3―7
ロビーの中央に鎮座しているのは、吹き抜けの3階部分にまで達しそうな巨大な金属のオブジェ。黒く磨かれたそれは、緩やかなカーブを描き、螺旋に渦巻いている。微生物の、縮れた鞭毛にも似たそれは幸雄に言わせるとDNAを表しているそうだ。ただし、二重螺旋構造のヒトDNAではなく、一本鎖DNAかもしくはウィルスなどが持つ、RNAの方が近い気がする。
その、オブジェの下のベンチに、幸雄が座って待っていた。加奈たちの姿を確認すると、両手を広げて迎え入れる。
「お待たせ」
と加奈が言うと、幸雄は
「いやいや、大した時間じゃあないさ。検査はどうだ?」
「ええ、滞りなく。シリコンベクターが古くなっていたから、全部取り替えたわ」
「うむ、そうしたほうがいいだろう。珪素集合体を内包した同素体は、いくら安定しているとはいえそれを供給する因子が働かなければどうにもならんからな。都市も同じ、いくら生産効率を上げても流通させるものがなければ都市機能は停止する」
と、幸雄はわけが分からないといった顔をしている鈴に目を向け
「お嬢ちゃん、どうだったかな我が社のシステムは」
一瞬、鈴は何を聞かれているのか分からない様子だった。3秒の間を開けた後、慌てたように
「あ、はい。あの、勉強になりました」
しどろもどろで答える。鈴の緊張が、手のひらから伝わってきた。ぎゅっと加奈の手を握り、少し汗ばんでいる。
「ふむ、難しくなかったかね?」
「いえ、とても分かりやすかったです。分子機械をつくっているところも、初めて見ましたし」
造っているところ、つまり分子アセンブラのことを言っているのかと加奈は思った。あの蜘蛛の巣に似たガラス管に、機械を構成する蛋白質と分子モーター、セラミック基盤がゲルに溶け込み、どろどろになった物体が一つの分子に組み合わされる。それが、加奈の体に入っていく――ぼんやりと、そんなことを覚えている。多分、この都市に来たばかりのことだ。あの巨大な分子製造機から、加奈の体内マシンが造られたと聞かされていたから。
「あれのことか。しかし、あのご大層な装置もそろそろ過去のものになるやもしれんな」
「どういうこと?」
ゲルがガラス管を満たしている場面を想像しながら、加奈が訊く。幸雄は、とりあえず食事でも、と入り口を指差した。
「ナノバイオテクノロジーは、生物機能を解析すると同時に、それをトレースする。生物の自己組織化を利用したボトムアップなどがそうだな。生物部品を使い、生体に金属の膜を張ったり、体の中に埋め込み端末を組み上げたり。それを考えると、あの大掛かりな装置は生物にはない」
「そりゃあ、そうでしょうけど。じゃあどうなるの」
入り口から、グレーのコートの男が歩いてくるのをちらちらと見ながら加奈が言った。
「本来、我々の体には備わっているんだよ。分子アセンブラ、この体を構成する蛋白質分子を兼ね備えた分子アセンブラがね。DNAが配列を決め、配列が構造を決め、構造が機能を決める。今は、個人の生体機械を造るのにわざわざ遺伝子タンクから塩基配列をダウンロードし、RNAに変換してインプットして、分子を構成させる。生物はそんな面倒な手続きを、すべて体内で行う」
「そう……」
加奈は殆ど、話半分で聞いていた。先ほどから、正面のコートの男が気になる。誰だ? あれは。社員にも見えないし、業者の人間か? ならなぜ受付に行かない。どうして、こちらの方をじっと見ている――。
「それが、細胞の役割だよ、加奈。私たちは生まれながらにして、微小な分子アセンブラを持っている。アセンブラマシンなんてものあるが、そうではなく完全な分子アセンブラを人工的に作り出すことが、ナノバイオの最終目標ともいえる。それが実現されれば、例えば金属錯体を自己組織化によって生み出す人工細胞が出来……」
そこまでだった。入り口に突っ立っていた男が、いきなり突進して来たのを見た。加奈は鈴の手を振り解き、背中側に回す。男が走ってくる。幸雄を肩で突き飛ばした。
ひゅ、と空気が切り裂かれる。
男の手には、黒い刃が握られていた。ほんの1,2秒前まで幸雄の体があった空間に、刃を突き出した。刃が空振りしたと見ると、すぐに呆気にとられている幸雄に向き直って切りつけようと振りかぶるが。
それは加奈が許さない。刃を持つ男の腕を取り、手首を折りたたむように極める。ぎり、と関節を絞り込み、小手を返して合気の呼吸で投げ飛ばした。
