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確かに自分はでき損ないだ――と加奈は思う。
生まれたときから完全を求められた加奈は、あるときから自分に欠けている何かがあると、感じた。それが何であるかは説明がつかないが、明らかに「無い」と断言できるもの、欠落しているのはきっと細胞や分子では無いもの。存在を知覚できるものではない、観念的なものだ。幼いながらに疑問に思い、施設の大人に訊いて見た。返事は張り手だった。床に転がされた加奈に、大人たちがいつも決まってこう言う。
――余計なこといってンな、でき損ない。
ああそうか、自分はでき損ないなんだ、と。そうした疑問を抱くことが、欠落であって、抱いてしまう自分はでき損ない。考えることを止めれば、完全になれる、自分は。
そう思っても、やはり消えない、欠落感と空虚さ。はまらないピース、収まらないのは肉か、心か。聳え立つ壁が炎を伴い、塵と瓦礫となったときも。焼け焦げた体を、水銀と六価クロムの水溜りに横たえ、遠く霞む都市を臨んだときも。その都市の内部に至ったときも。でき損ない、欠如。欠片を集めてもまだ紡がれない、未完成の器はきっと欠落した何かがもたらしたものだ。鉄が満ち、珪素分子が強固に結合された肉体。ナノワイヤが樹木の根となり、神経を研ぎ澄ましてもなお、足りぬものがある。
欠けているのは精神か、それとも分子か、細胞か。埋らない隙間を補完する術を知らないから、せめて錠剤を飲み下すことで、誤魔化して、嘘をついて。
それでようやく、外形を維持する。
言われなくても分かっている、そんなこと。昔から知っていることだ。改めて言われることでも無い。自分が一番知っているから、他者に言われることを拒む。あんたになにがわかる――と吐き捨てて、一方的に遮断する。わたしはあんたのこと、何も分からない。だからあんたも、分かった風に言うな。分からないのだから、分かろうとしないなら黙れよ――黙れ。言葉に出さずに、叫んだ。
澱んだ内側に沈んで行き、底辺に溜まっていく意識と言葉の残骸が膿となる。吐き出すために撃ち尽くす。弾倉に収まるブリットを、点の真ん中に叩きこむ。
撃鉄を起こし、グリップに軽く口付けた。
的に描かれた黒点が上下左右から飛来するのを、視神経で確認した。
構える、狙う、発砲。
5連発で、響き渡る。人のいない、だだっ広い射撃場の壁に、銃声と金属音が跳ね返って増幅される。耳を押す、音の残滓が鼓膜を奮わせる頃には、黒く塗られた星が撃ち抜かれていた。
波打つ空間が収束し、修復されてゆく。
暫時……
ごとん、と新たな的が立ち、0.1秒の遅れを以って加奈が引き金を引いた。ほぼ直線に近い放物線の延長上、的の黒点に命中した。
終了の合図。
調子はいいみたいだな、FNブローニング・ハイパワー。こいつと出会って、もう5年になるが相変わらずの作動性だ。この銃に、何度も命を救われてきた。幾度となくカスタムを繰り返し、加奈の手の中にはなくてはならないものとなった。この瞬間だけは、こいつが世界の全てと思うことができる。
と、入り口に気配を感じる。
「加藤か」
と加奈は、振向くことなく言った。
「へえ、凄いや。今オレの顔、見てないっすよね? 何でわかったんです?」
「強いて言えば……匂い、かな」
「そんな犬じゃないんだから」
ケラケラ笑って、入ってきた。加奈が銃を射撃台に置くと、加藤が台に寄りかかって
「相変わらずのシングルアクションですか」
とブローニングを見ていった。
「いちいち撃鉄起こすの、面倒じゃないっすか?」
「わたしはこれに慣れているんだよ。操作も、さして面倒ではない」
「ですか……」
一時の間、二人の間に沈黙が流れた。加奈は的を睨み、加藤はぼうっと天井を見つめている。やがて加藤が口を開き
「さっきはすみません、お見苦しいところを」
謝罪の言葉を述べる。あの後、ついに加藤は戻ってこなかった。加奈はブローニングから弾倉を抜いて、射撃台に並べる。
「見苦しいかどうかじゃない。あんたはあの時、任務を投げ出したに等しいことをした」
コンベアで運ばれてきた的を確認する。弾痕は中心より2mmほど、ズレていた。息をつく。
「あの後、部長がどういう説明をするのか。そしてあんたに、どういう任務を課すのか。そういったこと、一方的に放棄したんだ。身勝手な情を振りかざして、そんな奴は“特警”にはいらない」
言葉はきついが、口調は穏やかだった。吐き出した後だからだろうか、自分でもどうしてこんなに優しく話しているのか、不思議だった。
「次からはするなよ」
「はい」
加藤は軽く、頭を下げた。
「うん」
加奈は銃を構える。リアサイトとフロントサイトが一致して、その先にあるマン・ターゲットを照準に捉え、すぐに下ろした。
「あの娘に、特別な思い入れでも?」
加奈が訊くと、加藤は自らの銃、チェコ製の15連発銃を取り出した。マン・ターゲットに狙いを定める。2発、撃つと胸と頭にそれぞれ1発ずつ着弾した。
「どうして、そんなこと訊くんです?」
「やけに同情的というか、どうしてあんなに絡んだのかと思ってね」
「それ、言わなきゃだめですか?」
