3―11
散乱したガラスに混じって、赤と黒の血が雫となって落ちている。
「どこに行ったの、お姉さん?」
とウィドウが言うのを、壁越しに聞いて加奈は息を吐いた。
イカれている、とにかくその一言に尽きる。あの少女は異常なほど、切るという行為に固執して、自分の体がどうなっても目的を果たさんと突っ込んでくる。刃をつきつけられたとき、多少自分の体が切られるのも構わず振り払ったから良かったものの。喉に、薄く傷がついている。あともう2m、深かったら確実に喉をやられていた。
イカれてる――。
首筋と鎖骨部分から、まだ血が止まらない。注射デバイスで血球を注入するも、端末の液晶はオレンジのままだった。
あの女、思い出すと反吐が出る。よりによってわたしの顔切りつけやがって、痕が残ったらどうするんだ――と舌打ちした。
「おねえさん、隠れてないで遊ぼうよー」
無邪気な子供みたいに、そう言ってくる。誰が遊ぶか、と加奈は弾倉を取り出した。グリップに押し込もうとするが……ダメだ。今、再装填すると音でばれる。加奈がいる研究室と廊下を隔てるのは、頼り無いガラス一枚。身を隠すものと言えば、人の背丈ほどの端末の影、それしかない。下手に手は出せない。
「おねえさーん、ねえ、アソぼうよ。はやく頂戴よ、ねえ」
この変態が、と心の中で毒づいた。上等だ、お望み通りあんたの綺麗な体に穴開けてやる、特大の穴を――そんな、どす黒い感情が胸の内に沸いてくる。
熱くなるな、と言い聞かせた。興奮状態は、冷静な判断を失わせる。クールになれ、クールにだ、加奈。自分自身に言って、ゆっくりと息を吸い込んだ。肺ではなく、横隔膜で空気を吸い、呑み込んで下腹部に落としこむ。
息を止めて、4秒。
口から、細く、静かに呼気。二酸化炭素が吐き出され、体内に酸素が行き渡る。固くなった筋肉がほぐれてゆき、早まる心臓が一定のリズムを刻み出した。液晶パネルが、アドレナリンの分泌が止まり、副交感神経からノルアドレナリンが分泌されていることを知らせる。緊張が、弛緩に。これでいい。戦うということは、力を入れることではない。力の矛先を伝えようにも、媒介たる筋肉が力んでいては伝達が遅れる。
「おねーさーん」
ウィドウが歩くたび、ガラス片が割れてぱりっ、ぱりっと音を立てる。せいぜい探し回りな、嬢ちゃんと一瞥する。下手に動かず慎重に行かねば。弾倉はあと一本、無駄には出来ない。もう少し持って来れば良かった、なにせ“護衛”なんだからそのぐらいの我侭は通ったはず。しかし、無いものねだりしても始まらない。
どうするか、と唇を噛む。正面からぶつかれば消耗戦になると予想する。武器が有限なのは、向こうとて同じ事だった。あのセラミック刃、切れ味からして刃先は単分子であるということは間違いない。単分子カッターは理論上切れないものはないが、分子一つ分の厚さしかないため耐久性に欠ける。あの刃も、あとどれだけ持つか。けれど刃こぼれを待つわけにもいかない。流れ出た血液は、相当な量――普通なら貧血どころでは済まない位に、失っていた。人工血球とて、無限にあるわけではない。どっちが先にくたばるか、なんて性質の悪いチキンレースを演じる気は無い、とくにあの女とは。
そうなると、短期決戦。決着は、一時で済ませる、必要がある。どうすれば。その時ふと、研究室のあるものが目に付いた。天井と壁に、放射状に張り巡らされた分子アセンブラの管。その中を、透明な溶液が満たしている。
端末を叩いてみた。古いタイプの、導線を張り巡らせるタイプのコンピュータだった。画面を注視する。分かったことは、どうやらここは金属錯体の製造ラインだということ。ということは――加奈は端末の裏側に回り、隣のプラスティックのデスクを探る。ここで金属錯体を作るというなら、当然有るべきものがある。
