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「それはいい。それより、あとどれくらいで出来そうなんだ」
男が訊くと、飛燕は白い喉を上下させて
「先日、実験した通り性能には問題ないです。あとは、いくつかデータをとって……」
「そんな悠長なことをしている、暇はない」
と男は言って
「オヤジがどれだけの時間と金を、お前に費やしたと思っている。あれを作るために、お前たちは2年、2年だ。その間、都市警と夜狗の捜査から逃げ回って、それも限界に近い。つい先日も、iPS細胞を夜狗共に押収されたばかりだ。そういう痛手を被ってなお、貴様らは悠長なことを言っていられる。誰のお陰で飯を食ってられると思っている」
「あれを実際に使うには、遺伝子データベースから塩基情報をダウンロードしなければならないのです。あの防壁は一度に突破できるものではなく、幾度か試行を繰り返さなければなりません」
「時間がないんだよ、李飛燕」
男は声を荒げて言った。
「この共和国政府から日本を取り戻すため、一刻の猶予もない。黙って与えられた仕事をしろ。直ぐに実戦投入できんようだったら……」
「静かにしろよ、あんた」
奥の暗がりで、第三者の声がした。
「ウィドウが眠ったところだ」
という声は、日本語だった。飛燕は声のする方に歩み寄り
「疾人」
と呼ぶ。暗がりの中に人影があった。10代後半の男が、簡易式のパイプベッドの傍らに立っている。上から下まで真っ黒な格好をしていて、左半面に刺青を入れている少年。
疾人、というのか。やはり日本人だなと思って。
「支那人の手下に日本人がいるんか」
と日本語で言った。疾人はそれを聞いて、キッと睨んできた。
「悪いか、少なくともお前たちヤクザよりはマシだと思うがな」
旧日本国時代に使われていた標準語だった。共和国になってからは、神奈川と伊豆の方言が混ざった日本語が「標準語」とされている。現在、東京の言葉を話す者は、少ない。
「疾人、どんな感じ? ウィドウの容態は」
飛燕が、ベッドを覗き込んで言った。シーツに包まって、半裸の少女が眠っているのが見えた。
「腕はなんとかなった。銃創も大したことはない。ただ、逃げるとき水銀針をしこたま打ち込まれたらしく、体の汚染が止まらない。今、浄化をしているが……」
見ると、透明な管が少女のむき出しの肩と腕、背中から伸びている。管の中を、赤黒い血液が流動していた。
「水銀針って何だい?」
飛燕が訊くと、疾人は
「短針銃ってのは、シリコン針が主だけどたまに神経薬や水銀を仕込んだ針、装填れてくるんだ、都市の奴ら。えげつない真似しやがる、これじゃあどこぞのヤクザと変わらないな」
「おい、ガキ」
疾人の物言いが気に食わなくて、男は詰め寄った。
「その“どこぞのヤクザ”ってのは誰の事を言ってんだ? 貴様」
「別に誰、とは言ってない。ヤクザなんてどこも同じだろうし」
「何だと……?」
男はナンブの拳銃を取り出し
「口が過ぎると火傷するぞ、若僧」
構えた。疾人は、昏い目を向けて
「あんたも、本職ならば噛みつく相手を間違えるなよ」
ベッドの傍らに立てかけた、日本刀を取った。左腰につける。 居合か、と男は撃鉄を起こした。疾人の刀は、黒塗りの拵え。鍔はなく、柄尻には小さな勾玉が、紫色のコードを介してぶら下がっていた。赤い勾玉は、彼らのシンボルのようなものだったか、と思い出す。疾人は腰を低くし、親指を鯉口にあてがって、いつでも抜ける体制をつくっている。昏い目に射竦められた。
冷や汗が、背筋を濡らす。どういうわけか、男が引き金を引いた次の瞬間には体がバラバラに切り刻まれる――そんなイメージしか沸かない。間合いだけなら、自分の方が勝っているのに。あれを抜いたところで刃は届かず、こっちは引き金を引くだけで殺せる。そのはずだ。
なのに、銃弾が疾人の胸を抉る像を思い浮かべることは出来ず、それどころか、指を動かしただけでも――。
「ちょっとちょっと、止めなって疾人」
飛燕が間に入って言った
「大事なお客さんに刀を向けるの? そんなことしたらいけないよ、これは仕事なんだから。それに、君が本気出したら無事ではすまない」
つまりそれは、自分がこいつより劣るということか。少しばかり、癪に触る言い方だが、しかし認めざるを得ないだろう。
相手の力を計るというのも、プロの条件だ。この世界ではごく当たり前のこと、自分より強いものには手を出さない。 男は銃を下ろして言った。
「それよりもだ、あとどれくらい時間がかかる」
「本当に直ぐ、ですよ」
飛燕が疾人に、刀を下ろすよう言った。疾人は抜刀姿勢を解いて、刀を置く。それでも、男を睨むことは止めない。
