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夜狗-YAKU-  作者: 俊衛門
32/87

3―8

「何か言った? 鈴」

 訊くが、鈴は首を振った。なぜだろう、と思った。ひどく懐かしい、それでいてなぜか空恐ろしいような声が響いた気がしたのだが。気のせい、だろうか。

 また、声がした。

 ――桜花インファ

 頭の中で、反響する。それを聞いた時、割れそうな頭痛が襲ってきた。

 全身から汗が噴出し、血液が逆流する。網膜の表示が呼吸と心拍数の乱れを知らせた。目の前に浮かぶ虚像。断片的な視覚情報と耳鳴りにも似た雑音。誰かの声が反射して波打って、瞼に闇が降りて、灰色の、聳える壁が圧迫する。胃の中が持ち上がり、内臓が膨張してゆく感覚。眩暈が波紋となって、天地が逆転した。

「く……」

 立つことも、ままならない。思わずその場に座りこむ。こんな激しいフラッシュバックは初めてだ。懐からプラスティックケースを取り出し、ケースから直接錠剤を口の中に放り投げる。が、ちっとも収まらない。口の中に溢れてくる胃液を喉元で抑え込む。喉が、焼けるようだった。冷や汗が体温を奪ってゆき、血管が収縮するような心地を覚えた。鼓動が早まる。内臓が壊されて、細胞が剥がれ落ちてゆく。

「加奈さん!」

 鈴が駆け寄って、背中に手を置いた。

「大丈夫ですか、しっかりしてください! 加奈さん――」

 耳元で鈴が叫ぶのを聞く。そこでようやく、眩暈が収まった。同時に頭痛と吐き気が、潮が引くように収束していく。「もう、大丈夫だ……」

 と、鈴に言った。鈴は、よかった、と言う。加奈は、すまないな、と鈴に笑いかけた。

 その鈴の背後で、黒い、円筒形の物体が上から落ちてくるのを確認する。ゆっくりとスローモーションのように、その下にはあの男がいた。

 最初、爆発物を疑った。

「伏せろ」

 加奈は素早く身を起こして、鈴を抱きかかえた。

「え、な、なんですか」

 動揺する鈴が言うのにも聞かず、頭を低くして、 身を伏せる。刹那。

 地面と接触した物体が弾け、風船が破裂したときの音がした。円筒形の中から白い煙が勢いよく噴出し、一階のロビー全体を覆いつくす。金属胴の男と、制服警官たち、その横にいた幸雄と秘書の姿が煙に呑み込まれ、視界が白一色に塗りつぶされる。

「お養父さん!」

 と言うが、煙を吸い込んでむせ返った。煙幕、いやもしかしたら毒ガスの類かもしれない。加奈はハンカチを取り出して、鈴の口を押さえた。「んむ、な、何……」

「息を止めろ、こいつを吸うな!」

 周りの社員と、子供たちが咳き込んでいる。煙はやがて霧散し、風に吹き散らされていく。左腕の端末を見た。端末が分析をする。どうやら、毒性の物ではないようだ。そこでようやく、鈴を解放した。

「ぷはっ」

 口から手を放すと、鈴が大きく息を吐いた。

「ただの煙、か」

 加奈はジャケットの下から、ブローニングを抜き出した。企業のビルに銃器の持ち込みが出来るのは、都市警と“特警”のみである。

「今のは、なんですか」

 と、青年がおろおろしている。加奈は3階部分を仰ぎ見るが、人影はない。

 いたずら、か……?

 そう思ったとき。

 突然、金属胴の男が呻き始めた。何事かと、加奈は男を見る。警官たちも、幸雄も、鈴も。

 全員が注目する中、男は身をくねらせて、もがき苦しんだ。獣のように唸り、床に転がってのた打ち回る。身をよじって、口から泡を吹いていた。白目を剥きはじめた頃、警官の一人が救急車を呼べと言った。だが。

 一旦、男が大きく仰け反った。その時。

 何かが裂ける音がした。

 ぴ、っと加奈の頬に、何か生暖かいものがかかる。拭って見ると、赤い液体が手の甲にこびり付いていた。

 ……血? 一体どこから

 次にもっと、大きな音。男の方を見る。

 目を凝らす。

 男の、顔の皮膚にいくつも亀裂が入っていた。亀裂、である。柔らかい皮膚が硬化して、干上がった沼の底みたいな亀裂がいくつも出来ていた。みしっと軋むような音がして、額に新たな亀裂が入り、そこから血が噴水のように噴出す。さっきの血はこれか、と思いつき