ラックの下から、半透明のスーツを見つける。あった。急いで広げて、レインコートのようなそれを着込む。手袋を嵌め、防護靴を穿く。フードを被って、準備完了。
弾倉を挿入する。がちり、と重厚な音を立ててスライドが引き戻った。弾が装填されたことを確認すると、端末に向かって2発撃った。発火して、端末の一部が爆ぜて火花を散らした。
「みーっけ」
と少女が振り返るのが見えた。加奈は落ち着いて、銃を構えて後ずさる。
「なあに、そんなカッコして。それ着れば、あたしの刃が通らないとでも思ったの?」
少女が弾む足取りで、研究室の中に入ってきた。
「それに、この八つ当たり。意味分からない、何がしたいのかしら」
まだ、オレンジ色の火花を散らしている端末を見て、呆れた声を出し
「ま、いいわ。早いとこ、殺らないとね。毒が回ると、切り刻めない」
毒、という言葉に疑問を抱いたが――それよりも先ず、目の前の案件を片付けなければならない。銃を構えたまま、後退する。ウィドウが、近づいてくる。後退、また、ウィドウが歩を進めた。研究室の中央に、分子アセンブラの直下に。
いいぞ、そのままだ――。
心の中で、そう言う。カウント、始める。
5ぉ……
「緊張するわぁ、今まで神経をやられて死んでいく声なら飽きるほど聞いたけど、生きたまま皮膚を削がれて内臓を引きずり出される声は聞いたこと無いもん。どんなに良い声で鳴いてくれるのかしら」
4……
「ねえ、知ってる? 昔の拷問にね、罪人を戸板に縛り付けて体の出っ張った所、耳とか、鼻とか、指とか、アソコとかを徐々に削いでいく、っていう刑があったらしいの。人間の出たところを切って、人体を平らにしていくってことね。面白そうだから、それやってみる?」
2ぃ……いち
「そうよね、直ぐに殺したらつまんないもんね。決めた、あなた今からあたしの玩具に――」
0っ……!
銃を天井に向けて、加奈は怒鳴った。
「一人でヤってろ、切り裂き中毒」
そう言った、直後。上に向けて2発、発砲した。瞬間、けたたましい音をたてて天井の管が割れた。細かなガラス片と共に、中の溶液が滝のように流れ出した。
「虚仮脅しっ!」
ウィドウが両指から刃を出した。力を溜めて、跳躍。分子機械の水滴が、ダイヤモンドダストめいた迷光を放ちながら、振り落ちてくる。ウィドウの刃が、間近に迫る。
防護服の表面に、水滴が落ちた。
耳元を刃が掠めるのを感じ、加奈が横に飛ぶ。逃さじ、とばかりにウィドウが右手を差し出した。
透明な液が雨となって地面に跳ねた。大量の、溶液の雫が幾千も束になって、加奈とウィドウを濡らす。それが、狙いだった。
溶液が地面を濡らした瞬間、壊れた端末から覗く、むき出しのコードがスパークした。地に溜まった溶液に触れると、部屋全体が青白い火花を散らす。端末に溜め込まれた何百アンペアという電力が、溶液を介して放出された。
その溶液に濡れた加奈とウィドウにも。
刃を突き出したウィドウを、青い稲妻が襲う。布を裂くような音がして、少女の華奢な体は電撃に包まれた。
「かっ……は」
瞼の裏にまで突き刺さりそうな、電光。防護服の表面を、戦慄が走る。絶縁体のスーツで電気を通さないとはいえ、自分の体に電流が絡みつく感覚は、快いものでは到底、無い。
一定時間、放電は続いた。加奈は研究室から出た。部屋全体が青い閃光を放ち、イルミネーションのようになっている。やがて、ふらふらとした足取りでウィドウが出てきた。あれだけの放電であるにも関わらず、被害は皮膚の一部が焼け焦げただけである。やはり、耐電改造は成されているようだ。しかし、これほどの電気を長時間浴びることは想定していなかったのだろう、おぼつかない足取りで研究室から出、壁に手をついた。
その手を、対機甲弾で撃つ。ドン、と衝撃が走ってウィドウの左腕が弾け飛んだ。ウィドウがバランスを失って、倒れこむのに更に一撃。右手も吹き飛び、これで武器は完全に封じた。