3―10
照準を頭に定め、引き金を引く。反動が手首に返る。
赤い影が揺らいだ。そこにあるべき、少女の顔が消え、背後の壁に着弾。白い炎を上げて、蛋白壁の一部が膨張して破裂する。壁の真ん中に大穴を開けた。
「こっちよぅ」
とからかうような口調が背後からした。ひゅ、と空気が切り裂かれて刃の感触を感じる。頬に薄く傷がついた。
「黒い血なんて、キモチわるーい」
ウィドウは笑って、刃を突き出す。剣先を、肉を抉るように回転させて突き刺してきた。加奈はそれを、首を捻って避ける。
避けてばかりじゃあ……しかし、いくら撃ちこんでも少女は難なく避けてしまう。いくら強力な特殊弾頭を用いても、当たらなければ意味が無い。少女の動体視力、反応速度は、常人のそれを凌駕している。
3連発、撃った。少女はそれを全て掻い潜り、加奈の間合いの内側に踏み込む。顔が迫り、水平に切ってくる。ヤケクソ気味に、前蹴りを放った。つま先がウィドウの胸にめり込む。少女の硬く小ぶりな乳房の感触を覚えた。ウィドウの体は研究室のガラス壁に叩きつけられ、大音響と共にガラスが割れ砕けた。
ホールドオープン、再装填。薬室に銃弾が送り込まれる。
研究室に踏み込み、ウィドウが倒れこんだ所に銃を突きつける。だが、姿は無い。どこに行ったのか、とその時背後に気配。振向く。
剣閃が瞬いて、眼球の裏側に焼きついた。
ついと水平に切り裂く刃、前髪が飛び散って、額に線上の傷が刻まれた。一歩下がると追撃、左右の刃が首に伸びる。
セラミック刃が肉を切り裂き、頚動脈が傷つけられた。
黒い血が盛大に噴出して、体内センサが血流の異常を伝える。人工の血小板が、バイオセンサの要求のまま一箇所に集められ、生体分子機械の自己組織化機能が働く。
千切れる痛みを噛み殺し、人工血球を補給。注射デバイスで灰色の溶液を注入する。
恒常性を保とうとする、加奈の身体。瘡蓋のように細胞が固まり、配位高分子が傷口を塞いでやっと止血される。
その塞がった傷に向けて、さらに刃が振り下ろされる。二度目はないよ、と加奈は少女の腕を取り、半身に切って逆関節を極めて投げ飛ばした。少女は空中で捻転して、着地。瞬間、発砲。ウィドウは飛びのいて、壁に張り付き、一足飛びで銃撃の及ばない所まで後退した。
「便利ねえ」
と少女が言って、刃についた加奈の血を舐めた。真っ赤な舌が、白い刃にぞっとするほどよく映える。
あの刃、単分子加工だなと思った。普通のナイフの類じゃ、この肌に傷一つ付けられない。それが出来るとなると――口の中に広がる鉄の味を飲み下し、走って距離を詰める。
ブローニングを発砲、ウィドウは軽やかな足取りでステップを踏み、それを避ける。睥睨する目で、弾丸を見送った。
畜生、いつまでたっても、これじゃあ埒が明かない――肉を押しつぶす感覚はいつまでたってもやって来ず、ただ空しく弾を消費するだけ。苛立つ心に膿が溜まる。あの少女は、一体どういう改造をしているのか、勢いが衰えない。まるで良く出来た機械人形でも相手にしているような徒労感が襲ってきた。
「結構、粘るじゃん。銃使いって、接近戦は弱いかと思っていたけど。馬鹿な軍人の使う、格闘術に良く似ている」
柱に身を隠して、ウィドウが言った。
「カラテ? ジュウジュツ? ケンポーかしら。でも、純粋な白兵戦じゃあたしの方が強いよ。銃なんて弾が切れちまったら、終わりだもん。刃と体は不滅だしね」
「ごちゃごちゃうっさい」
加奈は、ウィドウが隠れている柱に向けて3発、撃った。弾がめり込み、白炎とともに柱が爆散する。粉塵と欠片の中に、ウィドウの驚いた顔が見えた。
こういう使い方も出来るんだよ、勿体無いけどね、と加奈はウィドウの呆けた顔に向けて5発、撃ち込んだ。
視界が燃え上がる。
爆ぜる音と閃光、粉塵と煙、崩れ落ちる人工石。それでも尚、手ごたえは感じられない。
視界が晴れると、焼け焦げた赤い布が四散していた。壁にわずかに、血がこびり付いている。姿は、なかった。
左斜め30度、8時方向で足音。僅かな物音も、加奈の聴覚は拾う。
「そこか!」
音の方向に発砲。発射炎越しに、ウィドウの小さな影が躍った。跳躍する少女が、天井に刃を突き立てその場で身を翻す。短くなったドレスの裾から、黒い下着が覗いた。
回転しながら、落下。
両断に切る、セラミック刃。加奈の額にめり込んで、顔を斜めに切った。
薬莢が地面に落ちる、と同時に、水道管が破裂したときのように黒い血漿が噴き出た。
痛みより先に、欠落感。絶望に裏打ちされた欠如の感覚が、生理食塩水が浸透するよりも早くに広がっていく。
冷たい刃が、熱を持つ。燃えるような切創、神経が悲鳴を上げた。
