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すらりと背の高い、秘書の女の人に連れられて、研究施設へと足を踏み入れた鈴は、会議室の壁面に貼りつけられたELスクリーンの映像を見ている。
『分子機械とは、ナノサイズ、10億分の1mというごく小さな機械のことを指します。20世紀の終わりから研究されていました、この分子機械は、それまでの外科的な手術の必要のあった病気を、体を切る事なく治すことができるようになり、医療に革新をもたらしました……』
今観ているのは、“セイラン・テクノロジー”が制作した子供向けの教育ビデオだ。画面には、研究施設の白い壁と、巨大なガラス管が入り組んだ分子アセンブラを映している。
『バイオテクノロジーとナノテクノロジーの融合による、生体分子機械。皆さんの体の中にもあるこの分子機械は、ソフトナノマシン、またはバイオマシンとも呼ばれます。それは、今までは鉄やシリコンのような固い材料で作られていた分子機械に対し、生物の持つ部品を用いて作られているからです。今までの固いな分子機械は、体を傷つけることがありましたが、ソフトナノマシンに使われている素材は、私たちの体と同じように大量の水を含んだゲルでできています。こうした、生物部品を利用した分子機械は医療に於いて大きな貢献をしました。例えば、分子モーターと呼ばれるゲル運動素子、これは微生物の持つ鞭毛などがよく用いられますが、これらを利用したドラッグ・デリバリー・マシンは血液を泳動し、体の奥深くの患部に直接薬を届けます。これにより、外科手術は過去のものとなり、また健康で若々しい体づくりにも貢献しています』
自分の体にはないものだったが、興味深かった。鈴が今までいた環境には、少なくともないものばかりだった。しかし、子供たちには充足感を与える物ではなかったようで、退屈したようだった。体をゆすったり、隣同士で喋ったりしている。
ビデオの映像はさらに続く。
『生体分子機械はさらに、生物の持つ自己組織化の能力を持っています。生物は、本来自分自身の力で組織や構造を作り出すことができます。DNAを設計図として、外部から手を加えることなく生物の体をつくり上げたり、脳内の神経回路の構築したり、これらは自己組織化の一例です。これにより、例えば常に生体分子機械を体内に入れておくことで、自己組織化により小さな傷も治してくれます。さらに、この自己組織化機能は、医療以外の分野でも生かされます。この自己組織化能力を応用して、“セイラン・テクノロジー”では微細なものを加工する自走型マイクロロボットを生み出し、工業の発展に貢献しています。今までは小さなものを作るのに、大きなものを段々小さく作り変えていくトップダウン方式でしたが、現在では小さい分子を組み合わせてマイクロサイズの製品を作る、ボトムアップ方式による物質生成が主流となりつつあります。これにより、微細な製品の製造、または人の体の中や人間が入れない特殊な場所での作業、物質生産などを……』
ボトムアップ、自走型マイクロロボット。
どこかで聞いたような単語だった。誰かが言っているのを、聞いた覚えがある。どこで聞いたっけ、と思い出そうとするが……思い出せない。部屋が明るくなり、スクリーンの像が消えた。45分のビデオプログラムが終了したようだ。そこへ、先ほどの秘書が入ってきて、それでは皆さん、実際に製造過程を見学しましょうと言う。子供たちに混じって、鈴は会議室を出た。
生体分子機械を埋め込んでいる人間は、“中間街”では殆ど居ないものの、都市の人々――加奈も含め――は90%の割合で注入しているという。その事実は、鈴にとっては結構驚愕に値することだった。生体分子機械を買える人は、お金持ち、というイメージが強かったからだ。じゃあここにいる子供たちはみんな富裕層の、良家の子息、子女なの、と秘書の女に訊くとそんな人はすくないわよ、と秘書が笑った。
