3―2
「転職しようかしら」
と加奈が、廊下を歩きながら言った。
「どういうことよ、全く。なんでまたわたしがあの子の護衛? わたしはベビーシッターやりに“特警”に入ったんじゃない」
「ま、捜査部じゃ女はお前しか……」
「それがおかしいでしょ。チームで女はわたしだけといっても、諜報部にも科学班にも女性職員はいるでしょうに」
「護衛、となるとお前さんぐらいしか。それに」
と言いかけて、ショウキは何かを言おうとしたが
「あー……やっぱりいいや」
「なんだよ、すっきりしないね」
と言って、口を尖らせた。
「ま、別に24時間体制で張りつけってんじゃねえし。特別手当も出るんだろ?」
「そうは言っても、面倒だな」
網膜には13:00を刻んでいる。銀色のロボットが、廊下の向こうを走行しているのが見えた。
ショウキは、そういえば、と切り出した。
「あの子、鈴って言ったっけ。科学班で精密検査、受けているってよ」
「朝からずっとだよ。うちまで涼子が、わざわざ迎えに来てね」
鈴が起きてくるのに、なぜか笑っていたな、と思い出した。加奈は人を泊めた事なかったのに、凄い進歩ね、などといって。
「仕事だってのに、聞かないんだ」
「ああ、そう。まあそのことなんだけど。さっき、明蘭から連絡が――」
明蘭の名が出ると、加奈が眉根を寄せて嫌悪感を示す。
「検査結果については、原則として開示しないからな。ただ、気になる事があるとかで」
「それ、いつ言いに来たの」
「来た、というかメールが」
「へえ、仲のよろしい事で。プライベートでメールし合う仲なんだ、あんたたち」
ショウキは不可解なものでも見る目つきになった。
「仲って……仕事上、必要なことを連絡して何が悪いよ」
「どうだかね、仕事終った後のことはわからないね」
「何か、やけに絡むな。いくら護衛が、不本意だからって」
別に。素っ気無く返す。ショウキは銀色の髪を掻き
「最近、不安定だな。お前」
「昔からだって、そんなもん」
「いや、だから……」
口を開きかけたとき
「そんなの、放っておけばいいのよ」
来たか――と加奈が顔をしかめた。甲高い声に混じって、相変わらずのきつい香水の匂いが鼻をつく。ブランデーの酒精にも似た匂い。それと同じくらい、どぎついほどの赤に塗られた唇がショウキの耳元に吐息を吹きかけた。
「ご無沙汰ね、ショウキ。たまにはこっちに来てくれたっていいじゃないの、寂しかったわ」
猫なで声で、明蘭がショウキの腕に縋り付いた。豊満な胸を押し付けているのはわざとだろうか。
「用がなきゃ行かねえよ。つーか、離れろ」
ひっついてくる明蘭を、ショウキが引き剥がした。
「つれないわね。そういうところが、またいいんだけど」
歯が浮きそうな甘ったるい、砂糖菓子みたいな声に鳥肌が立つ。いくらアンチエイジングを施しているとはいえ、もう少し歳相応にできないのだろうかと呆れつつ
「いい加減にしろよ、何しに来てんだあんた」
「あら、いたの加奈。あんまり、空気が男っぽいから分からなかった」
露骨に驚いてみせる。ああそうかよ、と舌打ちした。男っぽい、なんてしょっちゅう言われていることだが、この女に言われると余計に癪に触る。
男とか、女とか。性別の差異なんてわずかなものだ。そう言ってはぐらかすのが常だが、どうも明蘭は性別としての「女」ではなく、もっと俗物的な意味での女、という語を用いているようだった。それこそ差異なんかないと感じるのだが、殊更に「女」を主張する明蘭にはある種の執念のようなものを感じる。その執念が、自分の主張と相容れない。それが対立の原因なのかと、最近では思っている。
もっとも、一番気に食わないのが――
「そういうのは外でやれよ、あんたたち、見苦しいよ」
尚もショウキにしなだれかかる明蘭を見て、皮肉っぽく言う。ショウキもショウキだ、嫌ならなぜもっとはっきり拒絶の意を示さない。苛ついた衝動を鎮めるべく
「あのさ、鈴のことで話があるんじゃないの。ならさっさと話せよ」
「んー、まあ話してもいいんだけどお……ホントはショウキに話そうと思っていたのよねー……」
「そいつはいかんぜ」
とショウキが言って
「加奈が聞かないと始まらねえよ、なにせこいつあの子の護衛に就くことになったんだし」
へえ、と明蘭が意外そうな――むしろ蔑むような――視線で。
「あの子の護衛? 余計、危険に晒しそうじゃないの」
「わたしだって好き好んでやってんじゃない、押し付けられたんだから」
うんざりしていうと、明蘭は肩をすくめて言った。
「そう、まあいいわ。そういうことなら、見といてもらおうかしら」
チップを差し出して
「でも……本当に大丈夫かしらね、あんたで」
「しつこいよ、存外に」
袖をまくって、埋め込み端末に差し込んだ。
網膜にグラフィックが浮き上がる。青緑色の粒子が金色の格子を背景に、彗星のように尾を引いて一方向に走る。直線が曲線となり、円を描く。同心円状に広がった。小さな光の粒子が集まって、集合体がやがて仮想空間に模擬人体を現出させる。
「この間は、殆どが簡易検査といった形だったけど」
と明蘭が言って
「今日は結構、入念に調べたわ。CTスキャン、バイオセンシング、まあその他いろいろ。DNAチップで生体も調べたけど、やっぱりなにも出てこない。で、彼女の右腕、の表皮下に注目」
