、見たんでしょ?」
「ああ」
「それと同じことが、この“特警”のメインコンピュータで行われた、形跡がある」
「は、はあ?」
「まだ分からないの? つまりここのコンピュータが」
明蘭は、ゆっくりと息を吐いて言った。
「ハッキングされた、ってことよ」
そう告げられると、ショウキは頭を殴られたような心地を覚えた。
「は、ハッキングだ? 鉄壁を誇る、うちのシステムに……」
「鉄壁なんてものはないよ、この世の中には。あたしの国が、そうだったようにね」
遠くを見つめるような目になった明蘭は、すぐさま端末に目を落とし
「分子の配列って繊細で、少しでも乱れると全然違うプログラムを叩き出しちゃうの。これ見て、最初のプログラムにはなかったヌクレオチドが追加されて、ベクトルが変わっちゃってる」
そう言われたところで、違いなど分かるはずもない。AとTという文字が整然と並ぶ液晶を見て
「ここのコンピュータ、本部のと違ってスタンドアローンだろうに。どうやってハックするんだよ」
「だから、見て分からない?」
「分からねえから訊いてんだろうがよ」
若干の苛つきを滲ませて、ショウキが言うと、明蘭は
「鈍いわね」
と言い
「この間、涼子のあれ、見ていたんでしょう。これはネットを介在してのクラッキングじゃなくて、物理的に分子の配列を変えたものよ」
つまり、あの分子機械と同じモノが使われたということか。ショウキが言うと
「同じ物ではないわね。うちで開発したのは、せいぜい簡易式分子端末を弄る程度。なのにこれは……」
言って、沈黙した。
確かに、“特警”のメインコンピュータに侵入するなんて、普通じゃあり得ないことだ。特殊な分子機械、例えばナノカメラやハッキングウィルスは一般人が手に入れられる代物ではないし、そもそもがあり得ない。“特警”の内部で分子機械を泳動させるなど。
「コンピュータには、ネットの他にも物理的侵入を防ぐレーザー防壁が敷かれているはずだ。人間はおろか、分子機械すら入り込めないように、なっているはずだが……」
今、こうしている間にもレーザーが張り巡らされている。高出力のレーザーは、触れた物全てを焼き払う。明蘭でさえ、コンピュータから2m離れた地点で、分子配列を電極と端末で見るしかない。まして、外部の人間が。
「これ、配列が変えられたのはいつだ」
「10日前。捜査部が、鈴が攫われたって騒いでいたとき。あの時、気づいていればよかったわね。こんな事態になるなんて」
こんな事態……それはつまり、実害が出ているということか。
「何が、起こった」
声を殺して、訊いた。明蘭が、辺りを見回して――誰も居ないと確認すると話し始めた。
「“ゲノム・バレー”での一件で、保安局が掴んだ情報によると静岡の遺伝子データベースにアクセスがあったというけどね。そのアクセス元が、どうやら“特警”らしいのよ」
「まさか。じゃあ、やっぱり内部の……」
「そうかもしれないけど、もう一つの可能性があるわ」
と、明蘭はコンピュータの無機質な箱を見上げて
「このコンピュータ、いまは修復したけどね。どうも、妙なプログラムを叩きだしていて……勝手に、データベースにアクセスした可能性がある」
「それで、コードを取得したと? しかし、バイオチップの情報を送らなければ……端末の向こうに『生身の人間がいる』ということを確認させなければならないはず」
「そうね。その辺のカラクリは、良く分からない。ただ、一ついえるのはこの分子機械、これほど高度なものを持ち込める人間は限られているわ」
やはり、内部か――ショウキはさらに声のトーンを低め
「このこと、知っているのは?」
「紫田部長には言っておいた。他の人間は知らないし、外部にも洩らしていない。保安局もまだ知らないはずよ、でないと一斉に叩かれるから」
「誰にだよ」
「行政」
またか、とショウキはため息をついた。
「なんでまた、行政の顔色伺わなきゃならんのだよ」
「そう言うものでしょ、この国の暴力装置って民衆からは非難される運命なのよ。今の政党も、“特警”を良く思っていない連中ばかりだし。連中、“特警”内部にも反対派を潜り込ませているって噂よ。ショウキ、“山猫”って聞いた事ある」
「名前だけは。保安局の部隊だっけ」
