4―3
紺碧とダークグレーに染め上げられた、波打つ騒音が反響する。放射状に広がって、分離と結着を繰り返す音が耳を打つ。微かに打ち寄せる潮騒、切り替わる映像には灰色の壁があり、断続的な記憶の隙間、加奈はそれを見ていた。
たゆたう水に身を潜らせて、目覚めるときに感じる欠落を常に感じていた、それは幼少時の記憶だった。薄汚れた蛋白壁に囲まれた部屋、物心ついた時からそこにいた。最初に感じたのは何だったのだろうか。思い出すことは出来ない。きっと、石が石としてそこに在り、壁が壁として存在するように、自分は自分として、ただ、在った。それだけだ。石や壁と違うのは、肉と骨が備わっているということだけ。無機であろうと有機であろうと、変わりはしない。
底冷えするようなこの部屋で、『自分』という物質が存在している、そのことだけを感じている。
指が這い回る、不快感。 貫かれ、弄ばれ、痛みすら感じない。爪を立てて、声を上げる。悲痛な叫びを、大人はエクスタシーに達したそれと誤認する。心に膿が溜まっていく。
それが嫌なら、壊せ。壊すんだよ、でき損ない――そうやって囁かれた言葉が、いつしか少女を機械へと変える。
壊せ、と命じる声。抗うもの全てを壊すんだ、と。
『ここから出ないか』
と彼が言うまで、その声こそが世界の全てと信じていた。
『ここから、どうやって』
少女が問う。
『僕はβグループ、君は?』
少年の髪は、白かった。
『提案がある。僕ら、お互いに名前をつけよう』
名前? 少女が訊いた。
『桜花、ってのはどう? 良い名前じゃない?』
――桜花
赤い双眸が、覗きこんでくる。血の紅が見つめて、呼吸を止めた。
声がして、夢から醒める。次に目にしたのは白い天井だった。細長い管がいくつも体につながれていて、透明な液がその中を満たしている。
耳に、機械の電子音が飛び込んでくる。静寂の中、響き渡る。
顔にかかる布の感触が、息苦しい。顔に手をやると、包帯が巻かれていた。
「触っちゃダメよ」
という声の方に顔を傾ける。ぼんやりとした像が合致して、見ると涼子がベッドの端から覗きこんでいた。
「相当手酷くやられたみたい。顔、酷い有様よ。いま分子機械で集中的に傷の修復をしているけど、毒もあるから一週間は動けないわ」
「毒……」
そう言われて、あの少女との戦いを思い出す。
「あいつは、どうなった」
「あいつ、ってあのサムライ? 残念ながら取り逃がしたわ。まあでも、逃げたところであれを受けて生き延びられるかわからないけど」
なぜか涼子は含むように笑い
「あなたがやられた、って言うとね……彼女」
涼子がベッドの反対側を指差すのに、驚いた。ベッドサイドテーブルに突っ伏して、鈴が眠っているのが目に映る。
「なんで鈴が……」
「よほど心配だったようね、現場から手術室、さらに病室まで。付きっきりで疲れちゃったみたい」
「付っきり、って……」
倒れてからずっとか、と言いかけたが
「ここはどこだ」
と訊く。周りを見回せば、12畳ほどの部屋の真ん中にある、ベッドに寝かされている、ということだけは分かった。
「静岡の病院、“特警”の息がかかっているから治療は万全よ。最新の医療態勢、最新のセキュリティ。でも、心を埋めることはどんな設備でも不可能だったわけね。鈴ちゃん、ずっとあなたの名前を呼んで、泣いていたわ」
脈拍計の数値が大きく跳ね上がった。心臓がひとつ、大きく高鳴って計器が血流の乱れを警告する。
あまり心臓に悪い話をするなよ――と加奈は、改めて鈴の寝顔を見た。鈴の目元には、涙が流れたあとがある。鈴が泣き叫ぶ姿を想像すると、言いようのない感情のうねりが襲ってくる。
堪え切れずに枕に顔を押し付けた。
「どうして……」
と洩らす。どうして、あんたはそこまで――わたしは、わたしたちはあんたを利用している、囮として。あんたに恨まれることはあっても、心配される要素なんか何もない。そんなわたしを、あんたは――。
「お邪魔みたいね」
涼子は立ち上がって、言った。
「また来るわ、しばらくの間鈴ちゃんもここに置いておくから。その方が安全だしね」
それじゃ、と涼子は病室を後にした。
2人だけの空間が、生まれた。
まだ痺れの残る右手を、鈴の方に伸ばす。髪を撫で、頬に触れると鈴は眠ったままだ。
「どうしてあんた、わたしのために泣けるの」
頬を流れた、涙の軌跡を見て言う。
「わたしは、あんたに……そこまでされることなんかない」
微かな寝息を立てる鈴が、少しだけ笑った、ように見えた。
「わたしは、人から心配されたり……愛されたり、そういうことされる、資格なんてないのに」
それでも鈴は、起きない。加奈は、鈴の手を、握り締めた。柔らかな素肌の感触が、手のひらに残る。
「答えてよ、鈴。どうしたあんたは……鈴」
それが愛おしいものであるかのように、何度も名前を呼んだ。
「答えて……」
悲痛なものを、抱え込んで。
『新宿闘争』から3年か、と感慨深げに天を仰ぐと、ビルの間には“カブキ町”の文字が掲げられていた。
かつて東洋一の歓楽街とされたここも――『天正会』の武装決起の際に焼き討ちにあい、外国人たちとの抗争の舞台となった。AK小銃を引っさげて中国人共とやりあって…… 男にはそれが、ついこの間のことのように思える。