「最終段階に入っています。各都道府県に設置された民生用データベースから、すべての塩基情報を取得し、もう2,3都市で使用してデータを取れば……」
完璧です、と飛燕が言う。男は舌打ちして、ナンブを仕舞って
「あと1週間」
と告げた。
「あと1週間でモノにしろ。でないと、資金を打ち切る。これは、オヤジの言葉でもある。分かったな」
男はそう、告げた。飛燕はまた恭しく、古風な拝礼をして
「心得ております、イノウエさん」
男が帰ってゆくのを、“蟻塚”の屋上から飛燕は見下ろしていた。
「1週間で出来るのか、飛燕」
という声がして、振向くと疾人が、変わらずに冷めた目をしていた。
「そんなに思いつめなくても、もう仕込みは済んでいるんだし。君も、確認したでしょ?」
「いきなり計画変更って言われて、大分焦ったがな」
「それは悪かった」
と飛燕は、再び下界を見下ろした。
カブキ町、ここが歓楽街だったなんて今でも信じられないくらいだ。荒廃した街並みは、瓦礫と廃墟によってのみ構成された残骸たちの墓場。新宿だけではない。かつてアジア一栄えた都は、“中間街”という一方的な呼び名によってでしか認識されない、バラックと廃墟、過密型の建築物の集まった吹き溜まりと化している。
「どこも変わらないね、疾人」
と飛燕が呟いた。
「伊豆から始まり、静岡、鎌倉、新宿。色んな所を歩いたけど、この国のどこに行っても同じ風景。荒れた旧市街地の中に、ぽつんと存在する浮島みたいな都市。僕らが生まれたときから、ずっと」
飛燕が言うと、疾人は刀を肩に担いで
「結果、ああいう腐れヤクザが増えることになったわけだな。政府が、国の舵取りを誤ったせいで」
「ヤクザ嫌い? 疾人。まあ、君のお師匠さんのこともあるしね。でも、お客さんに手を上げちゃだめだよ」
くすりと笑って、飛燕は
「国の舵取りを誤るのは、政治家じゃない。それを選んだ人たちのせいだよ。現代に生きるものたちが、自分たちのことしか考えなくなると国は傾く。自分たちに都合のいい様に国を動かして、未来の世代を考えなくなったときに国が滅びるんだ」
そう言う飛燕の口調は、静かだった。疾人ではなく、もっと他の誰かに話しかけるような――幼い子供を諭すような口調で、優しく。
「DNAが次の世代に受け継がれるように、国もそうじゃなければならない。ねえ、疾人」
とそこで、飛燕は振向いた。
「僕らの国は、そういうことのないようにしよう。子供たちに、優しい国をさ」
笑顔を弾けさせる飛燕に、疾人は――やはり、昏い目をして言った。
「何か、お前楽しそうだな」
「そう? そう見える?」
「何年付き添っていると思っているんだ」
腐れ縁にしても長すぎる、と疾人がため息混じりに言った。飛燕は
「やっぱり、疾人には敵わないなあ」
と微笑んで
「初恋の人と会ったんだ」
「初恋?」
「そ、初恋。昔、施設で一緒だった子なんだけどね。あの時、生き別れになっていたんだけどようやく会うことができた」
「似合わない単語だな、お前には。で、そいつと会ってどうしたって?」
すると飛燕は、少しだけ顔を曇らせて
「うん、でも哀しいことに彼女、夜狗だったんだ」
「なら、敵じゃないか」
「そうだね、時の流れは残酷だ。でも、いいんだ」
飛燕は晴れやかに言うと
「もう、彼女の替わりは見つかったんだし。彼女と同じ肉、同じ骨たるもう1人の桜花が。その子がいれば、哀しくない」
「もう1人、ってまさか……」
飛燕が口を開きかけたのを、飛燕は指で制して
「仕事だ、疾人」
と言う。疾人はそうだな、と呟いた。
「今、あることを片付けることが先決だ」
そう言うと、飛燕は屋上へと至る階段を降りた。
通路を歩いていると、向かいから妊婦が歩いてくるのが見えた。道を譲ると、妊婦は深々と、白髪だらけの頭を下げた。良く見ると、妊婦はかなり年を食っていた。老婆、といっても差し支えない年齢だ。皺だらけの手指に握られた杖に、体重を預けるようにして歩いている。
「疾人」
と飛燕が言って
「僕らも、ああして生まれたんだよね。どこの誰か分からない、女の人から」
「“貸し胎”か」
疾人は、老婆の背中を見ながら言って
「あんな年になってまで、“貸し胎”なんぞやっているのか。自分の身がもたんだろうに」
「それだけ金はいいんだよ」
飛燕が言う声には、悲痛なものがあった。
「自分の身体を切り売りして、子宮を貸す。そういうことをしてでも、家族を養わなければならない人たちがいる。そうしなければ、この街で生きていくなんてとても……」
「ふん」
と疾人は言って
「胸糞悪い、話だ」
そう吐き捨てて、疾人は先に行ってしまった。「もっとも、僕も同罪、だけどね」
そう呟いた。老婆が見えなくなっても尚、飛燕はその場に佇んでいた。