端末を操作して、模擬人体の表面、つまり人間で言う「皮膚」に相当する部分を拡大して、走査。グラフィック上、模擬人体の表面が四角く切り取られて中が露出する。少女の柔肌をナイフで切り開く錯覚を抱いた。明蘭が続けた。
「皮膚の下には、大抵脂肪の層があるんだけどさらにその下、細胞外マトリクスに奇妙な空白が存在している」
淡々として語る明蘭の声は、合成音声のように響く。拡大すると、緑色遺伝情報のコードが浮かび上がる。
「空白も何も、細胞外マトリクスってそう言うもんだろ。細胞と細胞の隙間って」
ショウキが、加奈の端末と有線接続して言う。同じ映像を、見ていた。
「何勝手に繋がってんのよ、許可なしに」
「許可、いるか?」
「いるわよ、普通は」
加奈は不機嫌にそう言った。ショウキは、そりゃ失礼などと言って悪びれた様子が無い。明蘭が続ける。
「飽くまで自然に存在する隙間、ならば看過できるけど。それは明らかに人の手が入ったスペース、いわば“生体内金庫”とも言えるわね」
金庫、か。金持ちがよく、自分の財産の一部を体に隠したり、あるいはテロリストが薬物の運搬に使ったりする。体内に密閉空間をつくり、その中に諸々のブツを隠し持つというものだ。しかしこれは
「狭すぎるんじゃない」
「そうね。カーボンナノチューブをやっと収納できる程度の、ごく微細な空間。そんなもの、普通は何の役にも立たない。なのに、存在している。どう見る?」
「少なくとも」
とショウキが端末から電極を引き抜き
「これで固有主義者の線は消えたな。団体にもよるが、あいつらは人体に、人為的に手を加えることを嫌っている連中だ」
過激なものになると、さらに分子機械の企業を襲うしね、と加奈が言って
「これだけなの? 分かったことは。他に“金庫”は」
「見当たらない。この一箇所だけ」
不可解だな、と思ったがそれで結論が導き出せるわけでもなく
「今後とも、注意する必要があるわね」
チップを抜き出して、明蘭に渡した。マトリックスの映像が消えて、網膜に自然光が差し込んでくる。
「対象が、加藤の言うような囮に相当するのか不明だが。監視を怠るわけにはいかない。今後も」
「監視、だなんて非道い言い方。やっぱり“中間街”出身だと、考え方も荒むのね」
明蘭が刺々しい声を出した。不愉快そうに眉をひそめている。
「何?」
「この間も思ったけど、人間としてどうなのかしらね、そういう発言。心無いというか」
「貴様……」
そろそろ、限界が近かった。これまでどんなにか我慢してきたか、燻り続けた火種を燃え上がらせないように。
「まあ、“中間街”にいる人間なんて、感情がどこか欠けているのかしらね。欠落、ってやつかしら。どこかおかしいのかも、冷たい人」
目の前に血が降りた。
衝動的に手を伸ばし、明蘭の胸倉を掴んで壁に叩きつける。ぐ、っと明蘭の喉から息が洩れた。右拳を振り上げて――もう何も考えられない。今すぐこの女を打ち殺してやりたい。振り上げた拳を叩きつけようと……
「止せ」
ショウキが割って入り、加奈の凶行を止めた。拳が明蘭の、鼻先にある。明蘭は目を見開いて、恐怖というより驚愕している、といった方が相応しい。呆気に取られたように、加奈の顔を見ていた。
「加奈、落ち着け。お前は全身が凶器なんだから」
と、耳元で言う。加奈はショウキを睨めつけて
「なに、あんたはその女の肩持つのかよ」
「そういうんじゃねえ。いいからは慣れろ」
機械の握力が肩と肘を固めて来る。振り払おうと加奈は抵抗すると、その隙に明蘭が加奈の手を振り払った。
「てめ……!」
もう一度拳を振りかぶる。明蘭が脅えた顔で後ずさった。乱れた襟元を直し
「な、なによ。冗談も理解できないの? 脳みそまで筋肉で出来てるのかしら」
まだ言うか――もう一度掴みかかろうとするが、両腕をショウキに拘束されていたのでそれも適わない。
放せ、と加奈は言った。放せ、ショウキ。そいつに一発、お見舞いしてやらなきゃ気がすまない――ショウキが首を振った。
「まあとりあえず」
明蘭はチップを仕舞って、白衣を翻した。しどろもどろになりながら
「また気になることがあったら連絡するから。じゃあね、ショウキ」
小さく手を振って、小走りで去っていった。
「気持ちは分からんでもないが」
ショウキはようやく、拘束を解いた。
「あいつはそれでも一般人だ。力じゃお前に敵わないんだから、そう簡単に手を出すなよ」
諌めるように言うが。
「仲いいじゃん、やっぱり」
代わりに、乾いた声で応じる。
「なんのことだよ」
「身を挺して庇ったりしてさ。相棒のことより、あいつの方が大事なんだろ?」
「だからそういうわけじゃねえって。俺は……」
ショウキが手を伸ばしてくる。加奈はそれを、思い切り叩いて
「構わないさ、そういうのは個人の自由だから。勝手にすればいいだろう!」
まだ何かいいたげなショウキに背を向けて、走り去る。悔しさが込み上げてくるのを、唇を噛んで耐え忍ぶ。
――畜生!
言いようのない苛立ちと、喉の奥に粘液が溜まっているようなわだかまりが、不愉快さを一層濃くしてくる。どうしてわたしが、あんな女にあんな事言われなければならないんだ。大体なんであいつ、ショウキは黙っているんだ。わたしが何を言われても庇うでもなく、それどころかあいつを擁護するんだ。なにがパートナーだ、もう知らない。あんな奴、知るものか!