「鈴」

 と言って、鈴の目を塞いだ。

「見るな」

 そういった瞬間。

 男の顔が、破裂した。

 赤い色水を満たした風船か、または西瓜に銃弾を撃ちこんだ時のように。首から上が弾け、血と内容物を撒き散らす。刹那のことだった。警官たちも、他の人間も何が起こったのか分からなかった、ようだった。

 秘書が絹を裂く悲鳴を上げたことで、その場は騒然となった。その場に居た社員と子供たちがパニックになり、悲鳴と怒号が飛び交う。警官たちがそれを下がらせようとして人の波を押しのけ、はぐれないように加奈は、鈴の手を握った。

「な、何ですか。何が起こったんです?」

 鈴が訊いてくるが、それを知りたいのは加奈自身だった。あの煙に当たったのは、金属胴の男だけではなかったのに、なぜあの男だけが変死した? 

 疑問符が沸き上がっては消える。その時。


 ――桜花インファ


 ざわめきの中、聞こえた。


 ――インファ……


歌っているようだ、と思った。遠くの対岸、決して渡ることのできない深い淵を臨む。水面に波紋が立つように、呼ぶ声がする。

 桜花。なぜ、その名前が今になって。その名は記憶の奥深くに封印したはずなのに。どうしてかそれが、ひどく懐かしく感じる。愛おしさすら、抱くほどに。

 同時に感じたのは、嫌悪だった。“中間街セントラル”を思うときに感じるものと同じ、粘性の血と灰色の膿が凝固し、溜まってゆく。

 

 それを知っているのは誰――?

 

 人垣の中に、一人の少年の姿を見つけた。白い帽子キャップを深く被って、逃げ惑う群集に混じって立っている。ひさし越しに見つめる目は、くらい。少年は帽子キャップを被りなおして背を向ける。左耳にピアスをしていた。赤い勾玉が、煌いている。

 あの少年は――

「君、この子を頼む」

 先ほどの青年に鈴を預けた。青年は目を丸めて、それでもはいと頷く。加奈は鈴に

「直ぐ戻る」

 と言って、自分は少年を追った。銃の撃鉄を起こして。


 ガラス張りの通路。

 白と若干の青が混じった廊下の向こうに、少年の青いジャケットが遠く霞む。社員や子供たちが全て避難した後の本社ビルは、貼り詰めた弦のような静寂に包まれていた。ガラスの向こうの、ガラスの箱、ガラスの管――。

 ブローニングの弾倉を確認して、逃げる背中に発砲する。弾はわずかに逸れ、区切られた研究室ラボの壁面を撃ち抜いた。ヒステリックで悲劇的な音を立ててガラス壁が砕け、試験管の液体が四散した。

 どこに――どこからか……声を送っている。

 

――桜花インファ


「あんたが言ってるのか」

 遠ざかる背中に、呟いた。走るたびに、床に散らばったガラス片が音を立てる。細かくなった透明な結晶が跳ね上がる。LEDの光に当たって水滴のように、反射する。

 水溜りを、思わせた。“蟻塚”に散在する、老廃物が剥離して溶け合わさった水溜り。あそこにあるのは、澱んでいる、もっと濁った水だというのに。透明なガラス板とは似ても似付かぬ、はずなのに――

 少年の背中が、いつか見た幻と重なった。

 その途端、白一色の景色が歪み、岩肌と鉄筋の“蟻塚”の壁が現出する。幻影の中、走り去る背中。“中間街セントラル・シティ”のイメージが、これまでのフラッシュバックとは比べ物にならない、現実感を伴っていた。それも、瞬きをすると虚像は消え、元の白い壁を取り戻す。

