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狭くもなければ広くもない、ただし他の小部屋同様、光が差し込む余地のない密閉された空間がそこにある。閉鎖された、闇一色。暗い、それが第一声だった。
「なんだよ、こんなところに……」
場所を間違えたか、と思った。こういう建物は、どの部屋も大体似通っているからな、隣の部屋と間違えたのだろう。そう思って出ようとすると、男の手を引くものがあった。
そいつは闇の中で、囁いた。
「お待ちしておりましたわ、イノウエさま」
女の声だ。男は手を振りほどいて、声のする方に向き合う。懐に手を伸ばしてナンブの回転式拳銃を掴んだ。
「あら、脅かしてしまいましたか? 申し訳ありません」
くすくすと含み笑いを洩らす。冷や汗が首筋に伝うのを感じて
「李飛燕はどうした」
と訊く。女の声は一拍の間を置いて
「李大人は少し、遅れてきます。戻るまでイノウエさまのお相手を致すよう、命じられまして」
声は男の、1mほど先からする。怪しんだ男は、とりあえずここから出ようと後ずさったが――
入り口の木戸が、荒々しい音を立てて閉められた。オンボロの割には勢いよく閉まったな、と一瞬思ったがそんなことは問題ではない。慌ててドアノブを、手探りで掴むが扉を開けることは叶わなかった。どうやら、内側からも鍵を閉められるタイプらしい。チャイルドロックじゃあるまいし――というか閉じ込められたのか、俺は。
「こなくそ!」
扉を蹴飛ばすが、以外に木戸は頑丈にできていた。ナンブ拳銃を構えて破壊を試みるも、横から伸びた手に銃のシリンダーを押さえられる。こうなると、回転式の銃は撃つことままならない。
「そんな物騒なもの、およしになって」
という女の声。耳元に、熱い吐息がかかる。男は怒鳴った。
「いい加減にしろ、俺は遊びに来てんじゃねえんだ。ふざけていると、取引は無しにさせてもらう」
女が、また含むように笑う。
「そんなに怒らないで」
そう言うと、銃を握った手が離れる。女が
「点灯」と言うと、暗かった室内に明かりが灯った。
闇が、一転して白い光に包まれる。いきなりだったから、最初はひどく眩しく感じた。それもそのはず、天井にはLEDの照明が煌々と照っていた。馬鹿な、ここは“中間街”だ。なぜ、都市で使われている照明器具がこんなところにあるのだ――疑問が去来する。
「驚かれましたか?」
と、先ほどの声が、背後でした。銃を構えたまま、振り向いた。
雪をまぶした様な白い、ワンピースの女がいた。女というより、まだ少女といった年頃だ。腰の辺まで伸ばした黒髪が、白い生地に映える。瓜実顔の、真ん丸い目。男の好みをそのままトレースしたんじゃないかというぐらい、典型的な日本人女性の容貌だった。“中間街”のストリートチルドレンなんか、大抵は薄汚れた面を晒しているものだが、肌は白く、きめ細かい。こんなところに置いておくのは惜しい逸材だ、たとえばこいつを女衒に売ったら一千万単位の値がつくだろう。細い首に巻かれた、赤いスカーフがやけに艶かしい。
「ああ、驚いたな」
「そうでしょうね。この“蟻塚”でも、LEDを導入しているのはここだけですわ」
「いやあ、そうじゃねえさ」
と男は口角を吊り上げて
「こんなところに、あんたみてえな綺麗な女がいるとは」
まあ、と少女は頬を染めた。そんな所作すら、色っぽい。
「お上手ですのね、イノウエさま」
「俺は世辞は言わねえのさ」
男は、さきほどまでの怯えきった態度を一変させ、女に詰め寄る。右手の指で、そっと顎を持ち上げて
「お前みてえな、いい女には特に、な」