脳裏に浮かんだ、“蟻塚”。炎と溶液、化学物質と潮の臭い、爆発しそうに脈が速くなる。喉が収縮して、マウスを絞め殺すときと同じ声が洩れた。
「あは、傷女」
と言う声がした。倒れこみそうになるのを、踏みとどまって声の方向に撃つ。血が目の中に入った。狙いをつけられない。殆ど勘だけで撃ちつくす。弾切れになっても尚、引き金を引き続けた。
「ねえ」
耳元で声がする。耳朶に吐息を吹きかけられた。ぞくりと、粟立つ。引き離そうとするが、喉に刃の感触を覚える。
「あたしさあ、まだこの刃だけで人を切った事無いんだよ。大抵は、ちょっと傷をつけただけで皆イっちゃうんだ。肉を最後まで切り刻んで殺した経験はないの」
一言一言が甘く、それでいて毒々しい。ねっとりと生暖かいものを伴った、舐め回すような声が、艶かしい唇から囁かれる。首筋を、少女の舌が這うのを感じた。背筋が凍った。
「でもお姉さんタフだから、直ぐには死なないからさ。ようやく、切り刻むことができそう」
益々、刃を押し付ける。左手を首に、右手の刃を胸につける。盛り上がった乳房を、刃の腹で撫で回した。
「あたしの処女、あげるよ。お姉さん、あたしの初めてになって」
言って、寝かせた刃を、立たせた。
日が落ちて、群青色に空が染まる。都市警のヘリが3機、ビル上空を旋回している。武装された突入員たちがH&Kを手にしてビルに駆け寄った。背中には都市警のマークが入っていて、あからさまに殺気だった空気を醸している。何かしらの化学兵器を所有していると見て、全員が全員、防護マスクを被っていた。
PDAで何やら通信し、手を振って合図しあっている。ガラス戸に背をつけたまま銃を入り口に向けているが、中に入り込む気配は無い。
SATのタクティカルスーツを遠くに臨み、植え込みに隠れながら涼子は裏手に回り込んだ。
ショウキと涼子は身を低くして壁伝いに移動する。やがて固く閉ざされた防弾ガラスの扉が、二人を迎えた。
「彼ら、いつ踏み込んでくるかな」
と涼子が言うのに、ショウキは
「あいつらは上の指示がなけりゃ、動けねえんだ。もたついている間に、突っ込んじまおう」
そうね、と涼子が懐から青いテープが巻かれた缶を取り出す。スプレー缶めいたそれは、空中浮遊型の分子機械が詰め込まれている。バルブを開放して、缶底部の機械に触れる。赤いランプがグリーンに変わると、灰色の雲が一固まり、空中に留まったかと思うとドアの隙間に吸い込まれるように流れてゆく。
左腕の端末を叩く。液晶に四文字の塩基情報が流れてくる。扉のセキュリティを司る、塩基演算装置の分子配列を走査したものだ。
分子コンピュータは、生体を構成する塩基、A、T、G、Cによって配列され、構成される。分子をデバイスとしているため、通常のコンピュータとは比べ物にならないほどの並列処理能力を有しているが、人間と同じ、デオキシリボ核酸を用いている、そこがセキュリティの穴となっている。
液晶上を流れる文字、マトリクスを確認。次に、ノート型の端末を開き腕の端末と繋ぐ。キーを操作して、四文字の塩基の配列を操作する。
「コンピュータってのは、よくわからんな。今なにやってんだ?」
とショウキが、液晶に映された文字列を見て言う。
「さっきの分子機械で、塩基の配列を弄るの。こっちの分子機械は金属内包フラーレンで造られた人工DNA。それを、扉に備え付けられた分子端末に侵入させて、DNA分子の相補作用に干渉する。分子演算システムの、塩基配列のベクトルを変性させてこちらの都合の言いように行列式を書き換える」
「あー……つまりはハッキングか?」
「端的に言えば」
緑色の文字が流れて、塩基配列決定。DNAシークエンスの行列式が秒刻みで切り替わり、分裂する。
エンターキー。
マトリックスが消え、表示が変わった。GOサインが出たのだ。
重々しい音を立てて、開錠される。
「できた」
と涼子は扉を押して見せた。
「呆れたよ、こいつ。とんでもねえな」
「日ごろ、遺伝子の解読、時には操作してるからね、コンピュータの配列を改変することなど造作も無いことよ」
「そのコンピュータってのが、人間と同じ分子で出来てるってのがまた恐ろしいよ。そのうち、人間まるまる一体ツブすことだってできるんじゃねえか」
「まさか。それをするんだったら、その人のDNAデータを解読して盗み出さなければ。でもそんな面倒な事、する人はいないんじゃない?」
違えねえな、とショウキはビルの中に入る。冷気の固まりがぶつかってくるのに、さてどうしてものかと思案した。
侵入したはいいけど、どこに加奈がいるのか分からなければ意味が無い。
その時、上の階でかすかに音がするのを聞いた。ショウキは昇降機に急いだ。涼子も後に続く。