一瞬、男の体が浮き上がったと思うと背中から地面に落ちる。仰向けに倒れた男の、手首を捻って肘の逆関節を取った。
制圧。
「貴様!」
と幸雄が怒鳴ったが、尻餅をついた状態で怒鳴ってもいまいち迫力が無い。鈴に、下がって、というと男の手から刃を取り上げた。 硬質プラスティックのナイフだ。ナイフと言うより、ヤクザの使う脇差に似ている。銃を持ちこめないから、金属でないプラスティックナイフを選んだ、ということか。こんなものでも、体ごとぶち当たれば刃は突き立つかも知れ無い。が
「あいにく、ここの人間にこんなものは効かないよ。このわたしの体、造ってるくらいだから」
と加奈は刃を握ると、指の力だけで折ってしまう。男が驚いているのに
「加奈、そいつは」
ようやく、幸雄が立ち上がった。警察に通報お願いします、お養父さんと加奈が言うと懐から電子錠を取り出す。
「あんた、固有主義者? どうにもこんなところで事を起こすなんて、ヤキが回ったのかしら」
「あんたぁ……あいつに雇われたサムライか」
と男が言う。なんと答えようか迷ったが
「ま、似たようなモンね」
バイオのサムライがヤクザの用心棒なら、夜狗やら夜狗だとか呼ばれる自分たちは政府の用心棒のようなものだ。加奈は男を後ろ手にして締め上げた。だがそこで、違和感を覚える。男の背中、いやに硬い。もう一度、触れてみる。まるで一枚岩のような感触がする。
背中を、まくって見た。
「……あんた、これ……」
そこにあるべき肌色がない。男の背中は、金属製だった。大分前に造られた、皮膚の代用物たる金属の胴。こいつは固有主義者ではない。主義者は、自分の体に手を加えることを嫌う人種。だとしたらこいつは。
サムライ? いやだったらもっとマシな改造をするはずだ。これではまるで
「驚いたか、女」
と男が呻いた。加奈はまくり上げた服を戻した。
「あんた、誰に雇われた」
「雇われたってねえ、オレみてーな半端な体、誰が雇うんだよ。サムライとかならともかくさ」
「じゃあこの胴は……」
こんなもの、都市に住む人間はとっくに過去の物にしているというのに。皮膚を丸ごと金属に変える、そんなことせずとも質のいい人造皮膚がある。
いや、都市に住む人間、ならば。
「“中間街”か」
加奈が問う。男は無言だったが、それを了解の意ととった。
「“中間街”の人間が、よく“門”を通れたな。誰かの手引きか? なぜ養父を狙う」
「なぜって、笑わせるぜ」
男が鼻でせせら笑った。
「あんた、あの男の娘か? その様子じゃあいつがどんな人間か知らないみたいだな」
どんな人間、というと。ちらりと幸雄を見た。秘書に向かって、警察に連絡しろ、などと叫んでいる。
「あの男は人間じゃあねえ」
加奈の腕の下で、男が唸り声を上げる。幸雄を睨むその目が、殺意に満ちている。
「あいつが、あの悪魔」
入り口にパトカーが数台停まり、都市警の制服警官がバラバラと降りてきた。
「政府とグルになって人の命弄んでおいて、あいつのためにオレの家族は……」
さっきから何を言っているのか――加奈の理解を超えた、呪文のようなことを言っている、ように聞こえた。幸雄が何をしたって? 政府とグルとはどういう――
「そこまでだ」
制服の青年が加奈に駆け寄ってきた。加奈に敬礼して
「犯人逮捕にご協力、ありがとうございます」
「ん、ああ……」
加奈が男から離れると、警官数名が男を立たせて連行させる。加奈は、ちょっといいか、と青年に言った。IDカードを提示し
「この男を、“特警”で預かりたい。気になることがあって」
「え……」
まさか“特警”だとは思っていなかっただろう。青年は緊張の色を顔に貼りつけ、次に困惑顔になる。
「しかし、こんなことで“特警”の手を煩わせるわけには……」
「頼むよ。どうもあいつ、主義者やサムライとは違うみたいだ。気になる事も言っていたし」
青年は、しばらく思案していたが
「では、直ぐに掛け合ってみます」
「助かる」
田舎の警察は素直だな、などと思って自分は本部に連絡をせんと端末を露出させた。
「加奈さん」
と、後ろから鈴が話しかける。不安げな面持ちで、加奈のジャケットの袖を引っ張った。
「あんたが心配することはない」
と加奈は、落ち着かせるように言った。
「これから直ぐ、横浜に戻るよ」
「今から、ですか?」
「慌しくて悪いけど。あいつを……」
その時。
小さく、呼ぶ声がした。