少女は、どこか夢見心地な、熱っぽい視線を送ってくる。なんだ、こいつも乗り気じゃねえか、と腰に手を伸ばした。肉付きはそれほどでもないが、体は成熟していた。
少女は男にもたれかかるように、身を寄せた。しっとりと濡れた瞳が、物欲しそうに見上げてくる。桜色の唇、薄い肩。未成熟さと妖艶さを併せ持つ色香。背筋に、先ほどまでとは違う戦慄が駆け上がる。
ここまでの上玉、そうそういねえ、と口を舐める。分子機械で皮膚を弄り、きつい香水の匂いを漂わせた都市の女たちなら飽きるほど抱いてきた。しかし、目の前の少女は違う。艶やかな髪から香る、石鹸の匂いが鼻腔をくすぐり、抱き寄せる柔肌は手のひらに吸いつくようだった。腕の中で、小さな体が動いた。濡れた瞳が見つめ返す。
「もっといい女になれるぜ、お前」 と言って男は、髪を撫でて――
「お待たせしました、イノウエさん」
入り口の方から声がして、振向くと李飛燕が引きつった笑みを浮かべていた。
「な、李飛燕!」
慌てて男は少女を突き放した。少女は小さく悲鳴を上げて、尻餅をつく。
「あんまり、うちの者にちょっかい出さないで貰えると、ありがたいんですがね」
真っ白な頭を掻き毟って、赤い目を細めた。相変わらず気持ち悪い奴だ、アルビノっていうのは、と男は
「うるせえ、この女が誘ってきたんだよ。何か文句あるか」
「女、ですか……いえ、まあ、他人様のシュミをどうこう言うつもりはないのですが……」
困惑したように飛燕が言って、転んだままの少女に
「梟龍、あまり悪ふざけはしないようにと言っているだろう」
梟龍、というのかと少女を見た。梟龍は立ち上がると
「飛燕、早すぎるよ。もうちょっとで、いいところだったのにさ」
口調が変わった。ふてぶてしくて生意気な、ストリートのガキが喋るようなくだけた話し方になる。いきなりの変わりように男が驚いたが
「すみませんね、イノウエさん。こいつ、こういうことをたまにやるんですよ。大人からかうのが好きで」
ほら、と飛燕に促されると梟龍はそっと、自分の顔を撫ぜた。
奇妙な事が起こった。少女の、白くきめ細かい肌に黒みが差してゆくのが分かる。墨汁が溶けこんだ水に半紙を浸すが如く、徐々に、徐々に色素が染みてきて、褐色の肌になった。二重の瞼が一重に変化し、つぶらな瞳が、鋭く険のある目つきになる。
次に、頬と鼻が変形してゆく。皮膚がうねり、表皮の下で骨と関節が、生き物のように蠢いた。整った顔が潰れたような、平らな顔になり、縦に横に伸びて顔そのものが変形していった。呆気に取られていると、白い肌の日本人女の顔が、果たして褐色の肌の、顔の彫りが深いフィリピン系の顔に変わっていた。そいつが不適な面構えを見せる。
「ちぇ、面白くもない」
と発した声は、一オクターブほど低くなっていた。その得体の知れない変身を遂げたそいつは、止めとばかりにカツラを取る。長い黒髪が地面に落ちた。
「お、男?」
坊主頭のそいつは、まぎれもなく少年だった。さっきまでの可憐さなど微塵も感じられない、小汚いストリートのクソガキが馬鹿にしたような笑みを作った。
「変身能力です。爬虫類の擬態や昆虫などの変体を司る遺伝子を組み込んでありまして」
飛燕が言い添えた。少女だった少年は喉を鳴らして
「残念だね、おじさん。でもどうしても我慢できなくなったら、いつでも相手するよ? 顔だけじゃなく、体も変えられるから、オレ。当然、あっちの方も」
黄ばんだ歯を見せて笑う。体つきは、変身前とは変わらないが、控えめに膨らんでいた胸が、フラットな胸板に変わっていた。やはり男だ。
虚仮にされた――ふつふつと怒りが沸いてくる。ナンブ拳銃を取り出して銃口を突きつけるが
「イノウエさん」
と飛燕が制した。
