0―4
威嚇するように2本の化け物腕をつき上げて、男は一歩前に出た。加奈の頭上で2枚の刃をこすりあわせる、不快に甲高い金切り音。金属の粉が空中に漂う。近づいてくるたび、生臭さが鼻をついた。
手間とらせるなよ、と加奈はブローニング拳銃のスライドを引く。装填、グリップに施された十字架の文様に軽くキスをした。祈りじゃない、これは儀式。死地へ向かうもの、覚悟を確認するためのもの。
化け物の腕が、振り下ろされた。
刃が加奈の足元に突き刺さる。コンクリの欠片が四散する。飛び上がって距離をとり、狙いをつけて発砲。この間、一拍子。男はなぜか、馬鹿にするような笑みを浮かべた。
化け物の腕が横薙ぎに弾いて、銃弾が跳ね返される。跳弾が水道管に当たった。刃の、横の軌道が縦の軌道に変わり、鉄槌が下される。シリコンとセラミックの合金刃だ。
身を低くして、加奈は前に飛び込んだ。直後、背後で地面が割れる音がした。振動で足元がグラつく。踏みとどまった。両手でグリップを握りしめ、真正面に構えた。
照準、リアサイトとフロントサイトが一致。銃口の先は、脳髄。
緑色の発射炎が3つ、走った。
脳漿が飛び散る様を想像した。しかしそれは目の前に現れた刃によって阻まれた。着弾とともに火花が咲いて、オレンジ色の閃光瞬く。もう一方の刃が斜めに切りつけてきた。眼前にノコギリの刃が現れて、乱れた刃紋とこびりついた血の筋まではっきりと見えた。
残影。
素肌が裂けて、額に深い切創が刻まれた。どす黒い血が溢れ、手のひらで受け止めると人工血球の混ざった血漿が指の間を流れる。切られた箇所が疼いた。痛み、とは別の感触。体内の機械が止血と治療を開始したというサインだ。体内に注入された生体分子機械が高分子を合成し、壊れた細胞を修復している。
「へえ」
と男が笑った。笑いながら、左右の刃を振り上げ、両断に斬る。
鼻先を刃が掠めるのを、跳躍してやり過ごす。横薙ぎに変化したのを、着地後さらに後方宙返りでもって避けた。
前髪が、散る。
着地と同時に発砲。化け物の腕でもって防ぐ。着弾のたび、乾いた音を立てた。
またさらに突きの軌道。
不本意ながらも地面を転がるようにして避ける。金属が溶けた水が、髪を濡らす。もう2発撃ってもことごとく化け物腕が弾いてしまう。思いの他、素早い。化け物腕が鞭となり、加奈を叩く。肉を裂く替わりに壁を切り、水道管を2,3本ほど刻んだ。赤茶けた排水が勢いよく噴出し、視界を遮る。
「厄介だなその腕。複合チタン殻か」
濁った噴水を割るように化け物腕が伸びて、続いて本体が現れる。濡れた刃をこすり合わせ、挑発するように手招きする甲殻の腕。噴出した水が天井を打ち、雨となって男と加奈に降注ぐ。
ブローニングのマガジンキャッチを押下して、弾倉交換。スライドを引いて薬室内に残っていた弾を排出する。スライドが引いた位置で止まった。
「なあ? もう降参かあ?」
男が舌なめずりしながら、猫なで声を出した。なんだ、喋れるのかと思いつつ
「だれが降参? あんたみたいなクソサムライに」
左腰に吊ったハーネスから新たな弾倉を取る。今捨てた弾倉と違い、こちらには底部に赤いラインが引かれている。すばやく、挿入。装填。
「ここから、よ」
「はっ」
化け物腕が縦と横の軌道に動いた。加奈は前のめりに倒れるように避ける。ボディーアーマーが裂け、防弾繊維が舞う。
腕は軌道を変えた。思い切り振り上げたかと思うと、鋭い先端を直下に振り下ろす。コンクリートを穿ち、地面に30cm間隔で穴が開けられた。その全てを加奈は、目で見ず感覚だけで避ける。ナノワイヤがもたらしたものは、なにも埋め込まれた機器を協調させるためだけではない。反射神経を極限まで高め、身体能力を向上させる神経強化改造。反応速度は機械のそれと同等の能力を有する。
筋肉がその速度についてこられなければ意味はないが――
それは愚問というもの。
右足を踏み込む。
化け物腕が横薙ぎに切る。空中で身を捻る。
横目で過ぎ去る刃を見送って、発砲。
右の腕に着弾。瞬間、真白い炎が弾けた。次には破裂音とガラスをすり合わせる甲高い音がして、化け物腕の半ばが肉を撒き散らして爆散した。最初、何が起こったのか分からないようだった。やがて切断面から滔々と流れる血液を見て、ようやく男は理解した。苦痛の嬌声を上げてのた打ち回っている。それを確認しながら着地。額、首筋、そして背中にと。冷たい汗で、全身が濡れていた。
「そこまでだ」
逸る鼓動を鎮めるべく息を吐き、それだけ言った。額の汗を拭うと、傷はもう塞がっていた。良く出来たものだ、我ながら。もげたばかりの刃物つきの腕を蹴り飛ばし、男の頭に銃口を向ける。
「対機甲弾、あんたがいくら固い鎧を被っていてもこいつを食らえば細胞レベルでオシャカさ。生身の頭、脳みそぶちまけたくなければ大人しく投降しろ」
脅しつけるのではない、ただ事実のみを伝える。加奈の声はそれでいて沈殿していて、氷嚢を押し付けるような重圧があった。