その、中国人と『天正会』が、今では手を組んでいるとはおかしなことだと男は頭を振った。「オヤジも何考えてんだか……」
と呟く。新伝龍三の、尖った顎をした顔を思い浮かべた。5年前に杯を押し頂いて以来、ずっと新伝のために働いてきた。新伝も、男の働きを認めてくれていたようで、男は幹部の一人にまで昇り詰めた。男は新伝の期待に答えるべく、忠義を尽くした。それに応えてくれたというわけだが。
「時々分からなくなるな、あのお方は……」
と息を吐く。中国が分裂して以来、『天正会』は目の仇にしていた中国マフィアと接近しつつあった。民族決起を唱える新伝らしからぬ行動だ、今まで日本民族以外の人間と接触することすら拒んでいた程なのに。中国人や韓国人を完全に潰すために、東京を焼いたのではなかったのか? 至極当然な疑問が頭をもたげる。
もっとも、中国マフィアを介してもたらされる武器は、国産のそれよりもはるかに安く済む。昔から日本は、個人武器の製造は弱かったのだよな、と思った。小銃一つとっても、コストがかかりすぎる。あんなもの、本来は撃って当たれば良いのだが。国内で量産されないというのも、費用を吊り上げている最大の理由であった。国内の需要が低い、ゆえに生産されない。今では軍も警察も、小火器は全て輸入に頼っている。
あの馬鹿でかい“ハチドリ”とかいう輸送艦艇や強化外骨格などの陸戦兵器などもライセンス生産で、純国産のものは皆無だ。兵器すら満足に造れない、共和国の軍事態勢。情けないな、これがかつての大戦で米英と対等にやりあった民族か、と男は嘆いた。少し誇張も入っていようが、新伝の話によれば一世紀前の日本は敗れはしたものの、世界を相手に戦い、欧米諸国の植民地であったアジアを解放したという。戦後、敗れた日本は一時期米国の支配下に置かれた。その際、天皇陛下の戦争責任とやらが問われたがGHQは天皇を残すことを決断する。だが、沖縄を犠牲にして独立したこの国は米国のネガティブキャンペーンに躍らされ、結局は民族の誇りを自ら手放す道を選んだ。
1990年代からの廃帝主義が、2016年の『興国の政変』に繋がった。一度失った誇りは、二度と帰っては来ない。永きに渡る歴史を自らの手で葬り去ったこの国が進んだ、その結果がこの有様だ、と溶けかかった角砂糖のような廃屋が立ち並ぶ、荒れたカブキ町を見て思った。移民政策と外国人による国政の参加、ただでさえ害悪をもたらすしかなかった中国人どもにこの国を売り渡して――そうした理由から、新伝は中国人をもっとも嫌っていた。その筈なのだが。
しかし、これからの取引を思えばそれだけの価値はあるさ――奴らが開発したブツがこちらの手に渡ればそれで良い。そう、自分を納得させて指定の建物に入った。
“蟻塚”と呼ばれる建築物は、市街地が“中間街”化するより以前に存在した建物を増築して造ってある。都市内とは違う、粗末な伽藍に鉄筋を足し、土を塗り、石を積み。建築法や消防法など関係なく、エントロピーを増大させる。無秩序に継ぎ足された階層が、横に広がり縦に伸び、鉄筋とコンクリートの牙城を生み出した。大小の小部屋が密集し、建物の中は超過密型の共同住宅であったり、商店が並ぶ繁華街であったり、地下にも手が加えられて巨大な地下街をも現出させる。要は、人間の生活の全てを一つの建築物に集めたのが“蟻塚”だ。ひしめき合う人間を白蟻に例えて、都市の者はこうした建築様式を“蟻塚”と呼ぶ。そのネーミングセンスだけは褒めてやってもいいと、生ゴミが散乱する通りを歩いて男は思った。
増築に増築を繰り返した建物の内部は、太陽の光が届かない石と鉄のジャングルといった様相を呈している。廃棄物は溜まり、空気の循環が悪くなる。ここに潜む奴らはヤクザよりももっと性質の悪い奴がいるぜ――などと新伝が言っていた。それがどういう連中なのか、見当がつかないがそれはもしかしたらこれから会う連中の事かも知れない。相手は中国人ばかりの傭兵団だ、サムライばかり揃えているからな、と考えを巡らせる。冷え冷えとした“蟻塚”の空気、そればかりではないだろう、この背筋の凍りつく感覚は。水溜りの通りを歩くたび、通路にうずくまって阿片を吸ってる老人や、裸で突っ立ってる子供、明かりのない小部屋の中から覗く、姿なき者の視線が容赦なく叩き付けられる。
一瞬、内壁の全てが男を見張っているような感覚に陥る。
ロクでもねえ――。ブル、っと身を奮わせた。こんなところに長時間いたら、気が触れるんじゃないかとも思う。というより、実際に気が触れた奴らが住むんだこんな所、そうに違いない。まともな神経の持ち主は、絶対に住めない。汚水にまみれた通り、焼け爛れた内壁から漂う、吐瀉物と卵の腐った臭い。到底耐えられた代物ではなかった。
狂ってやがる、なにもかも。この国も、都市も、“中間街”も。嘆きとも憤りともとれない、感情が沸き上がる。まあ良いさ、と男はひとりごちた。そんな全てを終らせるために、中国人なんかと手を組むのだから。
男は懐の銃を、服の上から握り締めた。戦々恐々として、指定された小部屋の前に立つ。たてつけの悪い引き戸を開けて、中に入る。