 どうかしている。

 頭を振って、気を持ち直す。左手で、腰のハーネスから短針銃フレッチャーを抜いた。グリップに口付け、照準。

 射出。

 螺旋に回転した針の先端が、少年の足に突き刺さると少年は足をもつれさせて転倒した。

「神経針よ。あんたの足は、しばらく動かせない」

 と加奈が、倒れこんだ少年の額にブローニングで狙いを定めた。

「立ちなよ」

 静かに言う。

「あんた、東京の《チープホテル》で見たっけね。そのピアス、すぐ分かったよ」

「あの一瞬で、オレのこと記憶したんだ? お姉さん、あったまいいー」

 ひさしの下で、少年の口角がひきつったように上がる。声変わりもしていない、甲高い声だ。

「余計な事喋る、許可を与えた覚えは無い。いいから立ちな」

「よっくいうよ、自分で立てなくしておいて……」

 少年が言い終わるか言い終わらないかのうちに、加奈が発砲した。少年の頬を銃弾が掠めた。

「次は無い、立て」

 少年は壁に手をつけて、よろよろと立ち上がった。帽子キャップを取れ、と命じる。少年が帽子キャップに手を伸ばした。取る瞬間、イメージが脳裏にこびりつく。

 そのイメージのまま、宣告する。

動くなフリーズ

 ふてぶてしく笑う、フィリピン系の顔立ちをした少年の顔が露になった。

「あの発煙筒……じゃあないね。あれはあんたが投げたのか?」

 短針銃フレッチャーを収めると、少年に詰め寄った。

「お姉さん、なんか怖いよ。綺麗な顔が、台無しだ」

「訊かれた事にだけ答えろ」

 額に押し当てる。

「サムライってわけじゃあ、なさそうだな。体内に武器はなし、と。あの煙はなんだ」

「さあ? オレはよく知らねえや。言われたままにしたから」

「じゃあ、誰に頼まれた」

 人差し指に力を溜める。血流が指の末端に集められ、神経が研ぎ澄まされる。動けば撃つと、無言の警告。

 少年が、喉を鳴らして笑った。何がおかしい、と言うと

「お姉さんに、オレを撃てるの?」

「なんだと?」

「だってさ、目の色が違うし。あの男、倒したときと、目が。ブルってるし」

 少年の瞳の奥底が、光を放つ。息が、詰まりそうになった。見透かされているのか――馬鹿な。

「試してみるか、ボウズ」

「いーよ、別に。ただ、オレをっちゃったら名前、聞けないジャン? 命令した人の」

「ほう」

 度胸だけは、ありそうだなと銃口を首筋に沿わせ、薄い胸板につけた

「じゃあ、吐いてもらうまで苦しんでもらう、ってのもありだな。内臓を傷つけないよう、注意深く撃ちこんでいけば。出血多量でしか死ねないように、急所を外してね」

「だからさ、出来もしないこと言わないほうが言いよ?」

 このガキは――いっぺんぶん殴ってやろうかと思ったとき

「ま、秘密にすることでもないしね。それに、オレなんかよりお姉さんのほうがよく知っていると思うよ。あの人に関しては」

「あの人?」

「オレらのリーダーだよ」

 と、少年が言った時、少年の背後で白い煙が立ち昇った。一気に噴出し、視界を覆いつくす。

 さっきの煙か、と口を押さえて後ずさった。

 煙の中に、2つ、影が揺れるのを確認する。一つは少年のもの、もう一つは――

「それはただの煙幕だ、桜花」

 と影が言う。

「あんたぁ……誰だ。なぜ、その名を口にする!」

「ひどいなあ、忘れちゃったの?」

 煙が晴れ、段々と形を帯びる。突然、脳裏を“中間街セントラル”の映像がよぎる。炎の舌と、血塗れた手、コバルトブルーの水と灰色のマテリアル……視覚と触覚、嗅覚すら感じる。情報の欠片が流れてきて、五感を刺激する。“蟻塚”、トタン屋根、岸壁の波、遠くに望む“ゲイト”が渾然一体となって、古い映写機のように切り替わってゆく。イメージの残滓が、再び集合して形作ってゆく感覚が、煙の中から現れた人物と重なっていった。

「桜花、僕がつけた名前だよ? 名前がなかった僕らが、互いに名前をつけあったじゃないか。そして僕の名を、君は知っている」

 現れたのは、青年だった。灰をかぶったような髪をして、白い顔をしている。血のような赤い双眸が覗き込み、射竦められる心地がした。

 イメージが、積み上げられた“中間街セントラル・シティ”の幻が、実像を伴う。

飛燕フェイイェン……?」

 気づいたら、呼んでいた。その人物の名を口にしたとき、青年のピンク色した唇が笑いを象る。疑いようも、ない。加奈は、今度ははっきりと口に出した。

「飛燕……なのか? あんた……」

 目の前の青年を、呼ぶ。


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