「立てよ」
命ずる一言一言が、冷気を帯びている。男が立ち上がる。
天井で金属がひび割れた音がした。水滴が首筋に垂れる。銃口をそのままに、上を見る。途端、天井に張り巡らされた配管がヒステリックな音を立て、砕け散った。
天頂から排水が噴出した。金属片が勢いを増して飛び散って、土の混ざった水が滝となって落ちる。さっきの衝撃で亀裂が入ったか、加奈は咄嗟に回避行動をとった。ほんの1秒。たった1秒。しかし、時間を与えてしまった、敵に。
加奈が再び構えたときには、男は猛然と突っ込んできた。残った左の化け物腕を振りかぶって、その切っ先が鼻先に突き付けられて――
「クソッ」
首を捻って、鋭角の激突を避ける。横に飛びつつ、視界を確保する。照準を合わせる。
右耳に掠める、風切る音。
衝撃が、骨に響いた。金属の塊を叩きこまれ、気がつけば右肩に深く、刃が食い込んでい。骨が軋み、筋肉が上げる断末魔が神経を介して脳に伝わる。細胞が、痛覚を発していた。こらえるが、疼く痛みは消えることがない。喉の奥から、勝手に声が洩れた。
「注意一秒、怪我必定」
と男は勝ち誇った顔で言う。
サムライの化け物腕の先端、鋼の刃が加奈の右肩に切り込まれている。刃が半分ほど沈み、鎖骨にまで到達している。切り口から肉がまくれ上がって、皮膚の下の脂肪と断裂した筋繊維が砕けた骨とともに顔を覗かせている。それらを隠すようにどす黒い血が溢れた。湧水のごとくに溢れだして、地面を叩く。茶色い水と黒い血、混ざり合ってマーブル模様になった。
刃を引き抜く。加奈は膝をついた。
「なんだ、腕を切り落とすつもりだったんだがな。お前、その体」
深く、V字型に切り込みが入った腕を見やる。噴出す血は止まる気配がない。
「やろう」
加奈が呻いた。切られた腕は、砂鉄が詰まったようで。腕を上げることはおろか、手指の感覚もない。それこそ銃を取り落としたのにも気がつかないほど。肩から下は、完全に死んだ。ここまで深いと、瞬時の修復は無理だ。
「黒、ねえ黒。黒い血。あんたあ、なにか肉体強化しているだろう? 見た目は普通だがなあ」
左手で傷を抑える。血液の流出は、回復を遅くさせる。サムライの男は加奈の上から下までを舐め回すように見て
「俺らぁと同じか、あんた女サムライだあな。政府の雇われ狗になってよお、俺らを追い回してんのか。でもそれも無理そうだなあ、どうよ」
ひきつけを起こしたみたいな笑い声を一つあげ、男が顔を覗きこんでくる。
「“特警”なんざ辞めてよ、仲間になるってのは。政府の狗なんてつまらんだろう、な? その傷はなんとかしてやんよ、目立たない程度によぉ」
「誰が……」
苦しい息の下、加奈が発した言葉は吐息のように微か。血を失った肉の器には、ダメージが大きい。
「誰が、仲間にだよ。腐れサムライ」
言って男を睨みつける。立ち上がり、左拳を顔面に叩きつけた。骨が潰れる音がして、男が顔を仰け反らすのにさらに右のブーツの先を噛ませた。
「サムライと同じだと、お前たちと一緒にするな!」
逆上した男が、叫びながら刃を突き出してくる。今しがた食らわせた蹴りのおかげで、前歯が全部、きれいに折れ砕かれていた。
切っ先が胸の中央に伸びてくる。銃を拾うべく、加奈は上体を折り曲げて刃を避けた。直線の軌道で突き出された刃が、加奈の背を抉る。ボディーアーマーが引き裂かれて、肌と浮き出た背骨が外気に晒される。薄く、切創が刻まれた。
上体を元に戻したときには、加奈の手にブローニング・ハイパワーが握られていた。
銃口を、サムライ男の口の中に押し込まれる。
「食らいな」
そして発砲。
重低音の破裂音とともに、男の頭が熟れ過ぎた果実を割るより簡単に砕け散った。肉と骨が分離して、細胞の一つ一つが粉々に引きちぎられる。血と脳、液とゲル状の組織が流れた。血は、加奈のそれとは違い鮮やかな赤だった。その赤い血が塊となって、頬にぶつかった。飛沫が口の中に入って、酷い味が口中に広がる。下あごだけ残して頭が消し飛び、首なしの死体が跪づく。肉の器が溶液の海にくずおれ、ひれ伏した。
目標の制圧、完了。
思い出したように疲労が襲ってくる。肉体、関節部に乳酸が溜まって硬くなっていた。からだが軋むような感覚を覚えた。ふらりと二歩だけ歩いたあとは意識が遠くなってゆく。筋肉が弛緩して、膝から下が抜けて、地面が近くなり――
「加奈!」
呼ぶ声がして、続いて加奈の体は誰かに抱きすくめられた。顔を上げると、眉尻を下げて死にそうになっているショウキの顔が見えた。
「殺っといたから、そいつ」
閉じかけた瞼をこじあけて、吐息ばかり漏れる喉から声を振り絞りやっとそれだけ言った。
「馬鹿野郎、勝手に一人で行って。勝手にやられやがって」
ショウキが唇を噛んでいた。押し殺すような声で言う。足音が複数、近づいてくる。
流れる血が止まり、傷は塞がりつつあった。