保安局が軍、警察に潜り込ませている、いわば秘密警察のようなものだが、国民にではなく、警察組織に対してのみ機能しているという。そう、話には聞いていた。
しかし飽くまで噂は噂だろうとタカを括っていたのだが。
「それが、実在するとでも」
「分からないけど、でも気をつけたほうがいいことは確か」
明蘭は言った。
「獅子身中の蟲ほど、怖いものはいない。秘密警察なんて、全体主義国家には良くあることなんだから」
「全体主義? この国がか。一応、民主主義だけど」
「そうかしら」
と明蘭が立ち上がって
「あたしが生まれた国と、同じ匂いがするわよここは。都市の内部も外部も。特に“中間街”なんかね」
そう言う明蘭の声には、毒めいたものが含まれている。ショウキは頭を掻いて
「それで加奈に突っかかるのか、お前さん。“中間街”が気に食わないからってよ、坊主憎けりゃ袈裟まで憎い、ってか」
ショウキの網膜が、22時を10分過ぎたことを告げる。今日はもう無理だな、加奈の所に行くのは、と一つ伸びをした。コンピュータルームを出ると、明蘭が静脈照合をかけて入り口をロックした。
「あの子、加奈は別に嫌いと言うわけじゃないわ。でも“中間街”の人間がいるっていうのが、どうしても」
「何故そこまで嫌うんだよ」
「何故ってさ。あたしら移民が、どれだけの目にあったのか、あの“中間街”で。第一次の移民が、どれだけの目にあったか。知らないわけじゃ、ないでしょう」
「移民排斥デモのことか」
ショウキが言った。移民政策が施行された2018年、まだ中国が分裂する前のことだった。外国人を極端に嫌う者たちによる移民排斥運動が起こり、各地で中国人、韓国人を狙った暴動が相次ぐ。『興国の政変』直後の、ナショナリズムの高まりもあって暴動は過激化し、死傷者が出た。移民政策が軌道に乗り出してからは、表立って排斥されることもなくなったが、今でも陰湿な形で残っている。
移民差別。都市の内部でも確実に在る、日本人と移民との軋轢。“中間街”では、より露骨な形で存在している。
「しかし、だからって加奈に当たることはないだろう」
それに、とショウキが言った。
「“あたしら”、なんてそれが移民の総意みたいに言うなよ。少なくともお前さん、いまこの場に。治安の安定している都市にいるんだろうが。そういう人間が、移民の全てを分かるのか?」
「そんなこと、同胞たちのことは分かるわよ」
そうかね。ショウキは呟いて、ガラス張りの通路から横浜の灯を眺めた。遠くに霞む、虚像、グリーンのレーザー光が雲をつき抜ける。走査線状に駆ける光の束が、細菌泳動の如くに映る。棺桶めく車の群は、テールランプの金色光ビーム。それが円に駆け巡り、零地点に収束する微分係数が生む、漸近線の文様を表す。
「そう簡単に、わかるものかね。例え、同胞だろうと。お前さん、何だかんだで都市の人間だろう」
ショウキの視線の先に、夜を流した相模湾がある。港から外れた先に、“門”の影があった。
ショウキがおもむろに、口を開いた。
「本当の被害者、ってのは声を上げることも、自らの境遇を訴えることも出来ないもんだ。大抵は、時代に埋もれて黙殺される。苦しいとも、辛いとも言えずにな。声高に、自分たちが被害に遭っていることを主張できるもんじゃない。少なくとも、彼らと同じ時、同じ場所にいない俺たちが口に出せることでは、絶対ない。そうじゃねえか?」
「俺“たち”って、どういう……」
明蘭が言いかけたのに、ショウキはなんでもないと手を振った。
なんでもねえさ、過去のことだ。過去は呪縛、加奈の言葉が思い出された。あながち、間違いでもない、と思う。
「明日にでも、加奈の所に行ってみる。お前さん、しばらくはコンピュータの方を見ていてくれよ」
「そうね、そうする。あ、あと……」
明蘭はそう言って、ショウキを引き止めた。ショウキは、何だ、と言うが
「あ、やっぱりいいわ」
と明蘭は去ってゆく。なんだ、あいつは、と首を振ると
白い壁の一箇所に、黒いシミのようなものがあるのを見つけた。
「んだあ……」
指で、こすってみる。煤のようなものが、指に付着した。清掃ロボットは何をやっているのか、いつもなら反射しそうなほど磨き上げるのに。
故障したかな、と首をかしげてふと思う。この世に鉄壁な物など無い、明蘭の言葉。そうかもしれない。そう言うものだろう、世の中は。