ガラス張りの壁の向こうで、白い格好をした人たちがガラスケースに手を入れて何かを操作している。反対側の、ガラスの向こうには天井から壁から、部屋一面に貼り巡らされた放射状のガラス管があって、その下で防護マスクをした人間が端末を叩いている。あれは分子アセンブラよ、と秘書が説明した。アセンブラって何ですか、と質問すると組立工場みたいなものよ、あれで分子機械を作るの、と教えてくれた。入り組んだガラスの管、“蟻塚”みたい、と思ったが、口には出さなかった。
「ねえ」
と、後ろから男の子が話し掛けてきた。鈴は驚いて振向いた。
「え、な、何?」
「君、うちのガッコじゃないよね? 中学校? この辺じゃ見ない顔だよね?」
この辺じゃ、って……鈴は無言で、男の子の顔を見た。明るい茶髪の子供だった。目鼻立ちは西欧人のようだったが、言葉は日本語を喋っている。ハーフかな、と思っているとさらに男の子は訊いてくる
「ねえ、さっきの女の人誰? お母さん? お姉さん? どこから来たの? 学校は? なんで1人で居るの? っていうかなんで黙ってるの?」
矢継ぎ早に質問を繰り出してくるのを、鈴はなにから答えて良いか分からずに混乱している。他の子供たちはとっくに先に行っているのだが、男の子はやめる気配がない。そろそろ、あの秘書の人に助けを求めようとしていたとき
「なにやってる」
と上から声がした。加奈が、男の子の頭の上から鈴の顔を覗きこんでいる。鈴は安堵に胸を撫で下ろした
「ボウズ、あんまりこいつをいじめてやるな。人見知り激しいんだ、こいつ」
「うん、わかった」
と男の子が言う。
「物分りがいいな」
「うん。ただし、お姉さんがデートしてくれたら」
そういうことか、と鈴は脱力を禁じえない。将を射んと欲すれば先ず馬を射よ――鈴を通して加奈とお近づきになろうという魂胆だったようだ。ようだが……
「ませたこと言ってんな、クソガキ」
と加奈は一蹴した。
「10年早いよ、そんな科白。もっと世の中のイロハを学びなよ、口説き文句はそれからだ」
ものの見事に振られて、男の子はしゅん、と肩を落とす。少し、可哀想な気がした。
「待たせたな、行くよ、鈴」
と加奈が言う。鈴は、男の子になにか言うべきか迷ったが、結局声をかけることができず。加奈の後ろにくっついて集団から抜け出した。
「検査、ってどんなことをするんですか?」
廊下を歩きながら、鈴が訊いた。加奈はそうだな、と言って
「大したことはしないけどね。血液検査して、CTスキャンを撮る。必要に応じてドラック・デリバリー・マシンで不純物を取り除く……それよりあんた、なにか変な事言われたんじゃないだろうね」
加奈がそう言うのに、鈴はそれほどのことは、と答えた。
「加奈さんのことは色々訊かれましたけど……」
「わたしのことじゃなくて、例えばあんた自身についてだよ。余計な事は喋って無いよね」
「ああ、はい……」
鈴は口ごもるように言った。そういえば、自分のことは外部に洩らしてはいけないと加奈に言い付けられていた。何も言って無いです、と鈴は言った。
「そう。それならいいけど。もし、誰かに悪口みたいなのとか言われたら……」
加奈がそう呟くのを、鈴は聞き逃さなかった。つまり、鈴の情報が洩れるとか、そういうことを危惧しているのではなく。
「なににやついてんのさ、あんた」
加奈が訊いてきて、それで初めて、自分の顔が綻んでいるのに気がついた。
それも、そうかもしれない。
加奈は、鈴が何か傷つくような事を言われたり、されたりしないか、それを心配してくれている。情報が洩れるのを怖れているのもあるのだろうけど。だけどこの人は、それ以外でもちゃんとわたしのことを……
「加奈さん」
今度は、はっきりとした口調で
「手、繋いでいいですか?」
「は、はあ?」
加奈が怪訝な顔で返す。鈴は構わず、加奈の右手を取った。
「ちょ、ちょっとなにしてんの」
加奈が慌てたように言った。顔を少し赤らめている。鈴は笑いながら
「こんなに人が多いと、わたし迷子になっちゃいそうです。しっかり護衛してくれないと、上の人から怒られちゃいますよ?」
いたずらっぽく言う。加奈はため息をついて、勝手にしなよ、と言ってくる。鈴は、加奈の手のひらを握り締めた。少しだけ、加奈が握り返す。加奈の体温を感じて――それだけで充分だった。