「非礼は詫びます。ですが、彼の変身能力は今回の計画には欠かせないものなのです。どうか、お怒りをお収めください」
といって飛燕が、男に耳打ちした。
「あとで綺麗どころを揃えますから」
「む……」
そう言われると、男は銃を下ろすが
「李飛燕、俺はここに遊びに来たんじゃねえんだ」
ナンブを懐に仕舞って、男は先ほどと同じ科白を吐いた。
「取引のために、こうやって出向いたんだ。わざわざ東北から関東くんだりまでな」
「感謝しております」
飛燕は慇懃に頭を下げた。両手を組んで頭を垂れる、古代中国式の拝礼だ。クソ支那人が、と男は心中で毒づいた。いくら利害が一致しているとはいえ、こんな気色悪い連中とつるまなければならないとは。
本当にオヤジは何を……いや、そんなことを考えても仕方ない。男は頭を抱えつつ
「それで、例の物は出来たのか」
という男に、飛燕は頷いた。赤い目が、笑っている。
「9割方出来ましたよ。いま、最終調整の段階です。ささ、こちらへ」
飛燕は部屋の奥へと男を促した。壁の前に立ち、ここから行けますと言う。何もねえじゃねえか、と男が抗議しかけたとき。
飛燕が、壁をつい、と撫でた。
木製の、焦げ茶色した壁が縦に裂けた。避け目は徐々に大きくなり、闇が口を開ける。壁の一部が開閉する仕掛けになっているのだ。“蟻塚”内部によくもこんな仕掛けを、と男が言うと
「次から行くところは、もっと驚かれると思いますよ」
飛燕が中にはいるように言った。言われた通りにすると、扉が閉まると密室が大きく揺れた。一瞬、体が浮き上がるような心地を得る。
昇降機になっているのか、と思った。 都市のビルで使われている、超伝導式の物ではない。
モーターと金属ワイヤの古いタイプの昇降機だ。なるほど、“蟻塚”は旧市街地の建物を増築させたもの。旧式の昇降機が残っていても不思議ではない。ただし、放置された新宿の設備が老朽化せずに残っている保証などなく、いつワイヤが切れるか気が気ではない。そんな男の心中を察したのか、飛燕が
「大丈夫ですよ、イノウエさん。ここの昇降機は、我々が借り入れる際に全て改修しました。月に一度点検もしていますし、事故の心配はありません」
「そーそー、いくらオジサンがメタボってるからって」
梟龍がそう、茶化すように言った。小憎たらしく笑う鼻っ柱を叩き折ってやりたい衝動を堪えた。一度恥を曝している手前、関わらない方がいい。そう判断して、無視を決め込んだ。
「なになに、シカトっすかー? ねー、オジサン」
梟龍がスーツの裾を引っ張ってきたのに、睨みつけてやるが梟龍は意に介さない様子である。男の体にべたべた触って、気を引こうとする。
「梟龍、失礼だぞ」
と飛燕が言って
「すみません、イノウエさん。お気を悪くさせてしまって」
「……いいや」
あからさまに不機嫌そうな顔をして男は黙り込んだ、その時。
昇降機が停まった。
「つきました」 飛燕に言われるまま、昇降機を降りると黴と埃の空気に混ざり、メタンの臭気が男を出迎えた。
「この建物の最下層です。ここも、もともとあった地下駐車場を改良したものです」
と飛燕が説明する。男は、足を踏み入れた。
耳についたのは、腹に響く重い駆動音だった。規則的に、律動を刻むモーターの音。前時代的な発電機が右手の方にある。この建物の電力を賄っているのではなく、これは我々の開発に使用されるものです、と飛燕が言って
「バイオガスを燃焼させているので、少々空気が悪いやもしれませんが」
と、秀麗な笑みを返した。それがやけに艶っぽくて、こいつが女でアルビノ体質じゃなければ、と思った。男色の趣味嗜好を持ち合わせていなくとも、懸想してしまいそうな端整な顔立ちをしている。