加藤がもう一度、的に対する。3回、発射炎が焚かれてすべて黒点の真ん中を撃ち抜いた。弾が一箇所に集中し、弾痕がほぼ完全な円となっている。
「別に、言いたくなければいいさ」
加奈が言う。加藤は撃ったままの格好で、しばらく黙っていたが
「……昔、子供を殺した事があるんすよ、オレ」
ぽつりと、語りだす。硝煙越しに的を見据えて、終了のブザーが鳴るとともに銃を下ろした。
「“特警”に来る前は都市警だったんですが、その前は所轄にいまして。そこで、とある細胞密輸組織の事件を追っていました。あんときはまだ、19の若造でした。まだ“中間街”の何たるかを理解していなくて、あそこがどういう所なのか知らなかった」
遠い目を、している。忘却の彼方に置き忘れた記憶の糸を手繰るその目は、幾星霜の年月を重ねたような視線だった。何か、いろいろなものを見すぎたという目を、している。
「それで、ある時組織の運び屋やっている人間を、追い詰めたんです。まあ、切り取った細胞をヤクザに売り渡して、そいつを運搬する奴がいたんです。“蟻塚”の中を、散々追い回してやっと足を止めた。オレは、投降するようにいったんです。そいつが振り返った。顔を見せろ、と言うとそいつは帽子を取った――前々から聞いてはいたんすけど、実際に目の当たりにすると結構、ショックでしたよ」
「何が」
「その、運び屋の顔。小学校卒業したてなんじゃないか、ってくらいの子供でした」
加藤は、煙草いいですか、と言ってマルボロを咥えた。ジッポライターで火をつけて、紫煙をくゆらせる。
「ちょうど、あの鈴って子と同じくらい、いやさらに下だったかもしれませんね。ベトナム系の女の子でした。そいつが細胞を、体の中に隠して運搬していたんです。いかにもヤクザがやりそうな手でしょう? オレはその子に言ったんです。怖く無いよ、大丈夫だ、って。その子は脅えた顔していました。大丈夫だ、って。何度も言いましたが、そこでオレは奇妙なものを見たんです」
長く、ため息をつくように、煙を吐き出して。一拍置いてから、言った。
「光学レンズで体内を走査したんです。そうしたら、延髄に変な機械が埋め込まれている。そこへ上司が駆けてきて怒鳴ったんです、馬鹿野郎、撃て、って。瞬間、女の子の頭が弾け飛んだ。脅えきった顔が膨張して、皮膚が裂けたかと思うと血と脳髄が水風船を割ったみたいに爆ぜて。遅れてきた爆風にオレは吹っ飛ばされました」
「体内爆弾か」
と加奈が口を挟んだ。生体分子機械による自己組織化機能を使った、ボトムアップ方式で体内に爆発物を組み上げる。国連で禁止条約が締結され、もちろんこの国も条約に批准しているが、ヤクザやゲリラに条約は及ばない。
「爆薬の量が多ければ、オレも危なかったですね。奇跡的に助かった。でもその子は……奥歯にスイッチがあって、それを自分で押したんですよ。オレはその子を、見殺しに」
「それは違うだろう。それは、殺したとは言わない。そいつが勝手に死んだ事なんだから」
「でもオレは、その子の脅えた顔を見ていた。あの子はそうしなければならなかった、そうするように体に擦り込まれていたんです。後にその子を使っていた組織の長が捕まりまして、自白したんです。子供を集めて、運び屋に仕立て上げ、捕まれば自爆するように訓練した。もし、自爆なかったら拷問にかけて、さんざん苦しませた後生きたまま爆弾を取り出す。そう、脅していたんです。どの道、彼女は死しか残されていなかった……」
加藤はマルボロを、台に押し付けて消した。
「オレは、あの子を救えなかった。だから、オレが殺したも同然なんです」
「それは」
考えすぎ、そう言おうとしたが加藤が悲痛な顔をしているのに言葉を詰まらせた。下を向いて、痛みを我慢しているように。
「こういうことが行われる、それが“中間街”だって。打ちのめされましたね。人の役に立ちたくて、警察に入ったのに。ここでは、オレは無力だって。それから、都市警に入るために猛勉強したんです。まあ、まさか“特警”に引き抜かれるとは思ってませんでしたが」
そこでようやく加藤は笑った。けれどやはり、どこか哀しげに響く。
「“特警”でなら、ああいう不幸な子供を救えると思ったのですが……救うどころか子供を利用するなんて。そこでつい……」
「つい、と言ってもね」
加奈は銃を仕舞った。
「わたしたちは、慈善事業やっているわけじゃあないんだ。そんなに救世主になりたいなら、都市に留まらず“中間街”に身を投じ、死ぬまでそこで正義の味方をすればいい」
「正義、それって正義とかそういう話ですか?」
加藤がいうのに、はっと顔を上げる。加藤は銃を仕舞って、射撃場から出るところだった。
「正義とか、悪とか。そんな二元論じゃあない、もっと根本的なものじゃないすか。そういうのって」
と、最後に残して。加藤は出て行った。
「二元論、か」
と、無人の射撃場で独り呟いた。
0と1の間には、何も無い。正と負、陰と陽。相反する二つの事象。ではわたしはどうだろう、有機と無機の間に横たわるわたしは――そう思っていたとき
網膜にメールの着信を告げる表示が刻まれる。涼子からだった。
for a while:暫時、しばらく